緑 谷 出久 霊力 小説。 古書・古本販売 宗教

BLEACHの登場人物

緑 谷 出久 霊力 小説

こちらのサイトより転用しております。 otakihogakki. 私どもの年代だと恐いものの代表は「地震雷火事親父」と云われ、 親父は怖い存在であった。 特に、親父の「お説教」は地獄で、長々と正座にて御叱りを被り、 姿勢を崩すや間髪を入れず長い竹の物差しで叩かれる苦行であった。 嫌なら止めれば良いと解っていながらも、 悪さを仕出かし又お説教にあったが、 今では懐かしい思い出になっている。 このお説教と云う言葉は仏教から来たものだが、 以外にもお説教自体を源とする伝統芸能が数多くある。 今回から「説教(説経)」を取り上げ、 その枝葉とも言える芸能がどのようにして 出来上がっていったのかを見て行こうと思う。 以前取り上げた「声明」と共に、 日本の 「歌う芸」 「話す芸」 「語る芸」 の源流と云われ、 ・謡曲 ・平家琵琶(琵琶唄) ・浄瑠璃 ・講談 ・浪曲 ・様々な門付芸 などが発生しており、 現在の歌謡曲もその影響下にある芸能と言える。 このように説経は日本の芸能史に 欠かすことの出来ない存在であるが、 又、説経に流れる仏教思想は あらゆる文学作品に多大な影響を与え、 日本の文学史上でも無視出来ない存在になっている。 本来、説経(説教)と云う言葉は、仏教の経典経義を購読することで、 経典を購読する僧侶を「説経師」と呼んでおり、 音曲を伴う語りを意味するものではなかった。 最初に流行した平安時代の説経は、経典の講釈を中心とする「購説」と、 比喩因縁を盛り込んで経典経義を説く「説経」「談義」とに別れていた。 この時代には、まだ仏教は一般民衆のものではなく、 一握りの貴紳階級を対象としたものであったが、 中期頃から庶民層まで広げることを考える僧侶が生じ始めた。 末期になると活発化し、教えを説く説経師達は仏教の大衆化を図る為に、 無知蒙昧な庶民層に焦点を当て、彼らが仏教を迎え易くする手段として、 教儀を判り易く説く為に機知に富んだ通俗的な法談を行うようになった。 しかし、教義を噛み砕いて説いても限界があり、比喩因縁と結び付ける様になった。 この「法華八講」と云うのは、法華経八巻を一日に朝座・夕座と二回講じ、 四日間にて全巻を購読する法会のことである。 このように頻繁に行われるようになると、 名を成す僧侶の中から説教を専門職とする者たちが出るようになり、 彼らはスター的な存在になっていった。 説教の行う説教師については、皆様ご存知の源氏物語を始め様々な平安時代の物語や随筆には説経僧・説経と云う言葉で 多く出てくるなど、この当時名説経師としてスター的な存在であったのが、 奈良興福寺の清範、延暦寺の院源、浄土教の源信(恵心)等であった。 個々の説教師に対する聞き手の反応も様々であり、 特に宮廷に仕える女房達に持て囃され、 好まれる説経師がどのようなものか、 女性の目から清少納言は「枕草子」30段「説経師は顔よき」の項にて次の様に記されている。 『説経の講師は顔よき。 講師の顔をつとまもらへたるこそ、 その説く事の尊さも覚ゆれ。 外目しつれば、ふと忘るるに、 にくげなるは罪や得らむと覚ゆ。 この詞はとどむべし。 少し年などのよろしき程こそ、 かやうの罪は得がたの詞書き出でけめ。 今は罪いとおそろし。 』 〔説経をする講師は容貌の整った方が良い。 何故ならその美貌な顔をじっと見つめているので、 精神が集中出来、その説く事が心に染み入り尊いと思う。 容貌の醜悪な講師は、 聴く方がついよそ目をしてしまうので集中出来ず、 その結果つい有難い話も忘れてしまう。 故に醜悪な顔の講師は、聴聞者に仏の有難さを理解させられないので仏罰を被るだろう。 この様な事を書くと仏罰が当たるので止めます。 いま少し年が若い頃には、この様な罰当たりな事を平気で書きもしただろうに、 あの世に行くのが近くなった今では仏罰が恐ろしい〕 また、この項の中で清少納言は、 説教僧が説教を行う説経道場や貴族の館が、 貴紳淑女達が華やかな装いにて集う社交の場としての一面も兼ね備えており、 其処には説教が主ではなく、 その場所に赴き社交に励む者も居た様を次の様に記している。 「一、二回聴聞した故に何時も行かなくてはならないと思い、 夏の暑い日盛りに、きらびやかな帷子を見せびらかして着て、 烏帽子には物忌みの札を付けて、敢えて善根を積むために物忌みで 篭っておる日なのに来ていると人に思わせる魂胆なのか来ている。 聴聞を聞かず世話役の僧侶と立ち話をしたり、 聴聞客の交通整理を買って出たり、 久振りに会った人には側に行って座り、 数珠を手慰みしながら世間話にうち興じ、 彼方此方に視線を動かして説教を聴かず、 何時も聴いているので別段耳新しくないとの素振りをしている」 清少納言が書いているように彼女が華々しく女房生活をしていた時代は、 仏教流布を積極的に行うために説経が盛んに用いられ、 人々も宮中や有力公家の館の「講」に招かれ、 説経を聴く事が1つの社会的ステータスともなっていた。 また、説経師の側としても、 有力者の催す「講」の説経を任されることは、 説経師としての力量を認められることとして喜ばしいことであった。 説経の主体も「法華八講」で解るように天台宗の根本経典である法華経を主体にしたものが多かった。 しかし、天台宗を学んだ僧侶達の中から仏教は一握りの者の為のものではなく、 あらゆる階層の者に必要なものとの考えに立ち、 仏教の大衆化を図るために様々な試みを行うものが現れるようになった。 当初は経典を判り易く噛み砕いて説教しても、 一般庶民の聴聞者を引きつけるのには限界があることを知った事になった。 そこで当時刊行されていた「日本霊異記」に記載されている説話を題材にして、 比喩因縁をもって経典解釈と結び付けて語るようになった。 「日本霊異記」は薬師寺の僧景戒によって弘仁14年(823)に完成された仏教説話集で、 中国の仏教説話集を基に地名・人名等を日本に替え、 また、多くの民間説話も収録されたもので、因果応報説話が多く、 仏教的因果応報の理念に立って衆生教化を目的として編纂された説話集で、 特に前世の報いの為に地獄に落とされた話しが多く収められている。 また、同じ頃に「浄土信仰」も徐々に広まり始めていた。 この浄土信仰は既に奈良ア朝期に伝来していたが広まらず、 後に天台座主となった円仁(後に慈覚大師)が五台山にて授けられた 「念仏の法」を唐より帰朝し、 仁寿元年(851)に延暦寺常行三昧堂にて「引声念仏」として行ってから、 三昧堂が法華経主体の天台宗の内にて阿弥陀仏による西方浄土を説く 「浄土教」の念仏道場として存在するようになった。 この教義は浄土三部経即ち 「無量寿経」 「観無量寿経」 「阿弥陀経」 を指し、 その説くところは 「一に深く信ず、自身はこれ罪悪の凡夫にして解脱の縁もなし。 二に深く信ず、阿弥陀仏の本願は衆生を摂取す、 疑なくかの本願に乗じて必ず救はる」 即ち 「罪悪に死し仏願力に生きる他力浄土」 とする 「他力本願」の教義である。 そこに流れる思想は、 阿弥陀仏による極楽浄土に往生する 「極楽往生思想」で、 往生の意味することは 「この世での生命が終った後、西方の極楽に生まれること」 と説いていることである。 この浄土信仰をより早く民間の中で実践したのが 『空也上人』である。 若くして優婆塞 (五戒を受け在家のままで戒律を守り仏教に従事する男性を言う)として諸国を回遊し、 道路の改修・開発、灌漑の利用を薦め、 野晒の死体を回収して火葬にし阿弥陀仏を唱え供養したと云う。 まだ念仏行が世間に知られていない 天慶年間(938〜47)には、 京都にて民衆の中に身を置いて阿弥陀仏を唱えること即ち 「称名念仏」にて庶民を教化し、 人々から市聖・阿弥陀聖と呼ばれる存在であった。 「ひとたび南無阿弥陀仏といふ人の 蓮の上にのぼらぬはなし」の 和歌が拾遺和歌集に収められている。 この「往生要集」はインドに生まれた仏教が、 日本に到達するまでに様々な形に育成発展して来た過程において出来上がった 「往生浄土」の思想と信仰を様を、 様々な経論の中より選び出し、 問答形式にて編纂したもので、 「往生の業は念仏を本となす」を主旨として、 念仏往生の要を懇切に説き、 且つ地獄極楽を説いた仏教書であり、 この書が世に出るや浄土教信仰において 最重要な仏書として位置付けられる様になった。 また様々な知識人にも読まれ、 平安時代中期以降の日本文学作品や絵画などの 芸術などに及ぼした影響は計り知れず、 浄土思想史上における金字塔を成すものであった。 この書に盛られた浄土思想を源として後に 「浄土宗」 「浄土真宗」 「時宗」 「天台宗眞盛派」 などが創設され、また後世になると 「往生要集」 より六道・地獄・極楽に関する個所を抜き出して絵本が作られ、 広く民間に流布され、近世になるとこの絵本を基に 「覗きからくり」 などの民間芸能が生まれ、 また、掛け絵図を基に信者に絵の説明をする 「絵解き」 が寺院や小屋掛けにて行われるようになった。 現在でもお寺にて地獄極楽絵図を掲げ住職が絵解きを 行っておられる所もある様ですし、 読者の中には縁日やお祭りの時に小屋掛けにて 地獄図の説明を聞いた方も居られると思います。 この「往生要集」は当時の説経師達にとっては、 説経の題材を得るには都合のよい事例が多く載せられており、 格好な教本となったし、以後の説経隆盛において 欠かすことの出来ない重要な台本でもあった。 この書に盛られた「地獄観」は、 苦界とも云える現世に生きる者達に取っては身近な存在であり、 素直に受け入れ易いものであった。 この地獄に相対する 「極楽浄土」 は阿弥陀如来の居られる西方浄土にて、 苦しみや煩悩がない安楽境であるとされ、 現世にては求める事の出来なかった 「極楽」 に行く手段としては、生前ひたすら 「南無阿弥陀仏」 の称名を唱える事で、死後如何なる人でも この極楽浄土に生まれ変わる事が出来るとするのが浄土教の教えであった。 阿弥陀仏の浄土と来迎 (人の臨終の時に仏・菩薩が浄土へと導くために迎えに来る事)が 恵心僧都によって特に鼓吹され、且つ誰にも解る様に 平易に「極楽往生の道」が説かれたことにて、 浄土信仰は急速に普及し、当時社会に広まっていた 末法思想と相俟って貴族社会に浸透していった。 この末法思想と云いますのは、六世紀に中国にて考え出された史観で、 釈迦入滅500年間は仏教が正統に実践される「正法」の時代であり、 以後の千年間は仏果(修業を積んだ結果得られる成仏)や仏証を体得した者が皆無となるが、 釈迦の教えと行法は存続する「像法」の時代である。 それ以後の一万年は仏法が衰え廃る「末法」の時代としている。 この思想は当時の我が国の仏教界に根強く定着しており、 往生要集が出された平安中期は「像法の時代」の終末期であった。 あたかもそれに併せる如く摂関政治にて権勢を振るった 藤原道長が萬寿4年(1027)に逝去するや、 摂関政治も翳りを見え始め、 約140年後の仁安2年(1167)に平清盛が太政大臣となり、 天皇の外戚となるや藤原氏支配の摂関政治も終末を迎えた。 また治承元年(1185)に平家の滅亡にて武家政権が確立されるや平安時代も終った。 それは源信に遅れること約200年であった。 それまでの仏教は教義・経典を理解できる貴紳階層を対象にしたものであり、 愚痴・無知・蒙昧・罪悪深重の一般庶民を対象にしたものではなかった。 この法然の説く専修念仏は難解な教義経典を知らなくても、 ひたすら念仏称名すれば極楽往生が出来るとの事にて、 今まで仏教に無縁であった一般庶民に受け入れられていった。 また法然の教えは貴紳・老若・男女を問わない万民のための念仏であったので、 後白河法王・関白九条兼実の帰依を得るようになり、 貴紳・宮中の女官・武士・庶民が争って庵に参集した。 現在の仏教に疑義を抱く、既存宗派の僧侶達が多数その門を叩き弟子となった。 中でも目立つのが保元・平治・平家滅亡と打続く源平の闘争に 従軍した有力鎌倉方武士の無常感による念仏門への帰依であった。 法然の黒谷の庵にての浄土教の説教は、 仏教自体を無縁なものと思っていた庶民層に土に浸み込む水の如く、 民衆の絶大なる支持を得て受け入れられていった。 その理由として上げられるのが、 文盲無知な庶民に浄土教の教義を理解させ宗門を拡大する 手段とし取られた口演(説経)による布教に外ならなかった。 しかし、他宗派との差別化をするには、 興味を抱かせるための庶民性豊かな説経(話芸)であった。 そこで考えられたのが、民衆が好む娯楽的要求を受け入れるために、 比喩因縁談に重点を置いた説教を用い、 語り掛け、身振り手振りを使い、 内容に沿った表情や音色に感情表現を加えた話法が作られた。 この話法を浄土教の説教に取り入れたのが、 天台門より浄土門に転じた 当時説経師として著名であった安居院聖覚であった。 この聖覚は説教の達人として名高く天台宗の高僧ながら、 叡山を離れ安居院に住まいし妻帯し 10名の子供を設け、破戒僧として世間から指弾されながらも、 説教にて道俗を教化していた澄憲法印(藤原信憲の子息)の子息である。 父と同じく比叡山にて天台門を学び、父に劣らない説教者として名を成していた。 しかし、法然の説く浄土教に接するや、 天台宗を離れ、法然に傾倒し浄土宗に転向し、 その高弟となった。 この説教の名人の入門は法然にとって念仏門布教には欠かすことの出来ない存在となり、 様々な説教手法を創設したので、 「説教念仏義の祖」として尊敬された。 法然と同時代に天台の高僧にて澄憲法印と呼ばれる説教達人がおり、 比叡山を降り安居院を住まいにし、 僧の身ながら妻帯し十名の子供を儲け、 世人から破戒僧として厳しい指弾を受けたが、 説教を持って道俗の教化に努め、 安居院流唱導の祖と称されている。 因みに澄憲は保元の乱の中心人物であった 小納言藤原通憲(信西)の子供で僧籍に入った者である。 子の聖覚も比叡山にて勉学し父の劣らない説教者として名を成したが、 山を降り父と同じく安居院に住した。 やがて法然に傾倒し天台宗を離れ浄土宗に帰依し高弟となった。 この聖覚の入門は法然にとり念仏門布教に欠く事の出来ない存在となり、 様々な説教手法を創設したので、 後に「説教念仏義の祖」と尊敬されるようになった。 彼の説教手法は従来の表白体の説教を止め、 比喩因縁談を中心とした口演体説教に変えたことである。 彼の説教手法は法然門下の僧侶に広まり、 庶民を対象にして各所にて説教道場が開かれたので、 浄土宗は一挙に信者を増やしていった。 この浄土宗の盛行に対し天台宗はじめ旧仏教側は脅威を抱き、 様々な圧迫を加えて来たが、浄土門では摩擦を避け釈明にこれ努めて来た。 しかし、後鳥羽上皇熊野行幸中に御側の女官が無断にて 法然の弟子により浄土宗に出家する事件が起り、 これを契機として、承元元年(1207)に「念仏停止」の断が下され、 法然以下主だった弟子が流罪になった。 この事件は浄土教にとっては京都での活動の停止であったが、 反面流罪になった者達がその地にて浄土宗を普及させると云う、 浄土宗の地方伝播と云う側面を齎した。 聖覚は安居院に拠り浄土宗説教手法はを守って来たが、 以後安居院流の説教手法は説教道の大きな流派として厳しい修練と口伝より、 浄土宗に数多くの説教者を輩出し連綿と継承されるようになった。 後に安居院流説教道は節付説教(説談説教)の名にて呼ばれ、 本の話芸に多大な影響を与えている。 この節談説教の方法は、俗受けのため有効で、 声明・和讃・講式などが発展するにつれ、 これらを取り入れて改良され、次第に芸能的要素が加わっていった。 それは奈良県当麻にある浄土宗寺院当麻寺に伝わる 『浄土変観経曼荼羅(通称当麻曼荼羅)』と云う、 「観無量寿経」によって阿弥陀如来主宰の極楽浄土の図相を現した綴れ織の掛け物であるが、 それに纏わる由来を表わした「当麻曼荼羅縁起絵巻」によると、 『 天平宝字7年(763)横佩大臣の姫が当麻寺に入り、 生身の阿弥陀如来に会い、観音が蓮糸で構成したこの浄土図を仰いで往生の素懐を遂げた』とあり、 阿弥陀経を宗派の経典とする浄土宗においては、 この「当麻曼荼羅」が尊信され、 浄土教の普及と共に浄土宗の僧達により多くの注釈書が出版され広く流布された。 この注釈書を基に作られたのが 「絵解き」で、 「当麻曼荼羅図」 を掲げて 「観無量寿経」 の主旨を講説する絵解きは、 浄土信仰を普及させる手段としての 視聴覚による高度な説教であり、 中世末期から近世初頭に掛けて 浄土宗では盛んに行われていた。 また、この縁起絵巻が発展して作られたのが 「中将姫」伝説であり、 姫の名を「中将姫」として室町時代になると 能「雲雀山」「当麻」、 古浄瑠璃「中将姫之御本地」が作られた。 近世になり、これらを集大成した 五段物人形浄瑠璃「鷓山姫捨松」が並木宗輔により作られ、 元文五年(1740)二月に豊竹座にて上演され、 特に三段目「雪責めの段」が有名であった。 やがてこの「中将姫雪責め段」のみを 「中将姫古跡の松」として、 寛政九年(1797)二月に大阪東の芝居にて義太夫歌舞伎狂言として上演され、 現在も浄瑠璃・歌舞伎にて上演されています。 このように 「当麻曼荼羅図絵解」 は本来の説教以外に 猿楽・浄瑠璃などの後世の芸能に大きな影響を与へています。 又、浄土宗の説教者の中からは 落語の祖と言われる安楽庵策伝が、 江戸時代初頭に現れ、 長年に亙る説教の話材を集大成した 笑話集「醒睡笑」を元和九年(1623)に完成させている。 この本の内容は著者の見聞や古今著聞集などの話を 滑稽説教にした小噺集であるが、 その特徴は話の最後を落ち(サゲ)にて締め括っていることであり、 この手法は現在でも落語に踏襲されている。 落語の原点が仏教の説教である話芸である事は、 現在演じられている落語には浄土宗以外に 日蓮宗・浄土真宗などの説教話に題材を得たものが 数多くある事からも明白である。 その説経の形態は安居院流と同じく、 比喩因縁談を中心とする民間説話に重点が置かれていた。 浄土宗の安居院派と共に二大説経道の流を誇って来たが、 この三井寺派の説経道は何時しか三井寺を離れ、 同寺の別所である近松寺に移ったが、 近世になると仏教布教の手段としての三井寺系説経道は廃絶した。 その理由として室木弥太郎著「語り物の研究」に拠れば、 室町期に逢坂山山麓の関寺の支配下にあった 近江の関清水蝉丸宮が放浪芸となった琵琶・説経・祭文・傀儡遊女・放下・辻能などを支配していた。 しかし、関寺が廃寺となると蝉丸宮の支配する諸芸は 近松寺に移管されるようになった。 近世に入ると近松寺の説経道は廃れ、 民間芸能である「説教浄瑠璃(説教節)」を 含む放浪芸を支配する寺として幕末までその権利を維持してきたと、述べられております。 浄土真宗の開祖親鸞は、叡山に学んでいたがその宗義に疑義を抱き、 吉水に道場を開いた法然を訪れ、その教えに傾倒して弟子となり、やがて高弟となった。 法然の門には当事有数の説教者であった安居院聖覚も居り、 親鸞は彼の卓越した説教手法を認め敬慕していた。 法然と共に「念仏停止の断行」により僧籍を剥奪され越後に流された親鸞は、 この地にて念仏門の布教を行い信者を増やしていった。 親鸞は聖覚の称えた「阿弥陀如来の音声を正確に聞き取ろう」を説教の本質と捉え 「聞法」「聞即信」の精神をモットーとし、 布教の手法としては聖覚より取得した説法手法を取り入れ、 通俗説教に最も力を入れて実施し、特に重視したのは「和讃」であった。 和讃は以前に【声明】の項にて説明しましたが、 字の如く和製の「声明」であり、 [教化]とも云われ、説法教導して衆生を聖に化せしめる目的で作られた声明であった。 親鸞はこの和讃を数多く作り布教の際に唱導した。 それは「聞法」即ち説教(教化)の徹底であり、 和讃をして聴衆者の心に教えを深く定着させる事と考え、 浄土宗の教義を庶民に解り易く解説したものに、 声明の持つ節を付け、それを度重ねて唱えさせることにて庶民の心に定着させた。 親鸞の作った多くの和讃は浄土真宗の勤行の中枢とされたばかりでなく、 後に真宗にての説教の中心とされ説教僧の巧みな節付けにより、 演出効果を増し、節談説教または節付説教と呼ばれるようになった。 安居院聖覚の説法手法は真宗の中にて開花し、真宗にての説教五段法が作られた。 それは・ 讃題・法説・比喩・因縁・結勧 と云う五段階の構成にて行う説法で、 特に比喩と因縁の個所は聴衆を惹き付ける最重要な部分であり、 説教者はこの部分に様々な演出を施して講演をした。 この手法は後に説教から「民間の語り芸」が発生する上で 多大な影響を及ぼしている。 三世覚如は宗祖親鸞の事跡を選述して 「本願寺親鸞伝絵」二巻を 興国4年(1343)に作り、視覚による 説教即ち「絵解き」による説教の基本テキストとした。 後に絵巻に添えられた詞書を抜き出して 「御伝鈔」、 絵画のみを抜き出して 「御絵伝」 が作られ、 真宗布教の為の説教に用いられるようになった。 このようにして浄土真宗では宗門拡大の対象を庶民階層に置き、 通俗説教を布教の最重要手段として連綿と行っている。 両道場にて修業を成した唱導師(説教師)達が世俗受けを狙う余り、 僧侶より脱して芸人化して行く経緯を、 僧師錬(虎関禅師)が元亨二年(1322)に著した 「元亨釈書」巻二十九「音芸志」[国史大系所収]では、 『諂誦交生、変態百出、揺身首腕音韻。 言貴偶儷理主哀賛、毎言檀主。 常加仏徳。 欲感人心先感自泣。 痛哉無上正真之道。 流為詐偽俳優之伎。 願従-事于此者、三復予言焉』 と記している。 その意味する事は、 「説教者達が演台から体や首や腕を揺り動かしては様々な型を見せて、 美声で歌い上げ、人に感動を与える為にか、 自らも泣くなど、説教の流れは偽者の役者の技を成していると」 述べ嘆いていることである。 鎌倉時代末期の後醍醐天皇の頃 1321〜38 なると、 上記の様に変質を遂げた説教に和讃の曲節や 平家琵琶(平曲)の語り口が取り入れられ、 より庶民的な説経が形作られるようになった。 また、鎌倉時代も末期になると有力寺院や 神社においてはその経済的基盤が不安定になって来た。 その理由としては幕府が各地の私有荘園に設置した地頭により荘園が侵食され、 全国各地に広大な荘園を有して経済基盤として 成り立っていた有力貴族及び寺院は衰退の道を辿り始めていた。 また、有力貴族の寄進などにより成り立っていた 寺社等は自らの経済基盤を確立する為に、 庶民層に経済的基盤を依存する道を探り、 自己の信仰を広める必要性に迫られた。 その為に寺社に建立に纏わる縁起や 自己の本尊・祭神等に纏わる霊験譚を作り、 布教の手段とし信者獲得を図り信者よりの寄進に拠る経済の安定を考え出した。 この為に作られた 本地物語 (神や仏がかっては人間として生を受け、 様々な艱難辛苦を経た後に神や仏に転生した話)や 霊験譚は、 歩き巫女 (伊勢巫女・熊野比丘尼・出雲巫女など)、 山伏、 高野聖(高野山)、 盲僧、 御師(伊勢信仰)、 廻国聖、 絵解法師 などの下級宗教家により全国に伝播して行った。 彼等によって語られるこれらの神仏の本地談や縁起や霊験譚は、 物語性を持つ説経の一つの形態であり、唱導文学であった。 しかし、これらの本地物語や霊験譚も各地に伝播するに従い、 その信仰がより根強く土地の民衆に受け容れ易くなるよう、 その土地固有の信仰や習俗が摂り入れられる様になって行った。 また下級宗教者と散所の結び付きにより 次第に宗教から逸脱し芸能化して行く時期でもあった。 では散所とは如何なる処であったかと云いますと、 律令制度崩壊に伴ない1000年頃になると、 律令制度下において各司(政府機関)に隷属し、 賎民扱いを受け奈良や京都に居た専門職種の奴婢達が、 受け皿もなく大量に解放された。 これら解放された人々は、 手に有する職も限られ、 居住する場所も失ったので、 新しく貴族や社寺の保有する荒蕪地(耕作不可能な地)に流入して、 定着して「散所」と呼ばれる集落を形成するようになった。 この中には遊芸を専門職種とした散楽所などに属した者達も居た。 この散所の多くは京都周辺の不毛の荒地の為、 年貢(租税)を出さなくてよかったが、 その代替として所有者に全面的に隷属して 様々な労役に服さなければならなかった。 これは取りも直さず官営の奴婢からの解放は、 貴族や社寺に隷属する職業と居住地を制限された 私有賎民階層への切替に外ならなかった。 南北朝から室町時代になり商工業が活発化すると、 散所の人々は労役の暇を見つけて 専門職種を生かした手工業や商業を行うようになり、 散所地の所有者を「本所」として公事銭(上納金)を収め、 職業毎に「座」と云う組織を作って生産・販売の独占を図るようになり、 次第に商工業者として自立していった。 同じ散所でも貴族や社寺の所有地に居住せず、 鴨川や桂川の河原や巷所(道路など非課税の公地の空き地)に 散所を設けて「河原者」と呼ばれた者達も解放された奴婢であったが、 世間からは賎民として扱われていた。 彼らの職業の多くは人々から蔑視される 殺生物・染織・造園・雑芸 など様々な賎業なすものが多かった。 彼らも地域別にz「座」を作り、 有力貴族や寺社を「本所」としていた。 この散所は当初は賎民階層の集落地であったが、 次第に様々な階層社会を逸脱した 「遁世者」 達も居住するようになり、 彼らも何時しか賎民扱いを受ける様になった。 これは取りも直さず世間から散所居住者は 即く賎民と見なされることを意味していた。 当時京都市中に存在した散所は、 ・誓願寺 ・六角堂 ・空也堂 ・霊山寺 ・融通堂 ・北野天満宮権現堂 ・七条朱雀権現堂 ・東山雲居寺 などの社寺周辺や ・北畠 ・柳原 ・御霊神社 附近などにあった。 また、室町期になると素人による様々な芸能への参加が活発化し、 専門芸と区別する意味合いから、 手(素人の意味)を付けてて ・猿楽 ・手曲舞 ・手田楽 などと呼び盛んに行われるようになった。 中には専門芸(道の芸)が途絶え素人芸のみが残るものも出て来た。 手曲舞が散所の雑芸者に伝わり、 道の芸が廃れ、 何時しか散所の芸となったのが「曲舞」である。 この散所と念仏聖との結び付きも深く様々な名前で呼ばれる 下級宗教者が存在し念仏布教に取り組んでいたが、 何時しか宗教活動から離れ芸能活動へと転じる者も出るようになった。 [ 放下僧 ] 放下と云う言葉の意味することは、 禅宗において物事を放り捨てて 無我の境地に入る事を指していた。 後に禅宗系の僧侶達が 宗教的理由から宗派を離れ僧侶身分を放下して、 民衆への布教を一義として 念仏布教をしていた半俗半僧の勧進聖を 「放下僧」と呼んでいたが、 天台宗により次第に弾圧され、 散所に身を置き布教活動を行うようになった。 特に有名なのが南北朝期に 東山雲居寺門前にて説経をして、 説経の合間に余興として ササラを摺り、 鞨鼓を打って、 小歌を歌い、 舞(曲舞)を舞っていた 「自然居士」で、 観阿弥により 能「自然居士」「花月」も 放下僧を扱ったものである。 しかし、この頃の放下僧は飽くまでも宗教者であり、 彼らの行った様々な遊芸は庶民へ説経するための人寄せの手段であった。 それに代わって散所芸能者としての 「放下(ほうか)の徒」 に転化するようになって行った。 その芸としては、 『看聞御記』 応永三十二年(1425) 二月四日条に、 『抑放哥一人参、手鞠・リウコ・舞、又品玉、ヒイナヲ舞ス、其有興賜酒』 とあり、又、同書嘉吉元年(1441)四月八日条に、 『放歌参、手鞠・龍子・品玉等芸其興、細美布一給、りうこ甚上手手也』 とあるように、 放下僧の説経道具であり、 彼等の特徴でもあった 「ササラ摺り」の芸は消滅し、 輪鼓・手鞠・品玉などの曲芸のほかに 放下歌・鞨鼓打ち・曲舞・物語などを主な芸としていた。 [高野聖] 高野聖も放下僧と同じく念仏布教の宗教者であった。 彼等の始まりは僧侶身分や自己の階層身分を脱し、 真言宗の本拠地である高野山の萱堂の地に 厭世隠遁して念仏修業を成していた念仏聖であったが、 次第に数を増し、萱堂以外に西谷・千手平を修業の場として集まっていた。 彼らは修業の後に高野聖として、 回国遊行して弘法大師信仰と 高野山納骨勧誘を主眼に伝導活動を行う事であり、 当然念仏僧として弘法大師や高野山に纏わる信仰譚や 霊験譚・縁起を唱導説経の形にて語り、 一般大衆相手に高野信仰を広めていった。 室町時代以降になると笈に布帛や呉服などを入れて布教の傍ら行商を成して、 生活費を稼ぎ出す様になり、 「売子(まいす)」 と呼ばれる 「商僧」 となっていた。 後に仏や仏法を売る僧侶を罵る言葉となった 「売僧(まいす)」はここから出ています。 [空也聖] 平安時代中期に優婆塞として阿弥陀経を信仰し、 南無阿弥陀仏を唱える事にて庶民を教化し、 また積極的に社会活動に従事したので人々から 「阿弥陀聖」 と呼ばれた空也が、 改めて延暦寺にて天台宗系念仏を学んだが、 観念観想を主体とする天台念仏に疑義を抱き、 天台宗を去り称名念仏に切替て京市中を庶民層主体に念仏布教を行い、 布教の手段として念仏を唱えながら踊る 「踊念仏」 を考案した。 空也が起した称名念仏(空也念仏)は 連綿として受け継がれ、 やがて六波羅蜜寺や空也堂を中心に盛んになっていった。 後に空也堂などの附近にあった散所と密接になり、 空也念仏の聖達による散所が形成されるようになった。 空也聖の特色は 日常「茶筅」や 台所用品である 「ササラ竹」を 念仏布教をしながら京の市中を売り歩いており、 寒中や春秋の彼岸には修業の一環として、 瓢や鉢を叩いて念仏や 和讃を唱えて市中の墓所や斎場を供養に廻り、 また市中の家々を廻り念仏を 唱え布施を受けて居たので 「鉢叩き」 と呼ばれる賎民扱いをされる下級宗教者であった。 なぜ彼等が賎民扱いをされたかと云いますと、 二つの理由があります。 一つは散所に住いしたことである。 散所は即ち賎民の集落と見なされたこと。 二つ目は彼等が扱う竹細工が賎民の扱う業種であったこと。 律令時代には上番する隼人より 隼人舞と竹笠造作を 習得させるために、 隼人司に竹細工所が置かれ専従する隷属の雑戸が設けられていた。 雑戸解放後竹細工に従事していた奴婢(被差別民)が、 何れかの貴族・社寺を本所として隷属し、 散所を形成した処が空也堂の附近であり、 この散所と結び付いて空也聖の竹細工の製造販売が成立した。 江戸中期頃から空也堂の念仏聖の托鉢姿である 「鉢叩き」 の風俗を真似た大道芸をするものが現れ、 鉦を叩き歌うように念仏を唱え門付をしたので、 彼等を称して「歌念仏」と呼んでいたが、 彼等は下級宗教者ではなく物乞いの徒であった。 [唱聞師] 鎌倉後期になると 「声聞師(しょうもんじ)」 と呼ばれる下級宗教者が現れた。 彼等は古くは 陰陽寮(おんみょうりょう)の雑戸に隷属し 警戒や清掃の役も務める特殊職能(賎民)の下級宗教者であった者達で、 律令制度崩壊による雑戸解放に伴い庇護を離れ、 集団を組んで散所を作り家々の 「キヨメ」や陰陽師として生活する下級宗教者となった。 彼等は本来の宗教職能として 平安時代から「金口打ち」を生業として来た。 この金口打ち(金鼓打ち)と言うのは、 不吉の前兆を予感した時に、 不吉を避ける意味合いから当人が寺々を廻り、 金鼓を打ち鳴らす風習が行われていたが、 次第に当事者に代わり代参して 金鼓打ちをする事を業とするものが現れた。 それが陰陽寮雑戸の下級宗教者であった。 右大臣小野実頼の日記である 『小右記』 長和二年(1012)八月三十日条に、 『夢想紛紜、令打百寺金鼓 以下六僧日中内了』 と、不吉な夢を見たので六人の僧侶をして、 一日にて百軒の寺を廻らせ金鼓打ちをさせたとの記述がある。 しかし、鎌倉末期になると、 彼等は生活の手段として従来からの下級宗教活動以外に、 散所系統の雑芸を習得し法体にて芸能活動を行うようになり、 彼等も興福寺などの大寺を本所として 「声聞道」の「座」を形成するに至った。 声聞師の散所としては、 奈良には興福寺と大乗院門跡に属する五ヵ所・十座があり、 興福寺に対するに人夫役を勤めながら、 唱聞道を管掌すると共に七道物と呼ばれる 雑芸( ・鉢叩き ・猿楽 ・歩き白拍子 ・歩き巫女 ・金叩き ・歩き横行 ・猿飼 )の大和での支配権をも有していた。 また、唱聞師の散所として京都には ・桜町 ・柳原 ・北畠 などがあり、 全国各地にも散所が存在していました。 室町末期の公家山科言継の日記 「言継卿記」に拠れば 『桜町、北畠の唱門師が毎年正月に禁中の三毬打(左義長)に囃子役を勤め、 正月四・五日にも参内して千秋万歳と称して曲舞を奏した』 と記されている。 これら下級宗教者と雑芸を兼ね備える唱聞道の者以外に、 早くも南北朝時代に散所声聞師とは別に歌舞遊芸をもって渡世とし、 門付を業とする俗法師の 「唱門師」 と呼ばれる輩が出現した。 この者達は説経師(声聞師)であったが、 何時しか堕落して宗教活動を放棄し、 日常の生活の糧を得るための手段として、 世俗的な説教を家々の門先に立って唱える 門付けをして歩くようになった者で、 この者を指して人々は 『門説経』とか『歌説経』と呼ぶようになった。 しかし、「門説経」と呼ばれてはいるが、 其実態は宗門拡大を行う布教の為の説経ではなく、 放下師が説経の際に用いた「ササラ」を伴奏楽器として、 世俗的な事柄を説経風な節付けにて歌い語る、 日々の糧を得るための物乞いの芸に外ならず、 人々が蔑視して「ササラ乞食」 と呼ぶ仏教から逸脱した賎民芸であった。 彼らの社会的身分は最下層の放浪をなす賎民に外ならず、 彼らの芸を聞いてくれる聴衆の多くは下層の庶民層の者たちであった。 これは同じ頃に現れた 「浄瑠璃姫物語」 を語る者達が、貴賓の席に呼ばれ語っているのとは趣が異なっていた。 その理由は、この 「浄瑠璃姫物語」は 三河の国の名刹鳳来寺の本尊である薬師瑠璃光如来に纏わる仏教譚であり、 三河地方の遊女により語り継がれ、 また歩き巫女などにより各地に伝播し、 やがて琵琶法師により節付けされ、 琵琶を伴奏にして語られる 「浄瑠璃」 となったものですが、 伝播方法が門付芸をなす放浪唱導師の賎民芸でなかった故かと思われます。 やがて門付けの物乞い芸であった門説経の中から、 説経本来の基盤である ・比喩因縁 ・因果応報 ・結縁 の手法にて物語性を持つ語り物が発生し、 時を経るに従い 「物乞い芸」 を脱し、大道芸に転化させる者が現れた。 室町末期には大道芸の門説経として確立し、 伴奏としてササラ以外に ・鉦 ・鞨鼓 などを用いて語るようになっていた。 唯、浄瑠璃姫物語がその流布の過程に於いて早くから賎民芸より脱し、 琵琶法師の芸となって有識者の鑑賞する芸とされ、 十二段草子として文字化され広まったのとは異なり、 説経節は飽くまでも賎民芸として 口伝にて伝承されて来た大道芸であったことです。 説経節の構成は 室町時代に出来た 啓蒙的、 通俗的、 娯楽的な 御伽草子 と呼ばれる説話の手法と同じく、 説経世俗化の最たるものであり、 特に 寺社縁起談、 本地談、 霊験談 が多く、 これらに世俗的な ・恋愛談 ・嫉妬談 ・継子談 ・懴悔談 ・お家騒動談 などを付加して出来上がっています。 江戸時代初期になり 当時普及され始めた三味線を伴奏に用いるようになり、 また浄瑠璃と同じく西宮戎神社に属する傀儡(くぐつ)の芸である 「えびすかき」 「くぐつまわし」 と呼ばれる人形廻しの芸と結び付き、 説経系人形劇である「説経操り」が出来上がった。 この説経操りは大道芸を離れ、 大勢の観客を対象とする 「操り芝居」 として、寛永年間を対象とする 「操り芝居」 として、寛永年間頃に京都四条河原に 小屋掛して興行するよう頃に 京都四条河原に小屋掛して興行するようになり、 口伝にて語り継がれて来たものが正本化される様になった。 現在に伝わる説経浄瑠璃の台本とも言える正本は、 江戸時代に入りそれまで口伝にて語り継がれて来たものが 説経太夫により文字化したものです。 伝承されて来た説経節の代表的なものは、 「五説経」 と呼ばれる 「刈萱」 「山椒太夫」 「小栗」 「俊徳丸」 「愛護若」 です。 これら五説経に共通するものは、 主人公達が何れも有力な武将や裕福な長者の子供として生を受けているが、 何らかの境遇の変化にて不幸になり、 最下層の賎民同様な状態となって諸国を放浪するが、 何れもが最後には賎民の身を逃れ、 昔の身分階層に戻るという構成にて作られていることです。 これは賎民階層として説経節を語っていた者達が、 その根底に持っている感情の発露に外ならず、 彼らも好き好んで賎民となった訳ではなく、 機会があれば現状から脱皮し、 人に蔑まれない身分に身を置きたいとの願望を抱いており、 この願望を寺社に纏わる霊験談に絡ませて作ったものと考えられます。 この様に門説経と呼ばれた大道芸の中から脱皮して 「操り説経」 として自立する者達とは別に、 従来の門付説経を成して喜捨を受ける物乞芸である 「門説経」 に説経節は二分される様になった。 しかし、「操り説経」となっても「門説経」と共に、 放浪芸を支配する 関清水蝉丸宮(後に近松寺)の支配から脱することは出来ず、 幕末までその支配を受けていた。 「歌念仏」については項を改めて詳しく述べますが、 鎌倉初期に浄土宗の祖法然上人の弟子空阿弥陀仏が、 称名念仏の間に文段を入れた事にて始まり、 後にこの念仏の仕方が下級宗教者の業となり、 やがて宗教色を一掃して大道芸の者達が俗謡俚歌を この曲節に乗せて勝手気侭に唄うようになったものです。 元禄三年(1690)刊行の「人倫訓蒙図録」七の 「門せっきょう」と描かれている絵には、 三人連れにて ・一人はササラ ・一人は三味線 ・一人は胡弓を弾き、 編笠を被り、 腰には脇差を差し、 中の二人は羽織を着ています。 門説経の特徴は室町期に放下僧が行なった 「ササラ摺」 を伴奏楽器として連綿と継承しておることですが、 同画の説明に 『 小弓引、伊勢会山より出る。 此所のふし一風あり。 小弓はもとは琉球国よりわたすとかや。 小弓引編木摺はわきて下品の一属。 』とあり、 ・胡弓引 ・ササラ摺 は賎民のなす業で、 胡弓は伊勢会山より出ると記しています。 この会山と云うのは、 伊勢内宮と外宮との間にある 「間の山」 と呼ばれる山坂の事を指し、 この処には伊勢信仰の全国普及が進み、 伊勢参宮(お伊勢参り)が盛んに成ると、 両宮を参詣する人達を相手に伊勢勧進巫女 [伊勢本願慶光院(尼寺)の支配下にて伊勢信仰を奉じて全国を歩く勧進巫女] が歌った 「歌念仏」 を胡弓やササラを用いて唄い、 喜捨を得る賎民芸能者や物乞いをする乞食が多数屯していた。 彼らが歌う 「歌念仏」 をして何時しか 「間の山念仏」 と呼ぶようになった。 この間の念仏が 「間の山節」 となり、後に川崎音頭や伊勢音頭となったと云われています。 また、間の山以外にも参詣客を相手にする様々な物乞いが、 伊勢参宮街道に多数屯していたそうです。 門説経は ササラ摺り以外に 三味線の普及と共に 伴奏楽器として加え演奏するのが普通であったが、 伊勢地方の門説経語り達が更に 胡弓を加え、 元禄年間には 門説経・歌説経の 全国的演奏形態として定着していたと思われます。 【 操り説経の定住化 】 藤本箕山著「色道大鑑」 (延宝六年・1678)に拠れば、 『説経の操りは大阪与七郎といふ者より始まる』 とあり、現在残る説経浄瑠璃正本や 「音曲声纂」 の記述よりみると、 寛永年間(1624〜43)には他の様々な芸能に 伍して操り説経座が京都四條河原に 小屋掛けして興行をしていました。 このように芝居小屋にての上演となると、 ストーリーのあるものが必要となり 正本(台本)が作られるようになった。 それまで口伝えにて語られて来た 説経節も時代の要求故に正本化するようになった。 説経節の初期の正本としては、 寛永八年(1631)に「せっきょうかるかや」、 寛永末年(1643)には与七郎本「さんしょうたゆう」、 正保五年(1648)に佐渡七太夫本「せっきょうしゅんとく丸」 などが作られています。 数多くの正本の内、 ・愛護若 ・信田妻 ・梅若 ・山椒太夫 ・刈萱 が五説経(時代により曲目が異なります)と呼ばれていますが、 他にも ・小栗判官 ・志田三郎 ・熊谷 ・法蔵比丘 などがあります。 これらに共通するのは、 唱導説教から発生したものであるため、 一般庶民が篤く信仰する神仏を引き合いに出して、 その物語が真実であることを信頼させ、 聴衆の感動を誘う有効な手段んを取っていることです。 大阪には慶安〜明暦年間(1648〜57)に 佐渡七太夫が出て道頓堀に操り座を建てたが、 やがて大阪には名代を置き江戸に進出した。 寛文元年(1661)には先に江戸に進出した 天満八太夫(天満座)と競い、 大阪七太夫(佐渡座)と呼ばれ 延宝・天和年間(1673〜83)頃には両座とも確固たる地歩を固めていた。 初代佐渡七太夫の演じる演目は、 「しんとく丸」 「さんしょう太夫」 「おぐり」 などの従来からの五説経を中心にした演目であったが、 二代目の時代になると江戸にて様々な浄瑠璃が流行し始め、 画一的な演目の説経節は次第に飽きられ始め、 浄瑠璃系統の演目である 「法蔵比丘」 「熊谷先陣問答」 「ですいでん」 「伏見常磐」 などを取り入れ、 説経節に乗せて演じ、客は離れを回避する手段を成したが 享保年間(1716〜36)頃を境に世上から消えていった。 佐渡七太夫の進出前の江戸操り説経座は、 津村淙庵著「譚海」に 『 江戸浄瑠璃の始めは結城孫三郎と云う 説教節太夫葺屋町にて櫓を上げて興行せしが始め也 』 [日本庶民生活史料集成第八巻所載・三一書房1969刊行] とあるように、 江戸初期に江戸孫三郎が 当時の芝居小屋などが 建ち並ぶ葺屋町に結城座を開設したことにて始まるが、 万治年間(1658〜60)に 天満八太夫(石見掾)が現れ、 寛文二年(1662)には 禰宜町に操り小屋を建て興行するようになった。 彼の作った天満座は、 宝暦年間(1751〜63)頃まで 江戸説経座として人形浄瑠璃が流行する中で孤高を守っていた。 『青楼雑記』の[説教の事]の項に、 『 同じ頃、結城一角といへるものありけり、 かれは能説教を語りける、 殊に三味線を引くに他の人とかわり左三味線なり、 その調子妙にして、いかにしてひくやらん、 左り勝手にては成にくき事を奇妙にも 能く覚え親しまれ、 吉原遊廓の座敷にも呼ばれるくらたりけり。 結城一角は正徳年中也、 式部太夫権之丞も浄るり語り、 同時代なり。 その頃は説教師はやりけるゆへ、 女郎の座敷へも太夫行って、 せっきょうを語りける。 中にも 結城孫三郎、 佐渡七太夫、 武蔵権太夫、 古天満小太夫、 其の後の小太夫 近頃まで存世せり。 』 とあり、 正徳年間(1711〜15)には 多くの説経太夫が競演して居ることを記しています。 何故説経節が庶民に親しまれたのか、 当時の儒者太宰春台は其の著「独語」に 説経節の特徴を次のように記しています。 『 其の声も只悲しき声のみなれば、 婦女これを聞きては、 そぞろ涙を流して泣くばかりにて 浄瑠璃の如く淫声にあらず。 三線ありてよりこのかたは、 三線を合するゆえに鉦鼓を打つよりも、 少しうきたつようなれども、 甚しき淫声にあらず。 言はば哀みて傷ると言ふ声なり 』 [日本随筆大成1期 7所載] しかし、この様に庶民に親しまれた説経操り浄瑠璃も 享保年間(1716〜35)になると急速に衰退していった。 其の理由としては、 説経節の演目が少ない故に、 江戸浄瑠璃の演目を説経節曲節に替えて演じ、 又、寛文年間になると浄瑠璃の序詞と同様な文体で起こし、 祝言で結ぶ作品を多く作る事などを試みていたが、 次第に飽きられて行った事と、 上方にて様々な曲節にて演じられて居た浄瑠璃が、 竹本義太夫が語り出した新しい義太夫節と言われる曲節により排除されて、 浄瑠璃と言えば義太夫節人形浄瑠璃を指すようになり、 近松門左衛門との結合にて 元禄年間から多くの世話物人形浄瑠璃を 世に送り出し人気を博して居た。 享保初期になるとこの義太夫節人形浄瑠璃が江戸に進出し、 心中など庶民の身近なものを題材とした豊かな世話物が 江戸人に斬新な感じを抱かせた故に流行し始めた事であった。 説経節浄瑠璃の衰頽に見切りをつけた 武蔵権太夫や 江戸孫四郎は 歌舞伎に身を投じ、 結城孫三郎座は説経節から離れ、 義太夫節を用る糸操り人形座に転身していった。 「江戸節根元集」によると、 『 説教節初り年号知らず、 延享年中(1744 〜47)の頃 江戸又は田舎祭礼等に折節興業有、 太夫に 天満万太夫、 半太夫、 長太夫 などとてあり、 三絃は 盲人竜玄、 玄達 などいへる者也。 人形は裾より手を指込で 一人遣ひにて見合は 今ののろま人形也。 古風なるもの也。 隅田川苅萱など段物の 操致せしを覚へいると 老人の物語り言伝ふ 』 [中央公論社版・未刊随筆百種] と、文化年間の伝聞として書かれ、 延享年間には 江戸には説経節の常設小屋は無くなり、 祭礼などに小屋掛けにて興行する程度に廃れて居たことが判ります。 又、「嬉遊笑覧」には 宝暦十年(1760)刊行の「風俗陀羅尼」より引用して 『いたわしや浮世のすみに天満節』の川柳を乗せ、 細々と天満系の説経節が命脈を保っている様を記しています。 説経節操りとして庶民の娯楽として親しまれ、 京大阪江戸にて常設操り芝居座が多く設けられ、 歌舞伎や人形浄瑠璃と肩を並べ、 寛永年間から元禄年間(1624〜1703)に掛けて隆盛を見せていたが、 次第に歌舞伎や人形浄瑠璃に圧され衰退し、 宝暦十三年(1763)頃は消滅した。 【説経節より浄瑠璃への転化】 先述したように説経節は宝暦年間末に消滅したために どの様なものかその全貌を知ることは出来ませんが、 その曲節は義太夫節や他の浄瑠璃や長唄の中に摂取されておりますので、 大体の形を知ることは可能です。 又、五説経はじめ多くの説経節の演目は、 説経節の衰退と共に人形浄瑠璃に吸収され、 浄瑠璃化され上演される様になり、 この中には後に歌舞伎化されたものもあります。 元禄〜正徳年間(1688〜1715)に地歌「こんかい」[多門庄左衛門作詞・岸野次三郎作曲]が作られています。 元禄16年(1703)9月豊竹座。 義太夫浄瑠璃「信田森女占」[紀海音作] 3. 享保19年(1734)10月竹本座。 義太夫浄瑠璃「芦屋道満大内鑑」[初代竹田出雲作]。 この曲は紀海音作「信田森女占」に拠り、信太の森伝説と安倍晴明伝説を結び合わせた作品で、四段目「葛の葉の子別れ」が有名です。 同年同月竹本座。 義太夫景事物「葛の葉の道行」別名「信田妻道行」。 四段目「子別れ」に続く「信田の二人妻」の前半にて、狐葛の葉が夫安倍保名と別れ、信田の森の古巣へ帰って行く部分です。 享保20年2月京都中村富十郎座にて前年10月竹本座初演浄瑠璃を歌舞伎化し、同名本名題にて初演。 同年11月江戸中村座。 一中節「信田妻」本名題「かん菊釣香炉」[二代目都一中作曲]。 元文2年(1736)3月江戸中村座初演。 原拠は半太夫節「神刀小鍛冶初午参」の五段目道行。 安倍保成の妻手がしはが狐である事が露見、信田の森への道行。 安永2年(1773)閏3月豊竹座。 義太夫浄瑠璃「信田妻今物語」。 二段目義太夫景事物「保名狂乱の段」より、後に清元「保名」が作られた。 天保2年(1831)9月江戸中村座歌舞伎狂言「信田森鳴響嫁入」大切所作事、 四世中村芝翫四変化「四季詠所作の花」の一つとして、常磐津・長唄掛合「葛の葉」[松井幸三作詞、常磐津五世岸沢式佐・長唄杵屋六左衛門作曲]が作られた。 「芦屋道満大内鑑」の大詰「信田の森の場」を改作した曲です。 この作品は 説経浄瑠璃 ・「刈萱」 ・謡曲「刈萱」 ・古浄瑠璃「くずは道心」 などを原拠にして、 これに「女性の髪の毛が嫉妬の蛇と化して食い合う」 という説話を取り入れて作られております。 特に五段目「高野山」は、石童丸が顔も知らない父を探しに 高野山を訪れる段で有名です。 義太夫浄瑠璃「刈萱桑門筑紫イシズエ」の五段目より作曲。 初代冨士松魯中作曲。 各種先行曲や縁起伝説に拠り作曲。 筑前琵琶「石童丸」と同じ内容である。 松田文耕堂・千前軒(竹田出雲)合作。 別名「小栗判官照手姫」または「小栗判官」と呼ばれ、 現在でも上演されている。 義太夫節舞地「小栗曲馬物語」 (義太夫浄瑠璃「小栗判官車街道」四段目大切より取って作られている)。 義太夫節浄瑠璃「小栗判官車街道」四段目に拠り、 照手姫の熊野本宮湯元への道行を唄っている。 菅専助若竹笛躬合作。 謡曲「弱法師」と説経節「愛護若」「俊徳丸」を混ぜ込みにた浄瑠璃 「莠伶人吾妻雛形」を更に脚色した作品である。 現在は下の巻「合邦庵室の場」のみが上演される。 紀海音作。 竹田出雲作。 二歩軒・半二・北窓俊一・三郎兵衛・松洛合作。 中の巻「鶏娘」では、 三荘太夫の娘おさんは親の因果が 子に報いの譬えの如く盲目であり、 雪中に白鶏を追うおさんの凄惨な姿は 女形の見せ場と言われています。 外記・閏介・冠子・松洛・半二合作。 近松門左衛門作。 以上縷縷と説経節について述べて来ましたが、 大道芸として世に出た説経人形操りは大衆に支持され、 一時は歌舞伎芝居に伍した娯楽であった。 しかし上演演目の少なさが次第に観客に飽きられ、 新しく世に出て来た 江戸浄瑠璃や義太夫浄瑠璃の演目を説経化したりして、 態勢の立て直しを図ったが、 義太夫浄瑠璃の斬新さに観客を奪われ衰退し、 演奏者自体も見切りを付け、 義太夫節浄瑠璃に転向して行き、やがて消滅した。 その曲節や題材は先述した様に 義太夫節始め様々な浄瑠璃の中に残っています。 同じく宗教より発生した芸能に 「祭文」 を源にしたものがあります。 また、この祭文系統の芸能と説経節とが結び付き 新しい芸能が起きておりますので、 これから暫くは祭文について述べて見たいと思います。 「祭文」と云いますのは、 本来は祭事の際に祭主が神仏に対する 祈願や祝詞(のりと)として用いた文章の事を指した言葉でした。 その基は中国の儒教に於いて、 先帝の霊や天神などを慰める祭事に用いられたものですが、 中国から儒教伝来以後、我が国では ・陰陽道 ・儒教 ・神道 ・仏教 など様々な宗教にても用いられ、 特に平安時代の祭文には 陰陽道的色彩が濃厚に表れていると云われています。 我が国での祭文で最も古い用例としては、 「続日本紀」延暦六年(787) 十一月五日の条にある 『祀天神於交野其祭文曰』 [交野に於ける天神を祭りし、 その祭文に曰く] と云われています。 祭文の形式としては、神道を例に取りますと、 「謹上再拝謹啓」 とか 「奉る」 で始まり、賛嘆や祈願の主意を述べ、 最後に 「再拝」 や 「敬白」 の語にて結ぶようになっています。 また、巫女が神降ろしの際に唱える呪詞も祭文です。 本来祭文は神前にて述べる告文でしたが、 祝詞とは異なり面白い節を付けて読み上げられていました。 この宗教上用いられる祭文を源に、後に 声明、 説経節、 浄瑠璃 などと融合して様々な芸能を生み出しています。 今回からは芸能化して行く過程を述べて見たいと思います。 1.山伏祭文 山伏と云いますのは、平安時代に原始以来日本に存在した山岳信仰に立脚して、 特定の山嶽に登拝修行を志して登攀し、 山中の窟に宿って祈祷修法の行を群れにて行なう者達が現れ、 彼らをして修験者と呼び、その宗教的実践を称して 「修験道」 と云う様になりました。 修験道の本願は、果敢に各地の霊山と呼ばれる山々に登攀し、 危険に身を曝すことにて自己の精神や肉体を鍛える霊力を身に付ける 「行」 をするために、峰入りすることにあった。 これらの激しい修行により凡俗の煩悩を断ち切り、 成仏の悟りを開くことにて、 修行の実践の場として里に下りて、 真言密教の呪法を行ない、 人々の帰依信心を得る事が出来た。 里に下りた修験者は自己の研鑚を開示して 帰依する信者を獲得し、 それを檀家として加治祈祷に当っていた。 山伏と呼ばれる由縁は、 修行の過程にて山中修行にて山に臥し、 また諸国行脚の際に山野に臥すことから、何時しか 「山伏」 「山臥」 と呼ばれる様になったと云われています。 山伏信仰の基盤は真言密教の為、 その本尊である金剛蔵王権現や不動明王を念持していたが、 檀家の要望によっては他宗の本尊である 観音信仰や阿弥陀信仰による読経も 行なう融通無碍な対応能力をも持ち合わせる者達であった。 中世なると修験道の山伏が修行や勧進のために 諸国行脚をする際に、地方の民家に宿り、 依頼により加持祈祷を行なう時の願文には祭文が用いられており、 彼らの読み上げる祭文をして 「山伏祭文」 と呼んでいた。 しかし、加持祈祷の後の直会(なおらい)と 呼ばれる慰労会の場にての余興に彼らが考え出したのが、 身に付ける錫杖や法螺貝などを伴奏として用いて、 世俗的な内容の語りを祭文の形式の則り作り上げた語り物であった。 やがてこの語りを声明等の節付け乗せて語る様になり、 これが娯楽性の乏しい山間部や農村部の民衆に喜ばれ、 「山伏祭文」 とか 「もじり祭文」 と呼ばれるようになった。 また、巫女の呪詞祭文も歩き巫女により、 山伏祭文と同じ経過を辿り俗化し歌謡化していった。 宿先にての余興芸として、 祭文に当意即妙な諧謔を加えた 「もじり祭文」 「若気祭文」 などを演じて庶民に喜ばれていたが、 あくまでもこれは余興であった故に、 これらの祭文は 「そもそも勧進降ろし奉る」 とか 「そもそも祓い清め奉る」 などの言葉にて始まり、 「請願は成就皆満足せしむ敬って申す」 などで終わる祭文本来の形式を 踏まえて作られていました。 この山伏による山伏祭文は 宗教家しての山伏により連綿と継承されて来たが、 何時しか 「もじり祭文」 は山伏の手を離れて一人歩きし、 脱落した山伏や大衆芸能者により語られるようになり、 その内容も益々俗化し、 錫杖や法螺貝などの法具による伴奏が 三味線に替わっていった。 江戸末期になると宇都宮の在方に三味線に変え、 法螺貝のみを伴奏とする 「貝祭文」 と呼ばれる山伏祭文が現れ、 やがて法螺貝を用いず法螺貝の音色を口真似して 「でろでんでろれん」 と伴奏する 「でろでん祭文」 が生まれて一世を風靡した。 又、この口真似に変えて木魚を伴奏にして 祭文を経文めかして語る 「阿呆陀羅経」 も起こり流行した。 2.門付祭文 江戸時代に入ると下級宗教者の零落などにより、 当初勧進の為の余興として発生した 「もじり祭文」 は益々俗化して、 大衆芸能としての 「もじり祭文」 となった。 中でも願人坊主などによる物乞い芸である門付芸となったのを 「門付祭文」 と呼んでいた。 江戸に於いて、特定の社寺には属さず、 寺社奉行の管理監督を受けて、 日本橋橋本町に願人坊主を管理する宿泊施設が置かれており、 仕事は鞍馬寺とさほど変わらず、 武家方や町家よりの依頼にての日待月待の代参、 様々な社寺の依頼による札配や勧進をしていた。 しかし、次第に寺社奉行の管理を嫌い、 自由奔放に生きる事に目覚め、 長屋などに住み着き、 依頼による代参や札配にて生活の糧を得、 その傍ら町中の辻々にて住吉踊を 披露する大道芸能者となっていった。 天和・元禄年間(1681〜1704)になると、 歌祭文の詞章の内容も一変し、 天災地異や当時流行始めた ・駆落ち ・心中事件 など庶民が興味を持つニュース性の高いものが主体となり、 語る口調も 「口説」 の調子にして三味線に乗せて唄い、 三都にて流行した。 また、この歌詞を瓦版に仕立て街頭や社寺の境内など 群衆の集まる場所にて、唄いながら売りさばいて居たので、 現在のワイドショー的な存在で事件を広く報じる役割を担っていた。 当時上方にて流行し始めた 義太夫節人形浄瑠璃には、 これら瓦版にて心中事件を知り、 浄瑠璃化し舞台に掛け人気を博したものが数多くあります。 特に大阪では この歌祭文が人気を得て、 生玉神社の境内に歌祭文を常打にした小屋が 出来ていたと言われて居ます。 世間で持て囃された歌祭文の内で代表的なものは、 実録物である 「おさん茂兵衛」 「お千代半兵衛」 「お俊伝兵衛」 「お初徳兵衛」 「お染久松」 「お夏清十郎」 「八百屋お七」 「小三金五郎」 などで、 近松門左衛門や紀海音の浄瑠璃作品にも取り上げられ、 以後の世話物浄瑠璃に多大な影響を及ぼしております。 また、後に様々な三味線音楽に歌祭文の曲節が取り入れられています。 一例を上げますと、清元の「道行浮塒鴎(お染)」では、 『 ここに東の町の名も 聞いて鬼門の角屋敷、 瓦町とや油屋の一人娘に お染とて年は二八の細眉に 内の子飼いの久松と忍び忍びの寝油を 親達や夢にも白絞り 二人は苔の花盛り しぼりかねたる振りの袖 梅香の露の玉の緒の 末は互いの吉丁字 そこで浮名の種油 意見まじりに興じける 』 と、お染のバックグランドと久松との 不義密通の状況を歌祭文にて唄っています。 このように一世を風靡した歌祭文も、 宝暦年間(1751〜63)になると 京大阪江戸などの大都市では急速に衰退して行き、 その 残滓は地方の盆踊り歌として残り、 また瞽女歌として各地の瞽女により歌い継がれて行きました。 尚、筆者が子供の昭和20年代の始め頃、 東京でも神社の祭礼時の夜店に 「覗きからくり」にて 「不如帰」 や 「八百屋お七」 を歌祭の節付きにて聞いた記憶がありますが、 現在ではどうなっていますか。 皆様ご存じの 義太夫浄瑠璃「新版歌祭文(お染久松)」の野崎村の段にて 弾かれる連弾(野崎)は 歌祭文の曲節を変化させたものと云われています。 4.説経祭文 文化六年(1809)頃に 江戸にて説経節語りの薩摩若太夫が、 説経節と歌祭文とを合体させて 「説経祭文」 と称する一派を創設し、 一時は人気を博したが、やがて飽きられ、 その後四代目まで細々と命脈を保ってきた。 四代目の時に幕府瓦解に遭遇し、 それ以後は八王子の郷土芸能である 車人形の地方(じかた)として存続して現在に至っている。 又、天保七年(1836)頃に 名古屋の新内語り岡本美根太夫が、 新内節に説経祭文の節を加味して祭文江戸説経節を創設した。 明治五年(1872)に弟子の美根松が 説経源氏節と改称し、後に源氏節と改めた。 又、美根太夫の妻美家古が女性の弟子を多く育て、 源氏節を地として芝居を演ずる様になり、 名古屋にて評判を得、 明治三〇年(1897)頃には東京に進出し、 当時流行の女義太夫を凌ぐ名声を博したが、 彼女たちの演技が卑猥なために当局により上演禁止となり、 以後衰退の一途を辿った。 現在この系統を引く一座が名古屋市の在の 甚目寺にあって定期的に公演をしています。 syakkyo. html 6月4日の石響公演に向けて、説経について研究をはじめました。 「説経について」室木弥太郎氏『新潮日本古典集成 第八回 説経集』解説より 説経とは 語り物(口から耳に伝えられる)、口承文芸(昔話・伝説・ことわざを含む)。 「説経節」「説経浄瑠璃」ともいわれる。 近世(江戸時代)では、多く「説経」の字を当てるが、「説教」を当てることもある。 便宜上、「説経」に統一し、お坊さんの「説教」と 区別する。 それを語る専門の芸人も、「説経」・「説教」「説経説き-せっきょうとき)・「説教者」という。 内容「せつきやうかるかや」/語り手「説経与七郎」 時代 説経は、中世の芸能である。 説経らしくその特色を発揮したのは、劇場に現れる以前の野外芸能の時代。 十五世紀末、安土桃山時代(1568〜1600)までさかのぼる。 (この時期の説経を確かめる資料はほとんどない)ひかえめに1600年(慶長五年)前後を説経の時代と考える。 1600年(慶長五年)ごろ、一部の人を別として、一般には文字や本になじまない生活を送っていた。 しかし文字を知らないと不便であり、また知らないことを恥として、文 字の学習が熱心になった。 (当時の『洛中洛外図』を見ると京都の商家や芝居に、文字を記した看板が次第に増えていく)それでもまだまだ文字の文芸から遠く、語り物の大 衆化、国民文学的な普及になっていった。 中世の語り物の主流は、平曲(『平家物語』を琵琶の伴奏で節を付けて語る。 平家・平家琵琶ともいう)盲僧の専業。 中世末になると平曲の人気が落ちたため、他のいろいろな芸能をやっている。 『言継卿記(ときつぐきょうき)』天正二十年(1592)八月十五日の条では、福仁という座頭が、平家のほか、浄瑠璃・小唄・三味線・早物語をやっている。 (三味線をひきながら浄瑠璃を語ったかどうかはわからない) 座頭が浄瑠璃を語ったのは、享禄四年(1531)以前からであるが、(柳亭種彦氏指摘)このころの浄瑠璃はまだ一地方の語り物であった。 矢作(やはぎ)の宿(愛知県岡崎市)の遊女浄瑠璃御前と源義経の恋物語『浄瑠璃御前物語』を語った。 天正(1573〜92)ごろ「尼君物語の浄瑠璃」が行なわれた。 (『奥羽永慶軍記』) 舞曲『屋嶋軍(やしまのいくさ)』と同材らしく、『浄瑠璃御前物語』を語ると同じ節回しで、他の作品も語ったことが分る。 平曲に代わり浄瑠璃が徐々に台頭。 (中世の語り物は、平曲のほかに『曽我物語』『義経記』も語り物を素材にしたと考えられている。 義経、曽我兄弟の悲壮な運命をたどった人物は、取り分け人気があり、死去間もなくから熱心に語られた) 『をぐり』は絵巻物。 (他作品は刊本)寛永十六年(1639)正保五年(1648)ごろできた。 江戸時代以前からよく似たものが行なわれたに相違なく、説経の中の説経。 初期の説経の刊本では『せつきやうかるかや』とわざわざ「せつきやう」何々として、浄瑠璃ではないということを示す。 説経が盛んに行なわれたのは、江戸時代の初期(17世紀)。 浄瑠璃にやや後れて、劇場に進出し、その正本-しょうほん(テキスト)も刊行され、いっそう著名になった。 都市の発達に伴い、大勢の人を一度に収容し、入場料で経営する芝居(劇場)が生まれ、劇場にふさわしい芸能が工夫されるようになった。 (歌舞伎・浄瑠璃) 説経も浄瑠璃をまねた。 伴奏に三味線を用い、その語りを繰り人形で演出する。 また初段・二段・三段と六段ぐらいに分け、各段の間に余興を入れ、お客を退屈させないようにした。 (劇場芸能としての変革) 江戸の天満八太夫(石見掾-いわみのじょう)の時代が一番華やかだった。 (元禄四、五年1691〜92)(信多純一氏による) ササラを捨て三味線を使うようになったのは、三味線の流行によるが、おそらく劇場進出がきっかけで、寛永八年(1631)より少し前のことであろう。 段別のない従来 の説経が、浄瑠璃と同じく六段になったのは、遅くも万治元年(1658)からである。 このころから急速に旧作品の改作、それに新作、浄瑠璃の改 作も手掛け、新しい説経の時代を迎える。 その代表者は、江戸の天満八太夫。 『あいごの若』『まつら長者』はこの時期の刊本を底本にしたが、いずれも古い正本がないため。 古い説経の面影をよく残しているにしても、段分け、段初段末の慣用句、戦闘場面の増補など、説経浄瑠璃の名がふさわしい。 「をぐり」は、段別がなく、古風。 都市の劇場に出入りするようになって、旅の必要がなくなり、寺社や仏神が、都市の観客・聴衆に無縁のものになると、本地物の形式は次第に消えていく。 延宝三年(1675)刊行の『おぐり判官』の冒頭では、「それつらつらおもんみるに、天神(てんじん)七代地神五代より、かく人皇に至るまで、君君たれば臣臣たり、四海波風静かにて、国土豊かに治まれば、なびかぬ草木はなかりけり」とすっかり浄瑠璃風 になり、正八幡も結ぶの神も出て来ない。 浄瑠璃同様重々しい教訓的な言葉で始まり、語り手の威厳を示そうとするようになった。 (佐渡七太夫豊孝は、説経復興の志があったためか、その正本は古体を残している) 一部の説経が劇場に進出した後も、寛永・正保(1624〜48)までは、相当旧態を維持し、その正本も1600年ごろの面影を十分残している。 (「あいごの若」「まつら長者」は、浄瑠璃風に六段になっており、新しい説経) 説経は、浄瑠璃との競争で、その独自性を発揮するため、古体を残す必要があった。 しかし大勢に順応して、浄瑠璃風に新味を出そうと努めるとともに没落していった。 語り手 説経の人々はどういう姿で語り歩いていたか。 ササラこじき---説経を語る人々は、当時、簓乞食ともいわれた。 簓は茶筅(ちゃせん)を長くしたような形で、竹の先を細かに割って作る。 それで、刻みをつけた細い棒(簓子(ささらこ))をこすると、さらさらと音を立てる。 それでササラという。 楽器というほどのものではないが、これを伴奏にした。 後に胡弓や三味線に替えたが、本来はササラである。 京都国立博物館編『洛中洛外図』所載の八坂神社所蔵図の解説によると、(元和のころ(1615〜24)の制作。 )広いむしろの上に立ち、長い柄の大傘(おおからかさ)を肩に寄せてかざし、両手で簓(ささら)をすりながら語っている。 三十三間堂境内の人通りの多い処で、周りに座っている数人の中には、泣いている者もあり、座ったままひ しゃくで金を集めている者もあり、聞き手が投げたと思われる銭が、辺りに散らばっている。 徳川美術館蔵、絵巻『采女(うねめ)歌舞伎草紙』は、初期の女歌舞伎の説経を取り合わせているがもっと堂々としていて、羽織を着ている。 ササラ・大傘・羽織が説経の特徴ある姿であったらしい。 元禄三年刊『人倫訓蒙図彙』大傘を捨てて菅笠(すげがさ)をかぶり、ササラの代わりに胡弓(こきゅう)あるいは三味線を持って門付けをするようになる。 『洛中洛外図』所載、西村啓一郎氏所蔵図では、本来の姿で門付けしているが、それは時代が比較的古いからであろう。 そういう門付けを、当時門説経(かどせっきょう)といい、乞食同様の者であった。 都に歌念仏の日暮(ひぐらし)一派があり、説経を語る。 万治・寛文(1658〜73)ごろの日暮小太夫は特に聞こえたが、この一派は鉦鼓(しょうご)を用いた。 しかし劇場で語った時は、三味線を用いたであろう。 大傘を持つ---何か理由があって古くからの続く。 雨や日をよけるためばかりでなく、田楽法師が傘を持った伝統であろうが、傘の形をした松を神様松という地方があり、おそらく神のよりましといった、権威を示したのであろう。 説経が取材し脚色した以前の語り物を考えると、『かるかや』は高野聖(こうやひじり)かも知れず、『さんせう太夫』『をぐり』は、日本海と大平洋の沿岸を歩く巫女(ふじょ=みこ)であったかもしれない。 いずれにしても、各地を放浪して人の集まる寺社の傍らで語っていた時代の、宗教味を漂わせた語りの形式である。 初期の説経の刊本では語り手は、「説経与七郎」と「説経」何々とする。 『さんせう太 夫』は説経与七郎の正本(しょうほん)『さんせう太夫』明暦二年版(1656)と『しんとく丸』は説経佐渡七太夫の正本。 あるいは寛永八年版『かるかや』も与七郎の、絵巻『をぐり』も両人いずれかの語り物かも知れない。 いろんな点から与七郎・七太夫は師弟か、それに近い関係の人で、写本『かるかや』も与七郎ではないだろうが、同系の人であることは間違いない。 説経には、主に助詞の「て」に付く「に」という間投詞をはじめ、独特の用語がある。 高野辰之氏はこれを「伊勢の特殊用語」としたが、果たしてこれが当時の伊勢方言かどうか確かめることはできない。 しかし蝉丸神社文書等の資料から考えて、与七郎と佐渡 七太夫の出身は、伊勢あるいはその近辺と思われる。 『さんせう太夫』与七郎正本に「摂州東成郡生玉庄大坂天下一説経与七郎」とある。 生玉(天王寺区、生国魂(いくたま)神社境内で説経の芝居の興行をしたのであろう。 (水谷不倒氏解釈) 『色道大鏡』に「説経の繰りは大坂与七郎といふ者よりはじまる」とある。 大坂与七郎がそうであるように、佐渡七太夫も、佐渡で興行に成功したといった因縁によるのではないか。 佐渡は金山でにぎわい、芸能者がこぞって渡島したようで、歌舞伎の創始者と いわれるお国も、ここを訪れたと伝える。 説経は本来野外の芸能であるが、与七郎が人形繰りと結んで初めて劇場に進出した。 画期的なことである。 さらに本屋(板元はんもと)は正本(テキスト)を絵入りの読み物として刊行した。 おかげで語り物説経は、文字になって固定し今日に残る。 都市と劇場と出版が説経を中世からよみがえらせた。 平曲の盲僧、青森県のイタコ、新潟県のゴゼのような盲女、盲人だけでなく、一般に唱導(説法)を専門とする比較的身分の低い僧尼が多数いた。 そういう日常旅を暮らす人々によって、語り運ばれたのであるが、交通の便がよくなり、農村が豊かになった中 世末期、特に戦国時代以降に最も活況を呈し、その中から浄瑠璃が、抜きん出たと想像される。 東海道の勇者が勝利を得たのとよく似て、浄瑠璃の台頭も地の利を得たということがあろう。 浄瑠璃が近世の語り物として成功したのは、現在では分らないが、内容だけでなく、その語り、節回しが平曲などに比べ、余程新鮮であったからであろう。 また三味線という新しい楽器を伴奏に使った点もあり、さらに繰り人形を利用して、劇場芸能にふさわしい演出を試みたということがあろう。 説経は、織田信長にひいきにされた幸若(舞)の一派を除く、非幸若のように乞食同然に転落した者も多いが、語り物の新しい転換に積極的であり、浄瑠璃と対抗しあるいは妥協して、相当長く生きのびた。 説経は幸若のように権力に結びつく機会がなく、宮中に出入りするとか、武将に招かれることもなかった。 また中世の幸若のように、農村に 基盤がなく、定住地を持たず、各地を放浪していたのではないかと思われるふしがある。 身分的にも経済的にも底辺に沈淪(ちんりん)しながら、大衆の支持で、かろうじ てその芸能に生きることができた。 それが近世になっても柔軟に対応し、最後の活力を 発揮したゆえんであろう。 次第に浄瑠璃に吸収されていくが、後の芸能・文芸に及ぼした影響は舞曲を超えるものがあった。 江戸時代、説経の人々は、東は滋賀・三重・岐阜・愛知・静岡・長野、西は京都・大 阪・兵庫・岡山・香川に散在しているが、相互の交流は距離的もあまり行なわれなかったようである。 しかし蝉丸の宮を中心に結び付いていたといえる。 彼等のうち与七郎らのように、劇場に進出して成功した者もあるが、中には賤業(死人の取り扱いなど)を強いられるなど、ほとんどが貧困にあえいでいた。 正徳元年(1711)以降は、三井寺の別所近松寺が、彼等を直接支配するようになったが、寺の権威にすがらねばならぬほど、弱い存在であった。 能楽に「自然居士(じねんこじ)」「華自然居士」「東岸居士」「西岸居士」という曲があり、いずれも古い説経者を主人公とした作品。 特に「自然居士」(観阿弥の作といわれるが、現行のものは世阿弥の改作であろう)は有名で、ここに登場する説経者自然居士は、人買いの男から娘を救うため、ササラをすり、羯鼓(かつこ)を打ちながら舞を舞う。 説法もさることながら、そういう芸能も得意であったことがわかる。 (鎌倉時 代末(十三世紀末)に同名の芸能者があって、それをモデルにし、美化した作品) 自然居士はこの当時から乞食といわれた。 久松家の絵巻『天狗草紙』によると、「放下(ほうげ)(一切の執着を捨てること)の禅師と号して、髪をそらずして、烏帽子をき、坐禅の床を忘れて、南北のちまたにササラすり、工夫(考えめぐらすこと)の窓をいでて、東西の路に狂言す(気違いじみたことをいう)」とあり、絵にはその通りの人 物が、ササラを持って踊り歌っているように見える。 『尾張志』では、自然居士の弟子東岸居士を祭る者があり、それはササラすりという戸籍の外の遊民であるとしている。 従ってササラこじき--説経というのも、この系譜を引くと見て間違いないだろう。 少なくとも十三世紀より約三百年間、ちらりとその姿を見せるが、ササラで象徴される、下層の芸能者である。 企画をした人 目貫屋長三郎、監物(けんもつ)・次郎兵衛は、盲僧でも、芸能の家の出身でなく、素人のように思われる。 後の竹本義太夫、近松門左衛門など、素人によって開発されたということは重要である。 説経や舞曲は素人が飛び込む余地がなく、その殻を破り得なかった。 場所 人がよく集まる所、例えば逢坂山のふもと、京都の三十三間堂、北野神社、大阪の四天王寺、江戸の増上寺など、広々とした寺社の境内などで語った。 時間 一篇を語るのに相当時間がかかり、相当の力量を要したであろう。 中でも、与七郎・七太夫は第一級の芸能者で、ただの乞食ではない。 説経の世界 説経の人々の系譜は、作品と深く関連している。 『しんとく丸』の主人公は盲目のこじき、『さんせう太夫』のつし王も都の権現堂(ごんげどう)から四天王寺までこじき同様。 『をぐり』の小栗判官は餓鬼阿弥(がきあみ)といわれて土車に載せられるが、餓鬼阿弥が癩患者の別名になるほど、それは醜悪なこじきの姿である。 照手姫も転々と売られ小萩の名で下水仕(しもみずし)となる。 奴隷である。 奥州・九州、関東の大領主、都の公家、河内や大和の長者といった、それぞれの出身のきらびやかさは、表面だけのもので、中身はこじきや奴隷といった下層民の世界である。 そこに説経の他の文学に見られない、暗黒・悲惨の一面がある。 『平家物語』や舞曲に見るような、華々しい戦闘の場面はないが、仇敵に対する峻烈極まる処刑は忘れない。 その登場人物は、やや思考性に欠けるが、極めて行動的であって、強情一徹に自分の意志を貫くというたくましさがある。 『かるかや』御台所、姉娘があくまで優しく自分を捨てて夫や息子、父や弟に奉仕し、しかも一片の幸せも得ず落命するはかなさは、後の浄瑠璃や歌舞伎に見る日本的悲劇の祖型を示す。 決断が早く、まっしぐらに行動するのが、主人公の特徴。 『さんせう太夫』の安寿姫、『しんとく丸』の乙姫、『をぐり』の照手姫、『まつら長者』のさよ姫は、いずれも女性であるが、そういった積極的な人物である。 照手姫は恋に猛進あるいは盲進する誠実 そのものの女性。 毒殺された夫がよみがえり、見る影もない餓鬼の姿になっているのに、夫と知らず愛着し、貞節を尽くす。 ありえないような極限の、異常な恋愛であって、愛への献身である。 神仏の霊験・利益(りやく)が現われたり、誓文の神降ろしといった独特の語りがあったり、中世的な宗教性が作品の特徴になっているが、それ以上に登場する人物の強い意 志がまっすぐ貫かれて、神や仏がそれを助けるというのが特色。 それはまたその当時の 進取の気風を反映したものであろうし、新しい時代に迎えられ、芸能・文学に繰り返し 再生されて、今日に及んだ理由の第一であろう。 特に女性達の、まなじりを決して苦痛 に耐え抜くその行動性は、説経の大きな魅力で、後の近松門左衛門の作品にも、そういう女性が装いを新たにして登場してくる。 説経は、すべて説経の人々の敢然な創作ではないと考える。 彼等には、それだけの才能やゆとりがなかったというより、語り物あるいは芸能の、長い伝統と習慣といってよい。 従来よく行われた、大衆になじみの多い作品を、脚色・改作するのが、確かな人気 を得る、最良のやり方で、国文学はそういう過程で生まれている。 説経以前にすでに同材の作品(語り物)あって、それを改作し、脚色したのであろう。 (小栗が四天王寺から熊野湯の峰へ土車で運ばれた通り筋を小栗街道という。 湯の峰に は今も小栗湯の名が残っている。 小栗ゆかりの藤沢市清浄光寺(しょうじょうこうじ)内には、小栗・照手のささやかな墓がある。 この辺りも記念碑がいくつかある) 人間像は、時代の好みに沿って変わる。 そういう語り物はいずれも当初地方に生まれ、全国に伝播したとみてよい。 他の説経作品 説経らしい説経、あるいは古体を残した説経は、他にどういうものがあるか。 『あいごの若』『まつら長者』の底本は、いずれも万治元年(1661)の刊行であるが、そのころまでに実際に語られ、正本として刊行されたものは、 『熊野之権現ごすいでん』(『熊野の本地』)万治元年十月刊 『目蓮記』万治ごろ刊 『梵天国』(写本) 『松平大和守日記』万治四年二月十三日の条に、説経の草紙(正本)として「かるかや」「さんせう太夫」「しんとく丸」「をぐり」「あいごの若」「目蓮記」の他に、 『隅田川』『阿弥陀の本地』(法蔵比丘(びく))『釈迦の本地』『殺生石』(正 本不 明、謡曲「玉藻の前の伝説を素材にしたものか)『といだ』(正本不明、浄瑠 璃のほう で五部の本節(ほんぶし)の一とする「戸井田」と同じものかどうか) 『法蔵比丘』『釈迦の本地』は後に出た正本が残る。 正徳・享保(1711〜36)のころ、佐渡七太夫豊孝という説経、説経の伝統を守ろうと努力。 当時すでに衰退していて彼が刊行したものに説経の古典といっていいものがある。 『さんせう太夫』『をぐりの判官』『こすいでん』(『熊野の本地』)『伏見常磐(ときわ)』『志田の小太郎』『くまがえ』(『熊谷先陣問答』) (『伏見常磐』『志田の小太郎』は、日暮小太夫の『百合若(ゆりわか)大臣』(寛文 二年刊)・石見掾(いわみのじょう)(天満八太夫)の『兵庫の築島』(寛文ごろ刊)などとともに元は舞曲であろう) 「・・・てに」の語法を含む次の刊本は、『くまがえ』『信田妻(しのだづま)』とともに古い説経かも知れない。 一考を要する。 『小敦盛(こあつもり)』正保二年八月刊 『吹上秀衡入(ふきあげひでひらいり)』伊勢嶋宮内正本 慶安四年九月刊 『毘沙門天王之本地』承応三年十一月刊 新作と思われるものを除き、説経の古典を手探りしたのであるが、以上の説経の中 には、浄瑠璃の方で語られているものもあり、純粋の説経とは言いきれない作品があ る。 著作権も上演権もない時代であるから、一つの語り物を説経の方でも浄瑠璃の方でも、随意に脚色し、随意の曲節で語った。 そういう意味で本来説経でないものが相当あるはずである。 そういう中でこれが説経の代表と言えるものを選ぶとすれば、躊躇なく『か るかや』『さんせう太夫』『しんとく丸』『をぐり』の四つを挙げる ことができる。 説経の節 太宰春台の『独語』に、説経の節について「その声もただ悲しきのみならば、婦女これをききては、そぞろに涙を流して泣くばかりにて」「はなはだしき淫声(いんせい)にはあらず、言はば哀みて傷(やぶ)るといふ声なり」とある。 「あらいたはしや」「流涕(りうてい)焦がれ泣きにける」といった句をしきりに用い、ササラをすりながら、ゆるやかなテンポで語ったのであろう。 絵巻物や奈良絵本には節付けがない。 従って『をぐり』も底本が絵巻であるため節が付いていない。 他は絵入り刊本であるため、わずかな節付けがある。 コトバ・フシ・クドキ・フシクドキ・ツメ・フシツメ・・ 比較的几帳面に記している『しんとく丸』(カッコ内の数字は『説経正本集』第一による行数) コトバ(6)、フシ(8)、コトバ(7)、フシ(18)、フシクドキ(5)、コトバ(15)、フシ(29)、コトバ(13)、フシ(27)、ツメ(17)・・・・ 他の本と併せ考えると、コトバ(詞)・フシ(節)・コトバ・フシと交互に語るのが基本になっていたようだ。 コトバ---日常の会話に比較的近く、あっさりした語り方。 フシ---説経独特の節回しがあり、情緒的に語ったのであろう。 コトバとフシが交替してリズムを作っていく間に、クドキ(口説)ツメ(詰)を適度に交えて、全体的に起伏・変化を与えているように思える。 しかし曲節についての表記はどの本も不完全で『かるかや』も、中の巻からようやく丁寧になり、語りの句切りを示す(山のようなマーク)の下に、コトバとフシを大体交互に記している。 この本の場合、それ以外の曲節の名称は出て来ない。 しかしクドキやツメは古い伝統であるから、『かるかや』にもそういう語りがあったに違いない。 『さんせう太夫』では「きやうだいの口説きごとこそ哀れなり」の次に、フシクドキ(フシの部分のクドキであろう)として「あらいたわしやなきやうだいは、さてこぞの正月までは、御浪人とは申したが・・」と続く。 恐らく物悲しい沈んだ調子の語り方が されたのであろう。 聞く人を泣かせたのはこういう部分であったと想像される。 ツメは急迫した場面に用いられたようで、『さんせう太夫』の場合、邪見な三郎が安寿に焼き金を当て拷問する時、お聖が進退極まり誓文を立てる時などの行われる語り方で ある。 『あいごの若』にはキリ(切)と三重がある。 これは場面の終わりに一句切り(ひとくぎり)つける際に使われるが、どういう語り方で三味線との関係はどうかということは全く分らない。 この二つの曲節は明らかに区別があるが、その違いも分らない。 ワキという符号の付いたところがあるが、これは太夫に次ぐ者としての脇である。 本来は太夫が一人で語ったのであろうが、ワキが太夫を助けて一部を語ることが行なわれ、寛文七年版の『さんせう太夫』の例では、コトバの相当部分を語り、フシの一部を太夫と「つれぶし」で語る場合もあった。 解題 『をぐり』---本地物(ほんじもの) 「をぐり」の冒頭は〈そもそもこの物語の由来を詳しく尋ぬるに、・・おなことの神体は正八幡荒人神〉、末尾は〈小栗殿をば、・・正八幡荒人神とおいはいある。 同じく照手の姫をも、十八町下に、契り結ぶの神とおいはいある。 ・・〉 小栗と照手は、それぞれ墨俣の正八幡と契り結ぶの神(結神社)として祭られているが、ここでは、その二人が神となる以前の姿、神の本源、すなわち本地である人間につ いて語られている。 神の縁起を語る・本地物の形式をとる。 (これが説経の特色)(都市の劇場に出入りするようになり、旅の必要がなくなり、寺社や仏神が、都市の観客・聴衆に無縁のものになると、本地物の形式は次第に消えていく) 「をぐり」別本(奈良絵本)では、小栗が墨俣の正八幡の御子で、後に都の北野に、愛染明王(あいぜんみょうおう)として祭られ、同じ場所に照手も結ぶの神として祭られたとしている。 (『山城名勝志』によると、北野神社の近くの法化堂(ほっけどう)に、愛染明王が祭られていたことがられている) それより後に出た別本(佐渡七太夫豊孝本)では、小栗は常陸の国鳥羽田(とっぱた)村の正八幡結ぶの神として祭られたという。 以上三つの本は、共通して二人が正八幡大菩薩や結ぶの神に結びついている。 結ぶの神は男女の縁をとり結ぶ神で、愛染明王も愛欲をつかさどり、恋愛を助ける神である。 小栗の剛勇、照手の恋愛は、いずれも超人的なものであり、右の神々に結びつくのは不自然ではない。 しかも、はっきりとした地名を残している点が注目される。 実際に語られた場所によって、地名を異にしたのではないか。 また一般庶民があつく信仰した神仏を引き合いに出して、その物語が真実であることを信頼させ、それだけに聞き手の感動 を誘う有効な手段になったに違いない。 藤沢市の清浄光寺(しょうじょうこうじ)(時宗)と深い関係がある。 この寺には照姫(照手姫)が永享元年(1429)に建てたというお堂があり、照手姫・小栗ゆかりの品を蔵していた。 照手は永享十二年に死去し、長生院寿仏尼といったという(『新編相模 国風土記稿』)。 史実として信を置けないが、ここが照手と小栗について語り歩く、巫女あるいは比丘尼(びくに)といった女性たちの根拠のなっていたことは確かである。 また本文に出てくる墨俣(すのまた)の宿には八幡宮があり、その境内すぐ西に照手の社というものがあった(私見ではこの宮は「足日女子(たるひをなご--満ち足りた日の女)殿とも言っ たのではないか) そのさらに西方揖斐川(いびがわ)の渡し場に近い、結村の結大明神も、照手の社とも小栗の社ともいい、照手の鏡を置くといわれる。 (以上『和漢三才図会』『美濃国古跡考』『美濃明細記』による) これらは、女性の語り手の遺跡のように思える。 福田晃氏によると、小栗の荒馬乗りなど馬の部分は、常陸(ひたち)の国小栗郷で醸成されたものである。 また小栗と敵対する横山も馬と関係の深い家である。 小栗・照手・ 横山・鬼鹿毛、毒殺と蘇生、観音の身代りなど、清浄光寺及びその近辺に、伝説としてその跡を残していることを思うと、『をぐり』の大部分はこの寺と関係の深い人々、特に女性によって語り物としてまとめられ、説経はそれを素材にしたと考えられる。 従っ て『をぐり』は、小栗謀反の一件を伝える『鎌倉大草紙』によったものではなく、『鎌倉大草紙』も説経が素材にしたと同種のものを、エピソードとして記載したのではなか ろうか。 美濃の国には数カ所に説経の人々が居て、寛文九年(1669)の記録では、墨俣に近い竹が鼻(羽島市内)に、庄太夫という説経の居たことが知られている。 しかし本書の『をぐり』が彼等美濃の説経によって作られたとするのは無理であろう。 もっと複雑な経過をたどって説経の大事な曲目に成長したのであろう。 『をぐり』関連本 ・底本 絵巻『をくり』(グでなく、ク)(寛永後期〜明暦ごろ写) ・校合 奈良絵本『おくり』(近世初期写)---略称「奈良絵本」 ・仮題『をぐり』(寛永初年刊、古活字版丹緑本、上中下三巻のうち下巻残存)---略称「古活字版」 ・草子『おぐり物語』(寛文末延宝初年刊、鶴屋喜右衛門版、三巻のうち中・下巻残存)---略称「草子」 ・『おぐり判官』(延宝三年孟夏刊、正本屋五兵衛版)---略称「延宝版」 ・佐渡七太夫豊孝正本『をくりの判官』(正徳・享保ごろ刊、江戸惣兵衛版)---略称「豊孝本」 『をぐり』は、後に多くの作品を生んだが、近松の『当流小栗判官』、その改作『小栗判官車街道』(文耕堂・千前軒作)が有名。 蝉丸(さらに一知識!) 江戸時代の記録によると、説経の人々は、蝉丸(せみまる)を祖神とした。 蝉丸は百人一首の「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬもあふ坂の関」で知われている人で、説経の人々は逢坂山の下と上にあった蝉丸の宮(大津市蝉丸神社)の祭礼に各地から集まり神事に奉仕した。 この社は本来道祖神を祭り、旅人の守護神であったが、いつのころか蝉丸を合祀した。 蝉丸はこの歌を載せた『後撰和歌集』の当時、天暦五年(951)のころ、あるいはそれ以前の人であるが、その伝記はほとんど残っていない。 伝説あるいは作り話として、延喜(醍醐だいご天皇)第四の皇子といわれ、琵琶の名手でありながら、盲目のため逢坂山に捨てられ、姉君は逆髪(さかがみ)といって狂人であったという。 (謡曲「蝉丸」) 蝉丸の宮では、この悲惨な伝説に尾ひれを付けた、「御巻物抄」というものを作り、説経の人々に金と交換し下付した。 これが彼等の身分証明書で、これを所持しないと説経が語れなかったらしい。 それには蝉丸は妙音菩薩の化身であって、衆生救済を願い、逢阪山を上下する旅人に乞食(こつじき)をするが、それは利益(りやく)方便のためで、心中少しも卑劣なことろはないと記されている。 参考文献 ・作品を翻刻した基礎資料 横山重編『説経正本集』第一から第三(昭和四三 角川書店)解題の他「第三」に信多純一氏の論文二篇を収める ・単行本に収められ比較的まとまっているもの 黒木勘蔵『近世日本芸能記』(昭一八 青磁社)のうち「説経の研究」 佐々木八郎『語り物の系譜』(昭二二 講談社)のうち「八説経」 和辻哲郎『日本芸術歴史 第一巻(歌舞伎と浄瑠璃)』(昭三〇 岩波書店)のうち「第三編 説経節とその正本」 室木弥太郎『語り物(舞・説経 古浄瑠璃)の研究』(昭四五 風間書房)のうち「第三篇 説経」 岩崎武夫『さんせう太夫考--中世の説経語り--』(昭四八 平凡社) 荒木繁・山本吉左右『説経節』(東洋文庫)(昭四八 平凡社)「山椒太夫」ほか五篇を載せ、注釈・解説を付す ・論文として古典的価値を持つもの 柳田国男「山荘太夫考」(『物語と語り物』所収『柳田国男集』第七巻) 折口信夫「身毒丸」(『折口信夫全集』第十七巻) 同「餓鬼阿弥蘇生譚」「小栗外伝」(以上『古代研究(民俗学篇一)』所収『全集』第二巻) 同「小栗判官論の計画(「餓鬼阿弥蘇生譚」終篇)」(『古代研究(民俗学篇二)』所収『全集』第三巻) 同「愛護若」(『古代研究(民俗学篇一)』所収『全集』第二巻) 島津久基『近古小説新纂初輯』(昭三 中興館)の「さよひめ」の項 もどる 遊行座 東の宮美智子 kcan tg7. so-net. konan-wu. htm 講談の源流 話芸としての講釈(講談)の源流をさぐる場合にも説教の系譜をたどらねばならない。 「経典講釈」というものは法門講談としてきわめて重要なものである。 「講釈」「講談」の用語は中世の仏教関係の文献には頻出する。 手近な文献で例を引けば『花園院天皇宸記』元亨二年(一三二二)十月十日の条に「問答之次第。 衆僧着座の後一僧善導の観経釈を談じ、之を講釈す」とあり、仁空実導著『西山上人縁起』(一三八六)には「おほよそ黒谷の門弟其数多しといへども、本疏の講釈に至りては聞者はなはだすくなし」「中陰五旬の間日々の法前の講釈七々の諸尊の讃嘆」とあり、『蓮如上人御一代記聞書』には「アルヒハ講談、又ハ仏法の讃嘆」などの用例を見ることができる。 経典の真意を詳しく解釈し、講義することを「講釈」という。 これは説教の重要な一分野である。 真宗では「説教」と「講釈」が、つい最近まで区別して行われていた。 現代でも寺院で「講釈」という貼紙を見ることがある。 真宗でこのように区別していたのは、説教に二つの系列があることを意味している。 一つは純粋の経典講釈(法語の講釈も含む)であり、今一つは演説を中心にした説教の系列である。 話芸としての講談の源流は主として前者の方に求めることができる。 古い時代の講釈の形は諸文献に見出すことができるが、特に『伊呂波字類抄』に「講説・説教・談義」の区別が示され、ここにいう「講説」が純粋の経典講釈をさしているのは注目すべきである。 『中右記』には、ほとんど全巻にわたって講師の講釈が記されている。 仏教における講釈は、中古以前からきわめて盛んであった。 聖徳太子の講経をはじめ、『法華経』の講釈が盛んに行われたのは、すべて純粋の経典講釈の系列の発展であった。 経典講釈の方法による説教は、中古から中世にかけて興隆したが、鎌倉仏教のもとにおいても節談説教(節付説教)と並行して進展していった。 通俗的な立場に流れる説教に較べて、経典講釈の方は常に堅実であり、難解であり、思索的な方向をたどっていった。 法然・親鸞・日蓮・道元・栄西・一遍らの中世仏教の祖師たちは、一方において通俗説教発展の基盤を作るとともに、一方では「法語」という経典講釈の系列の唱導体をのこしている。 きびしい宗教体験に裏うちされた「法語」は、きわめて深い真理を示す高度な説教の役割を果たすことになる。 「法語」が成立してからは、日本仏教各宗において、その克明な講釈が説教の重要な一分野として宗学(宗派の教学)とともに研究されることになった。 従って話芸としての講釈の源流にも経典講釈を継承した筋があることを考えなければならない。 講釈(江戸時代に「講釈」と「講談」は一応区別があったが、一般に「講談」というようになったのは明治に入ってからのことである)が、今日のごとく寄席演芸としての話芸になったのは近代に入ってからのことであり、少なくとも明治に入るまでは、教育的職分を果たすというプライドが講釈師にはあったはずである。 明治以後、寄席演芸には加入してからでも講釈師だけは「先生」と呼ばれて今日に及んでいるのは、「講釈」という呼称そのものに指導的な意味が含まれているからである。 戦記物語と法語 仏教の講釈の型が確立して歴史的展開をとげていく中に、戦記物語(軍記物語・軍談)が出現したことは、講釈の歴史にエポックが画されたといえる。 戦記物語は話芸発展の一翼をになう重要なものであり、説教の系列の上でも講釈の一種として重視しなければならない。 経典講釈の読み口は、独特の型をつくって受けつがれていてたことが考えられるが、儒教の講釈もほぼ同様の読み口であったと思われる。 それは日本語の特質から容易に考えられる。 そこへ戦記物語が加わり、読みものとしての工夫か一段となされることになった。 本を読む時に声をあげることは実際には非常に効果的で、読むものの発声・抑揚などは、聴き手がある場合には評価の対象となる。 経典講釈の講師も聴き手のきびしい批評を受けた。 まして戦記物語のような文学的なものは読み方の工夫が特に大切である。 『保元物語』『平治物語』『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』などは、経典・法語と同じようにいずれも黙読ではなく、声をあげて読んで聴かせることによって一段と効果を発揮するものであり、殊に『平家物語』や『源平盛衰記』は、諸行無常と浄土教信仰を説く末法思想下の説教には最もふさわしいものであった。 これも説教文学の一つというべきであろう。 戦記物語と法語とが密接な関係をもっていることはいうまでもない。 戦記物語だけでなく鴨長明の『方丈記』も説教の方法で書かれたと見たものがあった。 加藤盤斎の『長明方丈記抄』には『方丈記』をさして「此記は四段に分て見るべし。 (中略)一段めには所詮の理をのべ、二段には法説譬喩因縁説の三周の説法に准て、はかなきことはりをかけり。 因縁説の下に大小の三災のことをありし昔物語に合せてかけり。 三段には我身のむかしのことをのべて領解のこゝろにかけり。 四段に方丈の記の趣をのべたり」とあり、『方丈記』が仏書(説教本)と見なされている。 この説は大いに当っていると私は思う。 『本朝話者系図』では『徒然草』が噺の本とみなされ、吉田兼好は話者の一人として加えられている。 長明も兼好も、どちらかといえば落語の系列よりも講釈の方の系統で考えた方が体系的には理解しやすい。 御伽衆・御伽の衆 『平家物語』『源平盛衰記』や『太平記』が琵琶法師や物語僧によって中世のころに口演されたことは説教の一つの変形として注目したい。 近世講談の源として軍談読みが登場したのは、決して忽然と生じたのではなく、旧来の説教(講釈)の変形と私は見たいのである。 説教の世界で伝承されてきた講釈の方法が変形を示していく例は、さまざまな形で見ることができるが、戦国時代にはその好例があった。 戦国大名をとりまく御伽衆・御咄の衆の中に僧形のものが多い。 御伽衆がいつごろから起こったものかは詳細を欠くが、戦国武将が御伽衆をかかえていたことは桑田忠親氏の『大名と御伽衆』に詳しく述べられている。 『醒睡笑』の記事によると室町時代には「同朋」と呼ばれるものがあった。 また前田利家の御伽衆の中に「物読み」というものがいて講釈を行ったことが『利家夜話』『村井重頼覚書』の中に見える。 この同朋や物読みの中には芸人や茶人もいたが、僧形で話をするものが多かった。 この同朋や物読みが先駆となって御伽衆や御咄の衆と呼ばれる人々ができたのは、ほぼ間違いないであろう。 同朋や物読みの人々が、多く僧形であったのは、話上手の姿として僧形がふさわしかったからであろう。 この伝統は近世後期まで続く。 宗教家でない僧形のものが多数、芸人(話芸者)として登場するのは講釈の世界において特に著しい。 これは、説教者が話上手のモデルとして常識になっていたからであろう。 講釈をもって渡世するためには、僧形でなければ商売にならなかったのである。 講釈には、むろん神道系・儒教系のものもあったが、本書では仏教系のものが重要であるので、その系統を主として考えたい。 戦国時代の御伽衆の中で特に有名な由己法眼は、八百人に及ぶ豊臣秀吉の御伽衆の中でも最もすぐれた人物の一人で、外典においては第一人者であり、『天正記』の著者としても知られている。 彼は高僧または学僧になる道をまともに進まず、御伽衆として「物読み」となり、講釈を通じて実社会を啓蒙するという生き方をしたのであった。 この由己法眼のような生き方をして御伽衆・御咄の衆に加わっていた僧は多数あり、いずれも講釈の進展を助けるような業績をのこした。 この物読み僧たちは、旧来の講釈(説教)の方法で弁じていたことが容易に想像できるが、それが次第に話芸としての読み口に変わっていったのは、やはり近世に入ってからのことであろう。 「太平記読み」というものは、物読みの系統から出るのだが、弁法は説教の一つとしての講釈の系を引くものであろう。 「太平記読み」も本来は啓蒙・教訓的な使命を帯びていたもので、決して娯楽中心のものとして発生したのではないと思われる。 一橋大学機関リポジトリで興味深い内容を見つけました。 lib. hit-u. lib. hit-u. lib. hit-u. pdf pdfは保存できるようです。 wind. htm 初代 若松辰太夫 わかまつたつたゆう 説経節の師匠。 説経節とは江戸時代から大正時代にかけて流行した、 三味線や人形などを使った語り芸能をいいいます。 明治のはじめ、? 説経節の名人? と言われた 漆原四郎次 うるしばらしろうじ がいました。 四郎次は、江戸時代後半の文政 ぶんせい 6年 1823)、 外田ヶ谷 そとたがや 村に生まれました。 5代目薩摩若太夫 さつまわかたゆう として活躍していた 板橋(東京都板橋区)の諏訪仙之助 すわせんのすけ を師匠とし、 「薩摩辰太夫 さつまたつたゆう 」と名乗りました。 姓を「若松 わかまつ 」に改め、「若松辰太夫」と名乗るようにしました。 彼の声は素晴らしく、物語の人物が目に浮かぶようであったといわれます。 のちに隠居した四郎次は 「日暮竜ト ひぐらしりゅうぼく 」と名乗り、 多くの弟子を育てました。 菩提寺の外田ヶ谷にある宝性寺 ほうしょうじ には 四郎次の供養塔が残っています。 そこには群馬・栃木・東京に及ぶ 約1,000名もの関係者の名が刻まれています。 明治28年 1895 10月20日、72歳で亡くなりました。 浪花亭駒吉 そうした芸(説経節)に魅力を感じた浪花亭駒吉 なにわていこまきち は、 外田ヶ谷に長く住み込んで、あの浪花節 関東節 を生み出しました。 説経節と絵解き 「絵解き」は、「視聴覚説経」とも言われるそうだ。 耳の聞こえない人たちに伝えるための役割も果たしていたんだそうだ。 「説経節のジグソーパズル??」って感じなのでしょうか? 「絵解き」について調べてたところ以下のページを見つけた。 osakanews. htm 一遍 旅に生きる 苦闘編 十、 高野山(2)「かるかや」 パズルの面白さ 一遍の足跡をたどっていると、行く先々で似たような伝説や説話に出合うのはなぜだろう。 ジグソーパズルを解くような面白さがある。 説経節「かるかや」で知られる苅萱(かるかや)道心と石童(いしどう)丸の物語など、その典型だろう。 物語の舞台は、福岡・太宰府、和歌山・高野山、長野・善光寺。 これまで見てきたように、すべて一遍ゆかりの土地なのだ。 こんな物語である。 九州6カ国の守護職、加藤左衛門尉繁氏(しげうじ)は、世の無常を悟り、妻子を残して高野山で剃髪する。 繁氏が出家当時、まだ母の胎内にいた石童丸は10数年後、「父に一目会いたい」と、 高野山を訪ね、母を麓の宿に残し、一人山へ登るのだった。 が、苅萱は「修行のさまたげになる」と、父親とは明かさず、石童丸は落胆して山を下りる。 宿へ帰ると、母は慣れぬ長旅の疲れなどで、わが子の名を呼びつつ息を引き取ったばかり。 故郷の福岡へ帰ると、3歳上の姉、千代鶴姫も亡くなっていた。 天涯孤独となった石童丸は、再び高野山へ。 「ぜひあなたのおそばで」とすがる石童丸に、苅萱は父とは名乗らないまま師弟の契りを結び、 高野山の「苅萱堂」で34年間の仏道修行。 やがて苅萱は「善光寺如来のお告げ」と善光寺へ旅立ち、大往生、石童丸も後を追って善光寺へ。 一刀三礼の地蔵尊を刻み、不断念仏で父の菩提を弔うのだった…。 苅萱は、一遍が若き日、修行をした福岡・太宰府の苅萱の関守だったという伝説があり、同市内には碑も残っている。 おまけに、繁氏出家の動機がおもしろい。 表向きは、正妻の桂御前、二の妻、千里御前と一緒に花見の折、 繁氏の杯に桜花のつぼみが一輪、音もなく落ちたのをみて、世の無常を知り、出家したことになっている。 が、これとは別に、二人の妻は、一見仲むつまじく見えるが、ある夕暮れ、双六遊びをしている二人の姿が障子に映った。 その影は、髪の毛を振り乱し、その先は蛇のごとくものすごい形相でケンカをしていた。 この妻妾の嫉妬心を垣間見た繁氏が、「自分の罪の深さを後悔した」のも出家の一因だった、とも説かれるのだ。 ナゾが多い一遍の出家の動機の中で、江戸時代初期に書かれた「九代北条記」は ある時、二人の女房、碁盤を枕となし、頭を指合せて寝たりければ、 女の髪、忽(たちま)ち小さき蛇になりて喰ひあひけるを見て… と書いている。 「かるかや」とまったく同じエピソードが出てくるのはなぜだろう。 この絵解きを20年前に復活させた長野市内の西光寺の住職夫人、竹澤繁子さん(62)は 「物語は、鎌倉時代の実話とされていますが、高野聖らが諸国を巡るうちに、 一遍さんのエピソードも物語に取り込んでいった可能性も、という大学の先生もいます」という。 そういえば、「かるかや」と双璧の説経節「小栗判官と照手姫」もゆかりがあって、 照手姫の墓は、時宗の総本山、神奈川・藤沢市の遊行寺(清浄光寺)の塔頭寺院にあるのだ。 説経節のジグソーパズル。 答えのカギは一遍が握っている? 大阪府和泉市にて下記のような講座がありますので、お知らせします。 zaq. 【受付方法】[電話][FAX][Eメール] 【講師】西岡陽子さん 大阪芸術大学芸術学部文芸学科教授。 日本民俗学専攻。 主著に『祭りのしつらい』(共編)思文閣出版2008年、「大坂におけるツクリモノの展開」(『大阪市立住まいのミュージアム研究紀要・館報1』、2003年等。 逵田良善(つじた・りょうぜん) [明治23年(1890年)〜昭和38年(1963年)]本名秀一。 十2歳のときに浪曲師・宮川安丸に弟子入り。 大正8年(1919年)に大病をし、浄土真宗の信仰にはいる。 大正十3年(1924年)に僧侶となり法名を良善とし、真宗宣伝の浪花節公演で各地をめぐる。 得意の演題は「小栗判官」「俊徳丸」「山椒大夫」「親鸞上人1代記」「法然上人1代記」。 膨大な日記や記録、公演台本を残し、それらの一部が『逵田良善日記』として刊行された。

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ぬまさんの本棚

緑 谷 出久 霊力 小説

はが担当。 (ブランド)のより3月から3月まで刊行された。 略称は「 デアラ」。 概要 『』以来となる橘公司の新作。 「秘密組織のメンバーが大真面目にをやっていたら」をコンセプトにしており 、強大すぎる力を持つがゆえに人類から排除の対象となっている精霊の少女と、(実は不思議な能力を秘めているが)ごく普通な少年の交流を描いた作品。 累計発行部数は全世界600万部以上。 第1巻の刊行当初からテレビCMなどで積極的な広報展開が行われており、シリーズ開始から1年足らずの2011年11月の時点でアニメ化企画が進行していることが発表された。 、イラストはによって、作中の人物の一人、時崎狂三を主題とするスピンオフ作品『デート・ア・バレット』が2017年3月18日に刊行された。 あらすじ 謎の生命体・ 精霊の出現により起こる大災害・ 空間震が発生するようになって、約30年が経った世界。 妹と2人暮らしの高校生・ 五河 士道は、人間に絶望する精霊と出会う。 そして、妹・ 琴里から、自分が精霊と交渉して、世界と精霊両方を救うことのできる存在であることを知らされる。 しかし、その方法は「精霊とデートして、デレさせる」というものだった。 妹の理不尽な訓練の末、再び精霊の少女と出会った士道は彼女に 十香という名をつける。 登場人物 主要人物 五河 士道(いつか しどう) - (アニメ版・ゲーム版のダイジェスト)、(子供時代) 本作の。 都立来禅(らいぜん)高校2年4組。 幼い頃に親 に捨てられ、五河家に引き取られた経緯を持つ。 年齢が1桁の時に親を失ったため、他者の絶望に対して非常に敏感で、初対面で十香の絶望にいち早く気付いた。 義理の両親は一緒に家を空けることが多いため、家事や炊事は得意。 身長170cm。 体重58. 5kg。 座高90. 2cm。 上腕30. 2cm。 前腕23. 9cm。 B82. 視力右0. 6左0. 握力右43. 5kg左41. 2kg。 血圧128〜75。 尿酸値4. キスによって精霊の霊力を吸収・封印し、その霊力を自分のものとして行使することもできるという特殊な体質を有しており、対話による精霊被害の減少を目指す〈ラタトスク〉という機関によって半ば強制的に精霊との交渉役に抜擢されてしまった。 本人も最初は戸惑っていたものの、十香や四糸乃との触れ合いを通して次第に精霊たちを助けたいと思うようになり、自らの意思で精霊との交渉役を務めることを決意する。 口が少々悪いものの、困っている者や悲しんでいる者を放って置くことの出来ない心優しい少年。 十香や四糸乃に好意を寄せられるが、クラスの女子からの人気はイマイチで、殿町主催の「恋人にしたい男子ランキング」では52位。 男女交際経験が無いため、琴里や令音主導で男女交際のノウハウを学ぶための理不尽な訓練を課せられている。 が、最近では十香、折紙といった美少女たちが人目も憚らずに好意を寄せるようになった他、人間に扮した精霊たちにベッタリされている様が目立つようになり、男子から嫉妬を、女子からは軽蔑を買っている。 キスによって精霊の力を封印、無力化する能力を有するものの、相手がある程度心を開いていてくれなければ効果が無い。 また、複数の精霊の力を体内に封印しているため、致命傷を負っても炎と共に再生する能力がある。 これは琴里の霊力によるもので、彼女が精霊の力を取り戻した際は一時的に失われた。 更に、士道と精霊との間には見えない経路(パス)のようなものが通っており、精霊の精神状態が不安定になると経路を通して力が逆流してしまうこともあるが、精神が落ち着くと元通りになる。 十香がエレンによって連れ去られそうになった際には、士道自身が十香の天使である〈鏖殺公〉を顕現させ、十香と共に振るっていたが、その反動で酷い虚脱感と筋肉痛に見舞われている。 なお、その一件が原因でDEM社にその存在と能力を知られてしまい、最優先目標として狙われることになってしまう。 DEM社での戦いで再び〈鏖殺公〉を顕現させた際には、〈鏖殺公〉によるダメージを琴里の霊力で回復させるという無茶な戦い方をし、反転した十香との戦いでは防壁として四糸乃の天使〈氷結傀儡〉も顕現させた。 また、過去に戻った際には七罪の天使〈贋造魔女〉も顕現させている。 折紙の封印からしばらく経ち、突如封印をしていた霊力が暴走を引き起こしてしまう。 暴走が危険ラインを振り切った時、忘我の域にあったからか真那との過去とおぼしきことを口にした。 その記憶においては、明確にDEM社への憎悪を口にしている。 この時に、四糸乃の氷を操る力や七罪の力、美九の声の力、折紙の瞬間移動、琴里の炎を操る力、八舞姉妹の風を操る力、そして十香の〈鏖殺公〉と、これまで封印した精霊の力を使用した。 その後、二亜や六喰がDEMに襲撃された際には、複数の天使を同時に使いこなして危機を脱するなど、徐々に封印した精霊の力を使いこなし始めている。 また、時代に考案した必殺技〈瞬閃轟爆破〉という技も使えるようになった。 16巻の終盤で、狂三の【一〇の弾】によって狂三の凄絶な過去を知る。 更に眼帯の狂三から、自分が2月9日から204回もDEMに殺害され、その度に屍となった自分の唇に狂三がキスすることで【六の弾】の能力を取り戻し、2月8日に時間遡行してやり直しを行っているという衝撃の事実を告げられ、時の牢獄に囚われた狂三を救う決意をする。 そして、十香たちに自身が知った全てを話し、自分の死の運命を変えて狂三を救う為にDEMとの決戦に臨む。 そして、2月20日の決戦の最中に狂三の中から崇宮澪が現れて、士道に崇宮真士としての記憶を取り戻させられた後、五河士道としての記憶を消されそうになる。 そして、澪が十香たち全員の霊結晶を抜き取って殺害するのを止めることが出来ず、とうとう士道と澪の二人だけとなった時、本体の狂三が死の間際に分身体に撃ち込んだ【一一の弾】によって狂三の最後の分身体が現れて、士道にあることを告げた事で、それが「【六の弾】を使って過去へ時間遡行しろ」という意味だと気付き、【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日の夜に士道の意識が時間遡行した事で、2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、全ての運命を変える為に令音(澪)に明日デートしようと告げる。 そして、二度目の2月19日の午前10時から令音とデートを開始し、デートの終盤で令音とキスするが霊力を封印することはできず、逆に経路を通じて令音(澪)と記憶を共有してしまう。 その後、その日の内に襲撃してきたウェストコットたちとの戦闘の中で狂三にキスされて霊力を吸収したことで、澪を除く全ての霊結晶を手に入れた。 そして戦いの果てに、澪とウェストコットが相打ちになって消滅した後で自分の下に落ちてきた澪の霊結晶とツギハギだらけのクマのぬいぐるみを見て、泣き崩れた。 しかし、反転体の十香が崩壊しかけていた澪の霊結晶を取り込んで、周囲の空間を理想世界へと上書きしたことで士道たちも「澪の霊結晶はそのまま消滅した」という記憶に改変されて、理想世界で一ヶ月ほど過ごすことになったが、狂三から真実を告げられたことで〈刻々帝〉【一〇の弾】で本来の記憶を取り戻した。 そして、このままでは理想世界ごと十香が自壊してしまうことを狂三から聞かされて、十香をデートに誘った。 そして、デート中に立ち寄った二年四組の教室の中で十香に真実を話したことで、十香の願いで別に顕現した反転体の十香に『天香』と名付けて 、三人でデートすることになった。 そして、十香と天香に見せたかった桜並木で天香から、澪の霊結晶の完全消滅と共に自身を含めた十香もまた存在を維持できなくなって消滅するという衝撃の真実を聞かされて、その直後に出現した澪の霊結晶の防衛本能の具現体と戦うことになった。 そして、十香と天香の融合体と共に交戦するが、苦戦する最中に頭の中に響いてきた澪の言葉で澪の死の天使〈万象聖堂〉と法の天使〈輪廻楽園〉を使用できるようになり、無の天使〈 (アイン)〉で具現体の霊結晶の『核』だけに露出させ、融合体の十香が【創世の剣】で澪の霊結晶の『核』を両断するのを見届けた。 そして、消えゆく十香とキスをしようとした直前に四糸乃から好きだと告白され、その告白で感情が決壊した十香から涙交じりに好きだと告白されたことで士道も感情を決壊させて、十香が好きでもっと一緒にいたいと涙交じりに告げながら十香を抱きしめて、十香と最後のキスをした。 澪と十香の消滅から一年後の三月、吸収し続けた全ての精霊の霊力を失った上に、十香を失った悲しみを未だ抱きながら生活していた士道の前に、精霊としか思えない謎の少女が出現する。 〈ビースト〉と識別名を命名された謎の精霊の出現地点の近くにいたことで負傷し殺されかけるが、士道が走馬燈で呟いた「十香」という言葉を聞いた〈ビースト〉の動きが止まった一瞬の隙に〈フラクシナスEX〉に緊急転送されたことで難を逃れる。 そして、医療用顕現装置で傷を完治させた後でブリーフィングルームでの会議で〈ビースト〉に接触してデレさせて霊力を封印することを提案するが、琴里に士道の霊力封印能力が今も残っているかわからないとして反対されて、会議が中断する。 その直後に琴里がいる艦長執務室に赴いて、琴里の発言が士道の身を心配してのことだと気づいていたことを語った後で、自身が精霊の対話役を始めたのは「精霊を救いたかったと思った」ただそれだけの理由であり、霊力封印能力や〈灼爛殲鬼〉の加護があったからでもないと語って、〈世界樹の葉〉による防御と折紙とエレンのCR-ユニット着用による現場付近での待機を条件として琴里に〈ビースト〉との接触を許可された。 そして、ブリーフィングルームで待っていた折紙たちにそのことを伝えた直後、ブリーフィングルームの中央に鍵のような形をした刀身が生えて空間に巨大な『穴』が開いて、そこから〈ビースト〉が出現する。 そして、〈フラクシナスEX〉を内側から破壊し続ける〈ビースト〉に組み付いて艦に空いた穴へ飛び込んで、元精霊たちと〈フラクシナスEX〉を守って地上へと落下するが、マリアが展開した随意領域によって事なきを得る。 そして、元精霊たちがマリアから与えられた 〈世界樹の枝(ユグド・ラームス)〉で〈ビースト〉から天使を引き剥がすことに成功するが、〈ビースト〉には空間を切り裂かれて逃げられてしまう。 しかし、士道の足元に振ってきた〈ビースト〉の10番目の剣を士道が握った瞬間に剣が〈暴虐公〉に変化し、同時に流れ込んできた情報から〈ビースト〉の正体が並行世界の夜刀神十香であることに気付いて、〈ビースト〉を救う為に〈暴虐公〉で空間を切り裂いて、並行世界へ向かう。 そして、辿り着いた並行世界で〈ビースト〉にキスして、十香としての理性を取り戻させた。 その後、自分の世界の出来事や並行世界での出来事を語り合った後、並行世界の十香に自分たちの世界に来ないかと誘うが、シドーとの思い出が残るこの世界に残るという並行世界の十香の意思を尊重し、並行世界の十香が〈鏖殺公〉で切り裂いた空間の傷から、元の世界へ帰還した。 そして、4月10日に大学生になった士道が大学へ向かう途中で、世界に溶け込んだ澪の意志が〈ビースト〉をこの世界へ引き込んでまでして再生を完了させた夜刀神十香と、待望の再会を果たす。 本名は 崇宮 真士(たかみや しんじ)。 元々は現在の天宮市近郊に住む普通の少年であったが、ユーラシア大空災から数ヶ月後のある時に南関東大空災に巻き込まれ、その中心にいた〈始原の精霊〉を保護した。 彼女に崇宮澪の名を与え、真那と共に三人で暮らしていたが、DEMの襲撃に遭い、ウエストコットに銃で撃たれて命を落としてしまう。 現在の士道は澪によって再組成されて産み直された存在であり、精霊の力を封印する力はその時に与えられたものである。 五河 士織(いつか しおり) 声 - 男嫌いの美九をデレさせるために、〈ラタトスク〉の面々から女装させられることとなった士道の姿。 表向きは、士道の従兄妹ということになっている。 士道が元々女性顔なことに加え、ラタトスク製の胸パットやばんそうこうサイズのボイスチェンジャーで女性の声になっているため、その精密な変装からも一目で男性と見抜けるものは少ない。 何度か女装を繰り返すうち、士道一人でも女装とメイクができるようになった。 この姿で、真那と実の兄妹であることがはっきりと見てとれる。 劇中では、美九の一件と七罪の一件においてこの姿となっている。 短編では何度か登場しており、街中で歩いている姿を正体を知らない普通の人に写真を取られた上に、ネットに投稿され謎の美女として有名になる。 士道の暴走時には、〈贋造魔女〉で女装どころか肉体まで変質させてこの姿となっている。 夜刀神 十香(やとがみ とおか) 声 - 本作のメイン。 大爆発と共に士道の前に現れた精霊の少女。 身長155cm。 膝まであろうかという夜色の髪と水晶の瞳を持つ絶世の美少女。 普段は赤く細いリボンで髪を結えているが、私服時には黒い大きなリボンを用いている。 初登場時点で、名前を含めた自分に関する記憶をほとんどロストしている。 また現界する度に精霊特有の力である空間震が発生(十香自身は故意に起こしているわけではない)し地上が荒れるため、その度にASTから危険物扱いされ無本意な攻撃を受けていた。 それ故に、世界や人間に絶望していた。 二度目に現界した際、偶然にも来禅高校の士道の教室に現れ、精霊との交渉役として初任務に臨む士道と再会。 地上に現れてからまだ間もないため、実質的に0歳だが士道たちの計らいで、表面上は16歳ということになっている。 成績に関しては不明だが、少なくとも常用の漢字は書けるレベルではあるらしい。 類を見ない大食いで、その勢いは店一軒分の食料が切れる程で、その度に士道にも呆れられ彼の財布はいつも空になっている。 また本人曰く、フライパンを食っても死なない体質。 好物は、地上で最初に食べた、きなこパン。 初めて自分を否定しないでくれた士道に好意を抱き、翌日に再び士道の前に姿を現し、デートの約束を果たす。 〈ラタトスク〉の誘導もあって徐々に士道に心を開くものの、デートの終盤、折紙の狙撃から自分を庇った士道が射殺されたのを目の当たりにして激怒。 怒り狂って折紙らを一方的に蹂躙するが、蘇生した士道に自らキスして霊力を封印され、〈ラタトスク〉に保護された。 その後、〈ラタトスク〉の工作により姓と日本国籍、偽の戸籍を与えられ、士道のクラスに転入する。 力の9割以上を封印されているが、それでも素手でパンチングマシーンを破壊してしまうほどの力がある。 言葉遣いが古風で、長母音「ー」を「ァ」「ィ」「ゥ」「ェ」「ォ」で発音し(デートは「デェト」、クッキーは「クッキィ」、など)、昼食を昼餉(ひるげ)、お金を金子(きんす)と呼ぶ。 人の名前は基本的に漢字で呼ぶが、士道だけはカタカナで「シドー」と、仲の悪い折紙はフルネームで「鳶一折紙」と呼んでいたが、折紙が精霊となった後は名前で呼ぶようになっている。 アニメ版では声優のイントネーションの都合上、長母音部分は普通に発音している。 明るく純粋な心の持ち主だが、人間社会の知識をほとんど持たず、人間に紛れて生活するようになっても物事を間違って解釈したり、無邪気で子供っぽい行動を起こすこともしばしばである。 そのせいか、空気が読めない言動をして、周囲からあきれられることもある。 士道に対しては、手作りクッキーを食べさせようとしたり、自分からデートに誘ったり、四糸乃とのキスシーンを目の当たりにした際は拗ねて部屋に閉じこもってしまったりと積極的かつ無自覚に好意を示す一方、過去の経緯から折紙とは犬猿の仲で、士道を巡って毎日のように喧嘩をしている。 しかし、その無知振りから折紙に手玉に取られることが多い。 ただし、明確に士道への好意を自覚したのは12巻の終盤で、ヒロインたちの中では最も遅い。 実は他の精霊達と異なり、霊結晶自体が自我を持った存在であり、澪と同じく 純粋な精霊。 名前を持たなかったり、一般常識に疎かったのはそのため。 それ故に、2月20日に澪に霊結晶を抜き取られて一旦は消滅したものの、精神世界で自身の反転体と出会って一連の事情を聞いたことで、他の精霊たちと澪の霊力の一部を奪い取って澪の霊装から復活することが出来た。 そして、士道が起死回生の一手を思いつくまでの時間を稼ぐために澪と交戦するが、澪の最後の切り札である全てのものを消滅させる無の天使〈(アイン)〉によって霊結晶ごと消滅させられる。 しかし、士道が【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日に時間遡行した事で、十香の死を含めた2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、二度目の2月18日の夜に澪を倒す方法が思いつかずに苦悩する士道を元気づける為に会話した事で、士道に本当にやるべきことに気付かせた。 そして、二度目の2月19日に起きたウェストコットたちとの戦いの果てに、士道の下に落ちてきた澪の霊結晶が消滅する寸前に、自身の手で鷲掴みにして澪の霊結晶を自身に取り込んで、周囲の空間を理想世界へ上書きするという謎の行動に出る。 その真相は、澪の霊結晶の完全消滅と共に自身も含めた十香が存在を維持できなくなって消滅することを悟った反転体の十香が、十香の体を借りて行ったことであり、十香本人はそのことに気付いていなかった。 しかし、士道とのデート中に真実を聞かされた十香が、もう一人の自身が現れることを念じたことで反転体の十香が別に顕現し、士道に『天香』と名付けられたもう一人の自身と三人でデートすることになるが、同時に天香の意識が流れ込んでくるようになり、自身があと僅かしか存在を維持できなくなって消滅することを知ってしまうことと共に、天香が理想世界へ上書きした理由が自身が消滅するまでの僅かな時間を士道たちと幸福に過ごさせるためであったことも知った。 そして、桜並木で士道に真実を語った直後に出現した澪の霊結晶の防衛本能の具現体と交戦することになり、天香と融合して右目が十香の瞳の色で左目が天香の瞳の色になった融合体となり、十香と澪の霊装が融合したような霊装に、右手に〈鏖殺公〉と左手に〈暴虐公〉の両方を使用して具現体と交戦するが、苦戦する最中に澪の天使を使用できるようになった士道の助けで、露出した澪の霊結晶の『核』を〈鏖殺公〉の【最後の剣】と〈暴虐公〉の【終焉の剣】を重ねた最大最強の天使であり魔王でもある 【創世の剣(イェツェルーヘレヴ)】で両断した。 そして、自身が消えゆく中で士道とキスをしようとした寸前で、四糸乃が士道に好きだと告白し、その気持ちは十香にも負けないと告げたことで抑えていた感情が決壊し、涙交じりに自分も士道が好きでもっと士道と一緒にいたいと告白したことで、同じく感情が決壊した士道に好きだと告白され、士道と最後のキスをしながら消滅した。 しかし、十香の消滅から一年後の4月10日に、世界に溶け込んだ澪の意志が一度分解された十香の存在を寸分違わず同じ構成で元の形に再生させることに成功したことで復活し、大学生になった士道と再会を果たす。 識別名は 〈プリンセス〉。 霊装は紫色の鎧とドレスを混同したような公女型霊装 〈神威霊装・十番()〉。 発顕する天使は巨大な玉座とそこに収められた大剣 〈鏖殺公()〉。 細分化された玉座と剣を一体化することにより、全てを破壊する 【最後の剣(ハルヴァンヘレヴ)】となる。 一振りで山をも両断する凄まじい破壊力を誇る反面、力の制御を誤ると暴走してしまうという欠点を持つ。 加えて全ての力を剣に集中させるため一瞬無防備状態になる。 細分化された玉座を剣ではなく、全身に鎧の様に纏う 【装(レートリヴシュ)】も存在する。 劇場版では精霊の力を結集し、十香の〈神威霊装・十番〉をベースにし、四糸乃から氷の鎧&うさ耳風リボン、琴里から羽衣、八舞からボンテージ&羽、美九から百合の花と髪飾り等、狂三を除く劇場版に登場した精霊の霊装が合わさったような霊装 〈神威霊装・十番〉【万】(アドナイ・メレク・エンスフォール)を使用。 この時は力の総合的な出力が大幅に向上している。 その時顕現した〈鏖殺公(サンダルフォン)〉と対になる大剣 〈滅殺皇(シェキナー)〉は万由里(後述)の力の一部。 士道がウェストコットの策略でエレンに殺されそうになった際にこの姿になり、普段と異なる冷酷無比な別人格になったが、士道の決死の試みで元に戻った。 15巻で六喰によって士道の記憶を閉じられたことで、無意識下でストレスが増大したことによって反転し再び顕現した。 そして、折紙の仲裁で士道を取り合う勝負となり、そこで反転というものの詳細を語った。 その後、六喰の霊力が封印された後で、「興が冷めた」として自ら士道にキスをして反転状態を解除、その際に「私を、『十香』をあまり哀しませるな」と告げた。 以降は時折、十香の目を通して世界を眺めていたことで十香の事情をある程度把握しており、自身も士道に好意を抱くようになった。 そして、2月20日に十香が澪に霊結晶を抜き取られて精神世界へ落ちた際には十香に話しかけ、十香が他の精霊とは違うことを教えて、十香が復活するきっかけを与えた後、笑いながら十香を現実世界へ送り出した。 そして、前述した理由で崩壊しかけていた澪の霊結晶を取り込んで周囲の空間を理想世界へ上書きした。 そして、士道とのデート中に真実を知った十香の願いで、別に自身が顕現したことで、士道に頼んで 『天香(てんか)』と名付けられて、士道と十香の三人でデートすることになる。 そして、桜並木で士道に一連の真実を告げた直後に、遂に自身の霊力では抑えきれなくなって出現した澪の霊結晶の防衛本能の具現体と交戦することになり、十香と融合したことによって自身の心の声を十香に伝えることが可能になった。 そして、【創世の剣】で澪の霊結晶の『核』を両断した後に十香の体を借りて、士道に理想世界の結界内部の時間の進行速度を速めて可能な限りの長い時間を生み出しただけで、理想世界で士道たちが過ごした一ヶ月間は現実世界では三分程度だと告げた後に士道に別れを告げて、初めて士道を 『シドー』と呼んだ後に、十香に肉体の主導権を渡して十香と共に消滅した。 その一年後、〈ビースト〉が並行世界へ逃げ帰った後に残された10本目の剣を士道が握った直後に変化した〈暴虐公〉に並行世界の天香の意識が宿っており、並行世界の十香を救う為に士道に助力する。 普段の人格同様に健啖家であり、番外編で一時的に表面化した際は傍若無人な性格も相まって、タダ食い騒動を起こす。 彼女の大好物は、基本人格がパン好きなのに対して、ツナマヨおにぎり。 鳶一 折紙(とびいち おりがみ) 声 - 本作のもう一人のメインヒロインにして、スピンオフ作品『デート・ア・ストライク』の主人公。 士道のクラスメイト。 身長152cm。 白いショートカットの髪をした、無表情で士道に関すること以外は無感動な人形のような美少女。 頭脳明晰でおまけにスポーツ万能な天才少女。 しかし、一方で人前で感情を表すことはあまり無く、話しかけられても無視したり、休み時間も1人で本を読んでいる。 他人の名前を呼ぶときは基本的にフルネームで呼んでいるが、士道のみ自宅に招いてからは名前で呼び合っている。 明朗快活で愛想の良い十香とは正反対の無愛想な性格のため、彼女とは仲が非常に悪く士道を巡って常に口喧嘩をしている。 裏の顔は、の対精霊部隊・ASTの隊員。 階級はで、若年ながら高い戦闘能力を持ち、ウェストコットからは「万人に一人の天才」と称される。 5年前の8月3日に、〈イフリート〉が起こした火災の際に天使のような精霊に父親(声 - )と母親(声 - )を殺されたことから、精霊という存在全てを憎んでおり、両親を殺した精霊に復讐するため戦い続けていた。 しかし目的のために無謀な行動を取ることが多く、隊長の燎子からよく注意を受けていた。 10巻で、両親の死後に父方の叔母に引き取られ、その叔母がASTの関係者であったことから叔母からASTの存在を知ったことが、ASTへ入隊するきっかけとなったことが語られた。 士道にだけは分かりづらい好意を持っており、彼に関することにのみ抜群の行動力を発揮する。 士道の情報は身長・体重から詳しい健康状態まで正確に把握しており、さらに彼の実妹である真那に「(士道の)恋人」と名乗り、自身を「義姉さま」と呼ばせている。 恋愛についての知識は極端に偏っており、士道が最初に部屋を尋ねた際は、メイド服で出迎えたり(教室での何気ない会話を真に受けたため)、大量のを茶と偽って飲ませた上、突然シャワーを浴びに行ってバスタオル1枚で士道の前に現れたりと、頓珍漢かつ肉食系過ぎる行動を起こす、いろいろな意味でよくわからない性格。 実は両親を失った直後に未来から来た士道に会っており(この時、士道は直前で当時の五河家の隣に住んでいた鈴本尚子 (声 - )を誤魔化す為に、〈贋造魔女〉によって五年前当時の容姿になっていた)、士道に励まされたことで彼に依存するようになった。 また、両親を殺した精霊に対する怒り以外の涙や笑顔といった感情を、仇を討つまではあなた(士道)に預けると士道に告げて去って以降は、その通りに怒り以外の感情や涙や笑顔を他者に見せることは無かった。 歴史改変前の世界ではマンションで一人暮らしをしていたが、室内には侵入者除けの罠が至る所に仕掛けられており、もはや要塞と化していた。 十香の一件では、彼女を狙撃したつもりが、殺気に気付いて十香を庇った士道に命中させてしまい、怒り狂った十香に殺されそうになるが、寸前で士道に救われた。 後にそのことで士道に謝罪したが、直後に同じクラスに転入してきた十香とも再会し、その後、毎日のように士道を巡って喧嘩をするようになる。 後に〈ハーミット〉こと四糸乃とも再会しているが、彼女に対しては特に邪険にはしていない。 しかし、両親を奪った(と思い込んでいた)炎の精霊〈イフリート〉に対しては並々ならぬ憎悪を抱いており、「ASTに入ったのも〈イフリート〉を討つため」と豪語していた。 後にその正体が士道の妹である琴里だとわかるや否や、CR-ユニットと配備されたばかりの〈ホワイト・リコリス〉を勝手に持ち出した上、遊園地にて士道とデート中の琴里を周囲を顧みず強襲するという暴挙に出た。 しかし、琴里の反撃と士道の説得に加え、十香と四糸乃の乱入、さらには肉体的負荷と実験機の限界時間により目的を果たせぬまま意識を失い、駆けつけたASTに拘束された。 その後、記憶処理と懲戒処分を下されたが、〈ホワイト・リコリス〉を起動させた彼女の実力に興味を抱いたウェストコットの介入により、2カ月の謹慎処分となった。 士道の命懸けの説得を受けて、納得してはいないものの、ひとまず琴里に対する殺意は収めた。 しかし、十香と琴里の件で士道の特異体質を目の当たりにしており、彼に対して疑惑を持っているが、いつか話してくれると信じて深くは追求せず、ASTにも報告していない。 士道と狂三のDEM社襲撃の時には先のDEM社の部隊との戦いで体と脳が疲弊しIDが凍結されながらも、美紀恵から提供されたSSS仕様の装備と間に合わせの武装で士道の助太刀に向かい、エレンと交戦。 終始圧倒され続けるも、〈フラクシナス〉の砲撃で隙を見せたエレンに一太刀浴びせ一矢報いた。 その後、DEM社の介入によって懲戒処分が決まったが、5年前の大火災における複数の霊波反応の詳細という情報と、両親の仇を討つために士道には手を出さないという約束の下にDEM社の第二執行部に入った。 しかし、ウェストコットたちは士道を最終的に殺害することで精霊の反転に使おうとし、折紙の知らないところでその約束を破り、七罪の居場所を聞き出すために士道を拷問しようとした。 マードックの仕掛けた人工衛星落下の時、規模が一発目・二発目の爆破術式が仕込まれた人工衛星と比較すると小さかったとはいえ、士道たちが破壊するのに手間取った爆破術式仕込の〈バンダースナッチ〉を巨砲の一撃で消し飛ばして、DEM社製のCR-ユニット〈〉を装備して士道たちの目の前に姿を現した。 それから数日後、突如イギリスの高校へと転校することが岡峰珠恵から士道たちに伝えられた。 十香たち精霊との高校での生活を共にするようになるうちに、徐々に精霊との生活を許容しつつあった自分自身に気づき、そんな自分をやめて十香たちと高校での生活をする以前の精霊を明確に憎んでいた自分へと戻るために、十香たちを殺すことを決める。 それを邪魔させないために士道を監禁して、〈メドラウト〉を装備して十香達を倒そうとするが、完全に力を取り戻した十香に敗北。 その後、〈ファントム〉によって精霊化し、十香と互角の戦いをするほどの力を見せたが、駆け付けた士道に精霊化した姿を見られたことで、その場から去った。 そして、狂三の【一二の弾】で五年前に戻り、自分の両親の死を無かったことにするために〈ファントム〉を倒そうとするが、その際の攻撃によって自らの手で両親を殺していた事実を知り、絶望の末に反転してしまった上に天宮市を破壊で蹂躙してしまった。 士道と狂三による歴史改変により両親は生き残るが、1年後に交通事故で死亡している。 しかし復讐に囚われていないため、普通の少女のような性格になっており、さらに髪を伸ばしている。 両親の代わりに犠牲になった青年(未来からきた士道のことで実際には死んでいない)のような人間を出さないために、ASTに入った。 経緯は不明だが、この世界でも精霊化しており、霊力を感知した場合のみ、意識のないまま反転体となって精霊を狙う『精霊狩り』となっており、それによる意識の混濁と精霊を倒すのが正しいのかを疑問に思いASTを辞めている。 『精霊狩り』としての正体は、反転後の喪服のような霊装によって素顔が隠されているためにAST・DEM社・歴史改変直後の〈ラタトスク〉には気づかれていなかった。 その後、来禅高校に転校してきて士道とデートをするが、デートの最後に士道の霊力が発現したところを目撃して反転してしまった。 その後、士道との接触による影響で二つの世界の記憶が交じり合い、士道に救われ反転体から元の状態に戻り、その際に士道に預けていた涙や笑顔を見せて、士道にキスされて霊力を封印された。 十香たち他の精霊は当初、歴史改変後における世界の記憶しか持っていなかったが、この封印によって士道と経路を通して歴史改変前の世界の記憶を思い出した。 また、士道への感情を『過度の依存』と捉え、一度は「恋愛感情とは別物」だと本人の前で告げるも、全てが終わった後、「これからが本当の愛」と以前より積極的に士道へアピールしている。 自分を助けるために戦ってくれた精霊達にお礼を言い、精霊を絶対の殲滅対象として見ることをやめ、十香をフルネーム呼びから「十香」と名前で呼ぶようになるが、殲滅対象としては見ていないが恋敵に変わりはなく仲は悪い。 以降は、フルネーム呼びだった精霊達も名前で呼ぶようになる。 事態収束後に髪は改変前のショートカットにし、性格も多少は柔らかくなったとはいえ歴史改変前の性格に戻り、休日明けにスカートの下に着てきたスクール水着を士道の顔に押し付けたりなどの行動にクラスメイトは困惑し、休日に士道になにかされたのではと噂されたりもした。 歴史改変後の普通の少女のような性格でも、無自覚に士道に接触するという本能には抗えていなかったことに対して、本人は困惑していた。 精霊の力は封印されたが、改変前と改変後の性格が混ざってしまった状態になり、士道を前にすると改変前の性格が出てしまい、しばらくして改変後の性格に戻ると自分の行動を恥ずかしがったり自己嫌悪したりしている。 また、酒で酔ったり気絶で理性部分が機能しない時、改変後の性格が出る。 15巻で六喰に記憶へのチャンネルを閉じられたのは改変前の人格だけで、改変後の人格とは繋がっており、改変後の人格が顕在化した(記憶は統括されている模様)。 19巻では、士道の意識が〈刻々帝〉【六の弾】によって2月20日から2月18日の深夜に時間遡行したことを、士道が着ていたシャツの第二ボタンに偽装させていた盗聴器によって知ったことで、十香たちを〈フラクシナスEX〉の第二仮眠室に呼んで、士道と琴里の会話を盗聴で聞いていたことが、精霊たちが澪に関する一連の真実を知ることに繋がった。 士道が並行世界から帰還した後の4月に、教師たちの反対を押し切って士道と同じ大学に入学する。 識別名は 〈エンジェル〉。 霊装はドレスとスカート(白色)、頭部を囲う浮遊するリングから流れるベールのウェディングドレスのような天使型霊装 〈神威霊装・一番()〉。 発顕する天使はいくつもの細長い羽状のパーツで構成される王冠型の翼 〈絶滅天使()〉。 組み合わせを変えることで攻撃方法が変わる。 円環状に組み合わさって幾千幾万もの破壊力を帯びた粒をばらまく 【日輪(シェメッシュ)】、翼の形状にして高速移動形態となる 【天翼(マルアク)】、羽がバラバラに動き霊装を軽く貫通する光線を放つ無数の遠隔操作型攻撃端末となる 【光剣(カドゥール)】、王冠型に組み合わさり十香の【最後の剣】と伍すると思われる威力の砲を放つ 【砲冠(アーティリフ)】。 反転した状態での識別名は 〈デビル〉。 喪服のような黒い天使型霊装を身に纏い、発現した魔王は黒く染まった『羽』を無数に展開し、闇色の光線を発する 〈救世魔王()〉。 自分が両親を殺してしまった事実から、全てに対して虚無となっていた。 登場としては初期からではあるが、途中で精霊と化したために「第8の精霊」としてカウントされる。 15巻で〈ラタトスク〉からCR-ユニット〈〉を与えられる。 精霊としての限定解除状態と魔術師としての能力、両方を兼ね揃えた世界で唯一の例のハイブリット体となり、その状態ではアルテミシアと互角に張り合えるものとなっている。 校内での「恋人にしたい女子ランキング」は第3位。 歴史改変後では第1位となっている。 改変前はマンションに住んでいたが、改変後は自宅に住んでおり精霊の力を封印した後も、十香たちの住んでいるマンションには行かず、両親の思い出が残っている家を捨てることができないということで自宅に住み続けている。 五河 琴里(いつか ことり) 声 - 14歳になる士道の義理の妹。 身長145cm。 血液型AB型。 赤色の髪と紅玉の瞳を持つ。 ツインテールが特徴のかわいらしい少女だが、〈ラタトスク〉の司令官という顔を持ち、士道を交渉役に精霊との対話による空間震災害の根絶を目指す。 生まれ。 上記の通り士道とは血の繋がりのない赤の他人ではあるが、幼い頃より苦楽を共にしていく中でお互いを家族と認め合い、現在では血縁関係以上の信頼で結ばれている。 星座占い・血液型占いにはまっている。 白いリボンをつけている時は明るく無邪気な性格の「妹モード」であるが、黒いリボンをつけると性格が一転して「司令官モード」に変わってしまう。 「司令官モード」の際は毒舌かつクールで、義兄の士道に無理やり男女交際を学ばせたり、望んだ成果が得られないと彼の過去の痴態や失敗を容赦無い方法でばらすなど、同一人物とは思えないほど性格が変わる。 ただし、これは自己による公私の切り替えであるため、人格自体は変わっておらず、どちらの性格でも士道を慕うことは変わらない。 公私のけじめをつけるためか、士道のことを「妹モード」の時には「 おにーちゃん」、「司令官モード」の時には「 士道」と呼び方を変えているが、「司令官モード」でもかなり動揺すると「 おにーちゃん」と呼んでしまう。 士道が精霊との交渉(デート)を行う際は〈フラクシナス〉の司令室でその様子を監視しつつ、インカムを使って指示を飛ばしたりするが、的外れな命令を出して士道を危機に陥れてしまうこともしばしばある。 が大好物で、作戦中も常にくわえている。 実は、5年前の9歳の誕生日に謎の存在〈ファントム〉によって霊力を与えられ、炎を操る精霊となってしまっている。 その際、霊力の暴走により周囲に大火災を起こし、駆けつけた士道にも重傷を負わせてしまうが、霊力を与えた〈ファントム〉の助言により士道に霊力を封印して事態を収束した。 この事件により精霊について知るようになり、精霊を救うために行動する原点となっている(ただし、力を与えた〈ファントム〉に付いては記憶を封印されていた)。 なお、司令官モードになる時につける黒いリボンはその時に士道からプレゼントされたもので、14歳の誕生日にも同じものをもらっている。 この時、士道にこれをつけている間は強い子だと言われてから、黒いリボンを着ける時に自身にマインドセットをかけており、リボンによって性格が変わるのはこのためである。 しかし、〈ビースト〉が襲来した際に士道の身の安全を思う余りに〈ビースト〉と接触しようとする士道に大声で反対してしまい、頭を冷やす為に〈フラクシナスEX〉の艦長室に戻った後に訪れた士道に、昂った感情から士道に異性としての好意を伝えてしまった。 その直後、士道から妹に対する愛情が異性に対する愛情に劣ると誰が決めたんだという言葉に、これからは妹であると同時に異性として士道の傍にいると決意し、その決意表明として右側のテールに黒いリボンを、左側のテールに白いリボンを装着した姿を士道たちに披露する。 狂三の一件で5年ぶりに力を取り戻し、狂三を撃退する。 しかし、封印していた霊力を完全な形で取り戻してしまったために精霊の状態で固定されてしまい、さらに霊力を取り戻したことによる強い破壊衝動に苦しめられるようになる。 霊力を再封印するために士道とプールと遊園地でデートするも、両親の敵討ちのため折紙が攻撃してきたため、怒りと破壊衝動に駆られ、士道の制止も聞かずに折紙を追い詰めるが、士道の必死の説得と十香や四糸乃の助けもあって、士道にキスされて無事に霊力を再封印された。 或美島の一件で士道が天使を顕現させたことの報告を受け、士道の能力の段階が最悪の状態となってしまえば士道をその手で殺すことをウッドマンに宣言した。 12巻で士道の暴走によって、その最悪の段階がきてしまう。 士道の最悪の段階である臨界状態にさしかかった時には士道を殺すためだけの最悪の顕現装置〈ダインスレイフ〉の起動キーを渡されていたが、折紙たちの説得によって手放した。 部下からの信頼と忠誠は極めて篤く、琴里が精霊とわかっても揺らぐどころか破壊衝動に苦しむ琴里を救うために団結し、率先して行動するほどである。 琴里自身、自分の部隊に属している機関員のことは家族や子供同然に思っており、顔を合わせたこともない末端の隊員の顔、姓名、所属、階級など全て把握している。 円卓会議に関してはウッドマンとその一派以外に対しては全く信用しておらず、バカにしている。 事実、その懸念は確かで士道の暴走時には〈ダインスレイフ〉を勝手に起動されてしまった。 士道が並行世界から帰還した後の4月に、四糸乃たちと共に来禅高校に入学する。 識別名は 〈〉。 霊装は袖や裾が広がった和服と鬼を思わせる純白の2本の角を持つ 〈神威霊装・五番()〉。 発顕する天使は炎の戦斧 〈灼爛殲鬼()〉。 通常の戦斧形態に加え、棍の部分を腕に装着することで高熱線を放つ 【砲(メギド)】の形態を持つ。 身に纏った炎を防壁にして攻撃を防げる他、傷を負っても炎の力によって何度でも再生することが出来るなど、攻撃力・防御力・回復力ともに極めて高いが、霊力を使えば使うほどに破壊衝動が強くなり、最終的には人間としての自我が崩壊してしまう恐れがある。 他の精霊と異なり、自身の精神状態をコントロールすることで精霊の力をある程度自由に使うことができる。 精霊になった際は、自らの意思で空間震を起こすことができる。 上記の通り、霊力を封印した順番は最初ではあるが、精霊としての登場順では「第4の精霊」としてカウントされている。 精霊 氷芽川 四糸乃(ひめかわ よしの) 声 - 第2の精霊。 13、4歳くらいの少女の姿をしている。 身長144cm。 水色の髪と蒼玉の瞳を持ち、左手 には眼帯をつけたコミカルなデザインのウサギのをはめている。 極めて大人しい性格で、ASTに攻撃されても一切反撃せず常に逃げ回っているため、現界数こそ多いものの比較的危険度の小さい精霊と認識されている。 本来の人格である四糸乃は、人前ではしゃべることすらままならないほど臆病な性格。 士道とのデート中、乱入してきた十香とASTの攻撃でパペットを無くしてしまい(実は折紙が知らずに持ち去っていた)、見つけることが出来ないまま消失。 再度現界した時にASTの攻撃を受け、パニックに陥って街中を氷漬けにしてしまうが、命懸けでパペットを持ってきてくれた士道に心を開き、霊力を封印された。 その後は〈フラクシナス〉にて生活しているが、たまに士道の家にいることもある。 後に精霊用マンションで生活している。 琴里の一件では、士道や琴里の様子から事情を察してさり気なく2人のデートを手助けするなど、非常に優しく健気な性格。 知識も年相応で、折紙の策略で官能小説のようなセリフを読まされた時には赤面していた。 温泉旅行に行った時は、士道に頭を撫でられたことがあり、とても嬉しそうな反応をしたことがある。 彼女にとって士道は、優しくて良きお兄さん的な認識をしている。 また、七罪と仲がいい。 20巻では、士道と十香のデートが終わるまで理想世界を維持させる為に、霊力を消費して戦う精霊同士のバトルロイヤルには、最初は乗り気でなかったが『よしのん』の言葉で士道が他の女性に告白されて付き合うことが嫌だという自身の本心に気づいて、最後まで戦い抜いてバトルロイヤルの勝者となる。 そして、自身の本心を明かさないまま消滅しようとしている十香に対して、始めて『よしのん』を左手から引き抜いて七罪に預けると、士道に好きだと告白して、この気持ちは十香たちにも負けないと告げて、十香が本心を告白する後押しをした。 十香の消滅後、七罪や六喰や真那と共に琴里の通っている中学校に三年生として編入している。 士道が並行世界から帰還した後の4月に、琴里たちと共に来禅高校に入学する。 26年前、精霊になる前は病弱な子で入院生活を送っており、母親の 氷芽川 渚沙(ひめかわ なぎさ)と共に生活していたが、ある日に渚沙が職場の工事現場で事故に巻き込まれて死亡し、当時の四糸乃の担当看護師だった 澄田 果穂(すみだ かほ)がその事実を四糸乃に伝える前に崇宮澪によって精霊にされて、そのまま失踪したという過去が、十香の消滅から十一ヶ月後に判明する。 なお、『よしのん』は母親の渚沙からのプレゼントだったことも判明し、更に四糸乃が渚沙の為に制作していた 『よしのんジュニア』というパペットの存在も判明し、澄田果穂が長年預かっていた『よしのんジュニア』を、四糸乃が入院していた病院の病室を訪問して過去の記憶を取り戻した直後に、澄田果穂から渡されて右手に装着していた。 識別名は 〈ハーミット〉。 霊装は緑色をベースとした模様の付いたのようなもの(雨の中、水を弾いていることから推測)で、ピンクのボタンと縫い目のついた大きなうさ耳付きと服の下部から垂れ下がったピンクのリボンの付いた白い尻尾のようなものがあり、足には白いリボンの付いた緑色のを履いている隠者型霊装 〈神威霊装・四番()〉。 発顕する天使は全長3メートルもある巨大なウサギの人形 〈氷結傀儡()〉。 名の通り冷気を操る力を持ち、口から超低温のブレスを吐き出す。 霊力を帯びた冷気は、弾丸や砲弾はおろか物体ではない随意領域やレイザーエッジすら凍らせてしまう。 無数の氷の弾丸を飛ばしたり、防壁にしたりすることも可能。 さらに、四糸乃が降らせる雨を凍結させることによって街中をほんの数分で氷漬けにすることもできるが、四糸乃が現界している間は絶えず雨が降り続くため、放っておくと氷の嵩がどんどん増大し、シェルターや街そのものを押し潰してしまう危険がある。 四糸乃自身は水を自在に操る能力を持ち、水を弾丸のように飛ばして攻撃することが出来る。 他には巨大な〈氷結傀儡〉を解き、鎧のように纏って冷気を集束させる 【凍鎧(シリヨン)】を有する。 雪山や降雪時などの雪がある状況下では雪を操ることが可能。 同時に、やはり士道を助けたいと思った際は、不完全ながら霊装と天使を発現させた。 時崎 狂三(ときさき くるみ) 声 - 第3の精霊で、スピンオフ作品『デート・ア・バレット』の主人公。 顔の左半分を隠す長い黒髪の16歳くらいの少女の姿をしている。 身長157cm。 常にやや慇懃無礼ともいえるお嬢様口調で会話し、感情が昂ぶると「〜ですわ、〜ですわ」のように自分の言葉を繰り返す癖がある。 十香や四糸乃と違い、学校に転校できるほど人間の社会に深く溶け込んでおり、その仕組みを理解・応用する知識を有する。 分かっているだけでも1万人以上の人間を手にかけている最悪の精霊。 また、自らの意思で空間震を発生させられる。 バレットの狂三は七夕で出会った 分身体。 識別名は 〈ナイトメア〉。 霊装は黒と赤のドレス 〈神威霊装・三番()〉。 発顕する天使は身の丈の倍はあろうかという巨大な時計の形をした 〈刻々帝()〉。 〈刻々帝〉の長針と短針はそれぞれが古式の歩兵銃と短銃であり、これに〈刻々帝〉の能力を込めて弾として発射する。 効果は時計の数字によって違い、対象の時間を加速させる 【一の弾(アレフ)】、時間の進み方を遅くする 【二の弾(ベート)】、対象を成長させる 【三の弾(ギメル)】、時間を巻き戻して傷などを復元させる 【四の弾(ダレット)】、僅か先の未来を見通すことができる 【五の弾(ヘー)】、意識のみを過去の肉体(数日前まで)に飛ばすことができる 【六の弾(ヴァヴ)】、対象の時間を止める 【七の弾(ザイン)】、自身の過去の再現体を出現させる 【八の弾(ヘット)】、異なる時間軸にいる人間と意識を繋ぐことができる 【九の弾(テット)】、撃ち抜いた対象の過去の記憶を知ることができる 【一〇の弾(ユッド)】、霊力を直接喰らって対象を未来へ送ることができる 【一一の弾(ユッド・アレフ)】、霊力を直接喰らって対象を過去へ送ることができる 【一二の弾(ユッド・ベート)】の12種類がある。 しかし、〈刻々帝〉はその能力と引き換えに、狂三の時間(寿命)を大量に消費し、特に【一一の弾】と【一二の弾】は1発で精霊1人の命を使い潰してしまうため、使用したことがなかった。 しかし、【一二の弾】は遡行する日時がどれだけ離れているかによって、必要となる霊力が変化する。 普段髪に隠れて見えない左目の眼球は金色の時計になっており、狂三の時間を記している。 自分の「時間」を補充する際は〈時喰みの城〉という結界を張り、自らの影を踏んでいる人間の時間(寿命)を奪い取る。 影を踏んでいる人間は体が重くなり動けない状態になっているが、士道自身が霊力の加護を受けているため、〈時喰みの城〉の中にいても一切影響を受けなかった。 また、霊力を封印された精霊でも、霊装を着っているなら自然に動ける。 霊力を持っていない一般人でも〈破軍歌姫〉の【行進曲】で動くのは可能である。 影はどこでも現れられ、影の中には本体と分身体しかいないが、それ以外の人も入れる。 【八の弾】によって生み出された再現体(分身)は本体ほどの力は持たないものの、それぞれが自律した意思と霊装を持っている上、影の中に無制限にストックでき、それが尽きるまでいくらでも呼び出すことが可能。 狂三が何度殺されても蘇るのは、このためである。 ただし、活動時間には限界があり、生み出す際に消費した『時間』内しか活動できない。 分身体の価値観は過去のものから、何時でも本体の命令を聞くわけではなく、本体に逆らう可能性もある。 しかし、前述の理由によって実行できないでいたところ、〈ファントム〉から士道のことを聞き、複数の精霊の力を宿す彼の力を手に入れるためにクラスメイトとして転入。 自ら接近し、デートに誘うなど好意を寄せる振りをしていたが、真那と遭遇、真実を知られた。 その後、天使の力を使って十香・折紙・真那の3人を圧倒し、士道を手に掛けようとするも、乱入してきた琴里によって分身体の大半と左腕を破壊された上、〈刻々帝〉も損壊させられてしまい、不利を悟って撤退した。 なお、琴里から逃げる際、意識を失った士道にキスをしたため、【六の弾】のみ封印されており、〈刻々帝〉のVIの数字のみ色を失っていた。 琴里の霊力が再封印した時のその日、〈刻々帝〉はもう完全に直っていた。 その後も士道のことは諦めておらず、潜伏しつつ時間と分身体を補充し力を蓄えていたが 、十香をDEM社に拉致された上に美九からも追われ、無力感に打ちひしがれる士道の前に突如姿を現し、DEM社に囚われていた「二番目の精霊」二亜に会うという目的のために一時共闘した。 結局二亜の姿は見つからなくて、その場を去った。 折紙は精霊になった日、彼女の頼みで初めて〈刻々帝〉の【一二の弾】を使用して五年前の8月3日の天宮市に戻らせた。 しかしそのせいで、折紙が反転してしまった。 そして、天宮市に無差別破壊している折紙を止めるために、再び士道の前に現れて彼を折紙と同じ時間に飛ばした。 13巻で、二亜と接触して〈始原の精霊〉に関する様々な情報を得るが、それによって例え30年前に時間遡行しても自身では〈始原の精霊〉を殺害することは不可能だと判断し、〈始原の精霊〉が出現するより前の時代に遡り、その原因を排除すればいいという考えにシフトした。 更に、〈始原の精霊〉の発生原因に関わったとおぼしきアイザック・ウェストコットやエレン・メイザースやエリオット・ウッドマンの三人に対して、「今度見かけたら殺してしまいそうですわ」と殺意交じりに吐き捨てていた。 六喰の騒動の一月後の2月9日、突如として来禅高校へと復学して再び士道達の前に姿を現し、士道に対して「相手をデレされた方が勝ち」という勝負を仕掛けた。 しかし既にこの時、士道がDEMに殺害されるという結末を回避するために、【六の弾】によって2月8日に時間遡行して、この数日を204回もやり直しを繰り返したことで狂三の精神は疲弊しており、2月14日の士道とのバレンタインデートの夜にアジトを襲撃してきた〈ニベルコル〉を始末した直後に士道の前で倒れてしまう。 すぐに目を覚まし、気まずさから士道の前から姿を消し、その後アジトの屋上で〈ファントム〉と再会するが、ある情報を得ていたことで〈ファントム〉を明確な敵だと認識し、【七の弾】で障壁を剥がしたことで〈ファントム〉の正体が村雨令音であることを知って驚愕し、同時にある事に気づいて分身体たちに村雨令音を拘束させ、影の中に引きずり込ませた。 そして、眼帯の狂三(分身体)が独断でDEM社が士道抹殺に総力を費やすことを士道と琴里に伝えた後、狂三本体が【八の弾】で千人ほどの分身体を増産して決戦に備える。 そして、2月20日の士道たちとDEM社の全面戦争の最中に士道の前に姿を現し、〈ニベルコル〉の攻撃から士道をかばって眼帯の狂三(分身体)が命を落とした後、士道から狂三の霊力を封印した後に30年前に時間遡行して〈始原の精霊〉の霊力を封印し、人間の狂三たちともう一度出会って救い出すという士道の言葉を聞いて大笑いし、DEM社との決着がついたら霊力を封印されてもいいと士道に告げた直後、崇宮澪に内側から胸を貫かれる。 そして、自身の霊結晶を抜き取られて本体の狂三は死亡し、同時に分身体たちも消滅した。 しかし、本体の狂三が死の間際に澪に撃つと見せかけて分身体に撃ち込んだ【一一の弾】によって最後の分身体が約一時間後の未来に時間移動し、即座に本体の意図に気付いた最後の分身体が士道に伝えたあるメッセージに込められた「【六の弾】を使って過去に時間遡行しろ」という意図に気付いた士道が、【六の弾】を自身に撃ち込んで過去に時間遡行した事で、狂三の死を含めた2月20日に起こった全ての事象が無かったことになった。 そして、二度目の2月18日の夜に、公園で眼帯の狂三(分身体)が士道から2月20日に狂三の本体が澪に殺されることを聞いたことで、狂三の影に取り込んで始末したはずの澪がまだ生きて狂三の中にいる事を気付かされる。 その後、眼帯の狂三から脳内情報の共有によって士道からの情報を得た狂三(本体)は、澪に気付かれないように自身が生き残るための準備を行った。 そして、二度目の2月19日にDEMが士道に攻撃を仕掛けて来る直前に士道と令音の前に現れて、令音に攻撃するが、再び狂三の中から澪が現れた瞬間に、〈刻々帝〉を自身に撃ち込んだ。 そのまま死亡したかと思われたが、実は澪が狂三の霊結晶を奪って外界に出ようとした瞬間に、【八の弾】で生成した分身体に自身の記憶と霊結晶を譲渡したことで死を免れており 、士道がエレンと〈ニベルコル〉に組み伏せられた際に再び姿を現し、ウェストコットの胸を貫いて二亜の霊結晶を奪って〈ニベルコル〉を消滅させた。 そして、【四の弾】で二亜の霊結晶を元の状態に戻し、自身に取り込んだ。 そして、澪の記憶を共有した士道が気付いたある可能性を聞いた後に、生き残る可能性を高める為に士道にキスをして霊力を封印された。 そして、二つの霊結晶を取り込んだことによってゴスロリに修道衣という二つの特徴をした限定霊装を顕現させて再び戦いに赴き、士道と澪が〈輪廻楽園〉に取り込まれたことで戦闘が中断し、〈輪廻楽園〉を調べようとする二亜たちの前に現れて〈囁告篇帙〉を顕現させて、〈輪廻楽園〉の中の様子を十香たちに伝えた。 そして、精霊術式でウェストコットが新たな〈始原の精霊〉に変化するのを防ぐ為に、不機嫌になりながらも澪と共闘した。 しかし、反転体の十香が崩壊しかけていた澪の霊結晶を取り込んで周囲の空間を理想世界に上書きしたことで、狂三たちも記憶を改変されて、死んだはずの山内紗和や士道たちと幸福に過ごすことになった。 しかし、偶然の副産物で〈囁告篇帙〉を使用して真実を知った後で〈刻々帝〉【一〇の弾】で真実を実感し、十香に気付かれない様に影を使って士道と琴里と真那の前に現れると、士道たちに真実を打ち明けて、このままでは理想世界ごと十香が自壊してしまうと告げた。 そして、士道と十香のデートが始まる前に個別に精霊たちを天宮市の自然公園に呼び出すと、このままでは士道と十香がデートを終える前に理想世界ごと十香が自壊してしまうと告げて、理想世界の残り時間を少しでも長く増やす為に、精霊同士が戦って霊力を消費しあって理想世界に霊力を還元させるバトルロイヤルを提案し、勝者には『士道へ想いを伝える権利』を与えると提案したことで、精霊たちの士気を高めた。 そして精霊同士のバトルロイヤルでは、ある目的の為にウェストコットから奪った二亜の霊結晶による霊力だけを四糸乃に破らせてわざと敗退し、勝者が決まった後で真那を挑発して決闘を開始し、その最中に残った全霊力を込めた【四の弾】を真那に撃ち込んで、真那の肉体をDEMによる魔力処理が施される以前の健康な状態まで戻した。 澪と十香の消滅によって霊力を失ったと同時に分身体たちも全て消滅した後、以前から保有していた拠点の一つである古めかしい洋館風の一軒家に住み始める。 そして、十香の消滅から一年後に住処を訪れた士道を山内紗和の墓参りに付き合わせた 後で、自身が今も全てをやり直す為に精霊術式の研究をし続けていて、いつか霊力を取り戻そうとしていることを士道に冗談交じりに語った。 そして、襲来した〈ビースト〉から〈世界樹の枝〉で〈刻々帝〉を一時的に取り戻した際に、〈刻々帝〉の文字盤からIV・VI・VII・VIII・XI・XIIの半数が色を失って使用できないことでおおよその事情に気付き、並行世界の自分もひねくれ者だと笑った。 元々は『正義の味方』に憧れる普通の人間であったが、ある時〈始原の精霊〉である崇宮澪に出会い、彼女から霊結晶を与えられ精霊となった。 そして、正体が自分と同じように霊結晶を与えられた人間だと知らぬまま、他の精霊を倒す手伝いをしていたが、ある日真実を知ってしまった上に、自分が討った炎を纏った異形の精霊が親友である 山打紗和(やまうち さわ)であったことに気付き反転しかけるが、その寸前に【四の弾】を自身に撃ち込んで反転を防いだ。 その後、澪によって記憶を消され、隣界で眠りについていたが空間震とともに現界し、自身に【一〇の弾】を撃って記憶を取り戻したことで、いかなる犠牲を払おうとも〈始原の精霊〉崇宮澪を殺して歴史をやり直す決意をする。 初めて士道の前に姿を現していた時は、士道に対しては目的を達成するために必要な存在としてしか見ていなかったが、徐々にその感情は変化しており、特別な男子として意識はしていた模様。 そして、二度目の2月19日に自ら士道にキスをするまでに至った。 基本的にミステリアスに振舞うが、猫カフェに入り浸るほどの猫好きであることや、大勢の分身体を統制できず仕方なく無茶ぶりに応じる、過去の特殊な嗜好に傾倒していた頃の自分 を恥じているなど、上記の目的とは別の意味での秘密も複数抱えている。 そうした過程からか、短編では分身に結構舐められている。 また、短編『精霊カンファレンス』では、調子に乗り過ぎて 、結果的に精霊たち全員を激怒させ、フルパワーの天使による総攻撃という普段の彼女ではありえないオチを演じている。 短編集『アンコール』8巻では、DEMの魔術師から奪ったCR-ユニット〈〉を使用できる分身体が士道と精霊たちにIF(もしも)の世界を夢として体験させて、経路を通じて逆流した霊力を吸い上げるという作戦に出たが、夢の中で士道が無意識に精霊たちにキスをして精霊たちの精神状態を安定させたことで作戦を変更し、士道たちを精神世界で痛めつけて逆流した霊力を吸い上げようとする。 しかし、士道たちの脳波の異常に気付いた令音が顕現装置で精神世界へ送り込んだ真那に妨害されて失敗した上に、分身体の独断行為に気付いた狂三の本体によってCR-ユニットを装備した分身体は回収され、士道と精霊たちは現実世界に帰還した。 白い髪に青い時計がある瞳をし、霊装は白い軍服の形状をしている。 隣界の第三領域(ビナー)の支配者。 魔王は軍刀と歯車で構成された短銃の 〈狂々帝()〉。 空間を支配する能力を有し、空間内部の因果を逆転させる弾の 【天秤の弾(モズニーム)】、対象に自身の印を刻み自らの手駒の ルークへと仕立てる弾の 【蠍の弾(アクラヴ)】、極めて高い自己修復を授ける弾の 【水瓶の弾(ドゥリ)】、空間を切断する刃の 【巨蟹の剣(サルタン)】、空間を削り取る弾の 【獅子の弾(アリエ)】などの複数の能力を有する。 狂三の反転体のような外見をしているが、狂三とは声が違う。 その正体は、かつて狂三が気付かずに殺害してしまった親友の 山内紗和。 風待 八舞(かざまち やまい) 第5の精霊。 風を操る双子の精霊。 2人とも橙色の髪に水銀色の瞳を持つ。 元々は「八舞」という1人の精霊だったが、何度目かの現界の際に2人に分裂し、現在のような状態になった。 そのため、厳密には双子ではなく同一人物。 どちらが吸収されて消滅し、どちらが真の『八舞』として残るかを決めるため 、幾度も争い(戦闘に限らず、じゃんけんなどの遊戯も含む様々な種類の勝負)を続けている。 この勝負をかなり繰り返していたために、多芸でもある。 空間震の規模は大きいが、その大半が何もない空中で起こっているため空間震の被害はないが、現界の度に世界中を台風のように動き回ってはその余波で世間に迷惑をかける上に一般人の目撃情報も多く、さらに捕捉も困難なために〈ラタトスク〉やASTの悩みの種となっていた。 戦績は99戦25勝25敗49分けだったが、或美島での100回目の勝負の最中に士道と出会い、「彼を魅力で落とす」ことを最後の勝負に決める。 しかし、実際は互いが互いを大事に想っており、相手を残すためにそれまでの勝負でも実はわざと負けようとしては失敗していた。 そのことを互いが知り激昂し、天使を用いた直接対決をするに至るが、士道の説得により、本当は二人でずっと一緒に生きていたいという本音を吐露し、和解。 翌日そのお礼として(それが霊力を封印する方法とは知らず)同時に士道にキスし、霊力を封印された。 封印後は両名とも士道に好意を抱くようになり、彼を自分たちの共有財産にすると宣言した。 当初は士道達と同じクラスに編入予定であったが、2人揃っていれば精神状態が安定するため、新学期から隣のクラスに編入した。 和解後は常に二人揃って行動するようになり、その様子は仲がいいを通り越して仲睦まじいと言えるほどである。 姉妹という設定ではあるが、どちらが姉でどちらが妹かは長らく不明だったが、最終巻で道路に飛び出した子供を助ける為に交通事故にあって死に瀕した風待八舞が、崇宮澪に霊結晶を与えられて精霊になった際に、風待八舞が バニシングツイン であったことから、霊結晶によって芽生えた『名もなき妹』の意志が八舞を死から救う為に、自らの心と八舞の心を身体の中で同化させて死を免れたことが判明する。 そして、時が経って二人の心は再び二つに分化して八舞耶俱矢と八舞夕弦となり、耶俱矢と夕弦は双方ともに風待八舞と『名もなき妹』の因子を受け継いだ分化体であったというのが真相であった。 十香の消滅から十一ヶ月後に、琴里から耶俱矢・夕弦・四糸乃・七罪に人間だった頃の彼女たちの情報が納められた封筒を差し出されて、受け取るかは個人の判断に委ねると告げた琴里に、耶俱矢と夕弦は即座に封筒を受け取った。 そして、風待八舞の資料を見たことで両方とも風待八舞の記憶が戻ったことで、片割れが『名もなき妹』の遺伝子から生まれた精霊ではないかと思い悩むが、両方とも同時に相談に行った士道のある言葉で、その悩みを解決した。 そして、士道を助ける為に〈ビースト〉から〈世界樹の枝〉で引き剥がした〈颶風騎士〉の剣を耶俱矢と夕弦が同時に握って互いにキスすると、精霊・風待八舞となった。 そして、士道たちの前に現れて名乗りを上げると〈ビースト〉と交戦し圧倒する。 その後、〈ビースト〉が並行世界へ撤退すると士道たちに事情を説明するが、精霊・風待八舞は耶俱矢と夕弦の融合体であるが、厳密には人間・風待八舞と同一の存在ではなく、以前の風待八舞はここまで背が高くもなければ胸もここまで大きくもなかったと語った後、美九に抱き着かれる直前に耶俱矢と夕弦の二人に戻った。 識別名は 〈〉。 霊装はこれまでの精霊の霊装と違ってきわめて露出度が高く、さらに全身に張り巡らされたベルトと片手足首の錠、南京錠に鎖付きの首輪と、に近い霊装 〈神威霊装・八番()〉。 天使を発現させると、耶倶矢は右の、夕弦は左の肩から無機質な翼が生え、それを起点に片腕を覆い尽くす手甲が出現する。 天使の名称は共に 〈颶風騎士()〉だが、分裂の際に機能も二分化されており、2人が力を合わせることにより、2人の翼が変化した弓を起点に霊装が組み合わさり、本来の形態である巨大な弓矢 【天を駆ける者(エル・カナフ)】となる。 最終巻では、風待八舞は〈ビースト〉の攻撃を防いだ際に巨大な盾の形をした 【護る者(エル・ペゲツ】を展開し、更に巨大な弩弓の形をした 【蒼穹を喰らう者(エル・イェヴルン)】を展開して、〈ビースト〉に収束させた烈風を射出した。 八舞 耶倶矢(やまい かぐや) 声 - 髪を後頭部で結い上げ、霊装の右手首と右足首に引き千切られた鎖の付いた錠を付けている。 身長157cm。 普段はいわゆる女王様のような芝居がかった口調をするが、これは精霊としての威厳を出すための芝居であり、怒ると必ずと言っていいほど素を晒して普通の話し方になり、興奮すると「〜だし」という語尾になる。 封印後も、その口調は相変わらずである。 夕弦と比べて子供っぽい体型に、少しコンプレックスを抱いている。 また、技名などを決める際はドイツ語の本を用い、お気に入りをチェックしている重度のであり、痛々しい性格の持ち主である。 一風変わった言動や行動のため、士道たちからもドン引きされている。 来禅高校での中二病仲間が集った集まりである『賢人会議』 でのコードネームは『』。 ドラマCDでは狂三をマスターと呼び、彼女の立ち振る舞いやセリフがかっこいいといい彼女に教えを乞う。 士道が並行世界から帰還した後の4月に、夕弦と共に大学生となる。 〈颶風騎士〉の形状は、身の丈を有に超える巨大な 【穿つ者(エル・レエム)】。 【天を駆ける者】では矢になる。 八舞 夕弦(やまい ゆづる) 声 - 耶倶矢に対してスタイルが良く、長い髪を三つ編みに括り、気怠そうな半眼をしている。 身長158cm。 霊装の錠の位置は耶倶矢とは逆で、左手首と左足首に付けられている。 しゃべり方は静かで抑揚のないトーンであり、しゃべり出しの頭にその趣旨を2文字の単語で表すという(「感謝。 ありがとう」など)を思わせる機械的な表現の仕方である。 なお、時々「ぷんすか」や「へっぽこぴー」など子供っぽい言葉が会話の間に挟まることがある。 一人称が自分の名前を言うことから、本質はぶりっ子な性格である模様。 士道が並行世界から帰還した後の4月に、耶倶矢と共に大学生となる。 〈颶風騎士〉の形状は、漆黒の鎖の先端に菱形の刃の付いた 【縛める者(エル・ナハシュ)】。 【天を駆ける者】では弓の弦になる。 誘宵 美九(いざよい みく) 声 - 第6の精霊。 紫紺の髪に銀色の瞳を持ち、のんびりとした口調が特徴のスタイル抜群な美少女。 外見年齢は17歳ほど。 身長165cm。 半年前に初めて現界が確認されて以降、確認されていなかった詳細不明の精霊だったが、竜胆寺女学院の生徒で、さらに男性を寄せ付けないアイドルとして天宮市内に在住・活動していた。 話しかけるだけで好感度がゴキブリ以下に下落していくほどの極度の男嫌いで、かわいい女性が大好きないわゆる。 しかし他人の絆というものに関心がなく、お気に入りの女子が死んでもまた新しいお気に入りを探せばいいと公言するなど、狂三とは別の意味で倫理観が破綻していた。 女装した士道と「天宮祭で来禅高校が竜胆寺女学院に勝利したら霊力封印に応じる」という条件で対決するも、仲間の助力という差で敗北。 約束を反故にして参加者達を全員洗脳し、天宮市全体をパニックに陥れる。 その正体は、琴里と同じく〈ファントム〉によって力を与えられた人間。 しかし、デビューから1年後に事務所から指示された枕営業を拒否した結果、捏造されたスキャンダルで業界から干され、さらにそれを信じたファンの心ない言葉により憔悴していき、心因性の失声症に陥ってしまった。 自分の全てだった声を失い、自殺を考えるまでに追いつめられていたところを〈ファントム〉に出会い、精霊となった。 その後はアイドルとして再デビューし、男嫌いは治っていないものの、士道だけは特別と称し、彼に対しては甘えるように接する。 霊力を封印された現在では、聞いた者が忘れていてもふとしたきっかけがあれば、それを思い出すこともある。 〈ビースト〉が襲来する数か月前に、マネージャーの暮林昴から海外進出を提案されるが、士道たちとの時間を大事にしたいと断った。 しかし、〈暴虐公〉を使って〈ビースト〉を追って並行世界へ赴こうとする士道の姿を見て、自身も新しい一歩を踏み出すべきだと決意して、〈ビースト〉から引き剥がした〈破軍歌姫〉で【幻想曲】を使用する。 そして、士道が並行世界から帰還した後に海外進出を決めて、4月から活動拠点をアメリカへ移したが、〈ラタトスク〉の顕現装置搭載の小型艇をタクシー代わりに使用することで、五河家に遊びに来る頻度は海外進出前とほとんど変わっていない。 識別名は 〈ディーヴァ〉。 霊装はトップス、ボリュームがある袖にボレロ状の光の帯、光のフリルがあるスカートといった光のドレスである歌姫型霊装 〈神威霊装・九番()〉。 発顕する天使は光の鍵盤がある巨大なの形をした 〈破軍歌姫()〉。 音に霊力が込められており、その音を聞いた者は耳を塞いでいない限りは力を封印されている状態の精霊であっても洗脳されてしまう。 さらにはスピーカー越しでもその音を聞いてしまえば洗脳され、ねずみ算式に洗脳されていく者が増えていく(ただし、洗脳がとけると洗脳されていた時の記憶は残らない。 また、あくまで最優先事項が美九になるだけで、それまで他者に抱いた印象には変化はない )。 巨大な〈破軍歌姫〉本体では無く、限定的にパイプの一部を出して使うことで狭い空間の中でも交戦が可能。 聞いた者の力を漲らせる 【行進曲(マーチ)】、聞いた者を洗脳する 【独奏(ソロ)】、物理的な破壊力を有する 【輪舞曲(ロンド)】、聞いた者に対する鎮痛作用の 【鎮魂歌(レクイエム)】などが存在する。 最終巻では、全ての〈破軍歌姫〉の曲を纏めて聞く者に浴びせる 【幻想曲(ファンタジア)】を発動して、士道を並行世界へ送り出す後押しをした。 鏡野 七罪(きょうの なつみ) 声 - 第7の精霊。 艶やかな長い緑色の髪に翠玉の瞳をした20代の女性という作り物めいた外見をしているが、これは天使によって変身している姿で、本来の姿は小柄で細身、手入れが行き届いていない髪をし、不機嫌そうな顔をした幼い少女。 本来の姿は身長144cm。 大人の姿は身長170cm。 当初は自分のことを綺麗といった士道のことを気に入っていたが、ASTの攻撃がきっかけで士道に本来の姿を見られたと思い込み、士道の人生を終わらせると宣言して、士道に変身して悪行を働くが、本物と比べられた際に十香と折紙にあっさり見破られてしまった。 その後、変身能力を使って士道の知人に成りすまし、全員がいなくなる前に誰が偽者か当てないと容疑者である知人や友人が一人ずつ消えていき、不正解を出すと指名された者も消えてしまうという内容のゲームを行うが、些細な言動がきっかけで「四糸乃のパペットである『よしのん』」に化けていたのを見破られてしまった。 その際、自身の本来の姿を士道達に見られてしまい、逆上して十香達を幼い姿に変え、どこかへと飛び去って行った。 その後も士道に様々な嫌がらせをしたが、エレンとの戦いで怪我をしたことで一時的に天使が使えなくなり、本来の姿で〈ラタトスク〉に保護された。 その後、士道達のコーディネイトによって可愛らしい姿になるが、持ち前のネガティブさでそれが認められなかった。 その後、士道達のピンチに自らも助けに入ったことをきっかけに、最後は自ら士道にキスして霊力を封印された。 ただし、他の精霊よりもメンタル面がとても弱いため簡単に霊力が逆流してしまい、嫌な気分になることを想像するだけで能力が使える。 生粋の精霊ではあるが、好奇心旺盛で静粛現界をかなりの頻度でくり返しており、人間の社会にも通じている。 初めて静粛現界をした際に、元の姿では人に相手にされなかったことと、変身能力で理想的な姿に自分を変身させることで、自分の元の姿を嫌いになっていった。 その自分の元の姿を嫌うという強迫観念には「そういう風に決まっている」という別のものがあるが、本人にもわかっていない。 自分自身に対して自信がかなりなく、褒め言葉でもマイナスなことへ繋がるなど、ネガティブな考えで凝り固まっている。 四糸乃とは仲がいい。 十香の消滅後、四糸乃や六喰や真那と共に琴里の通っている中学校に三年生として編入している。 そして、十香の消滅から十一ヶ月後、七罪たちが人間だった頃の情報が納められた封筒を差し出した琴里に、とりあえずは封筒を受け取るのを保留にすることを告げた。 しかし、四糸乃が記憶を取り戻した後の2月に再度琴里のもとを訪れて、封筒を受け取った。 そして、資料の一部を見ただけで人間だった頃の記憶を思い出し、その哀しい過去への嫌悪で思わず嘔吐してしまう。 その過去とは、物心つく頃から父のことは覚えてなく、母親と思しき女にひどい虐待を受けていた。 家にいても食事が出来ず学校の給食で飢えをしのいでいたが、中学生の頃に父親が亡くなって生活費が打ち切られた事で虐待が加速し、殺される寸前まで追い込まれた時に崇宮澪によって精霊にされ、 〈贋造魔女()〉で母の姿をカエルに変化させて、そのまま失踪したという哀しい過去であった。 記憶を取り戻した後は、自身を虐待した母親へのトラウマを抱えて苦しんでいたが、〈ビースト〉の襲来の際に瀕死の状態ながらも七罪を信じる士道の姿を見て、遂に母親へのトラウマを克服し、〈世界樹の枝〉を〈ビースト〉に突き立てて反撃のきっかけを作った。 士道が並行世界から帰還した後の4月に、四糸乃たちと共に来禅高校に入学する。 識別名は 〈ウィッチ〉。 霊装は、魔女のようなつば折れ帽子と橙色と夜色で構成された魔女型霊装 〈神威霊装・七番()〉。 発顕する天使は先端部に鏡のようなものが取り付けられたの形をした 〈贋造魔女()〉。 箒から発せられる光に当てた物を生物・非生物関係無しにあらゆる物体に変化させたり、鏡の中に吸い込むことができる。 また、箒に乗ることで高速移動することも可能。 更には性能こそは劣化するものの、他の精霊の天使を模倣する 【千変万化鏡(カリドスクーペ)】も有する。 マードックが仕掛けた人工衛星落下の際には、士道が顕現させた〈鏖殺公〉と十香が顕現させた〈鏖殺公〉、七罪が〈贋造魔女〉で模倣した〈鏖殺公〉も合わせて三本もの〈鏖殺公〉が同時に存在する状態となり、反転した折紙との戦いでは美九の〈破軍歌姫〉を模倣し美九の【輪舞曲(ロンド)】と七罪の【行進曲(マーチ)】の2重合奏で士道や十香たちを援護した。 また、変身能力を応用して他人の傷を塞ぐことも可能。 あくまで傷を塞ぐのみで、体力まで回復するわけではない。 本条 二亜(ほんじょう にあ) 第9の精霊。 世界で二番目に確認された精霊。 灰色の髪との瞳を持つ。 外見年齢は18〜19歳。 他人に変なあだ名をつけることがあり、士道のことは「少年」と呼ぶ。 身長168㎝。 10年前に 本条蒼二(ほんじょう そうじ)というペンネームで漫画家になるが、5年前にエレンに捕えられ、最重要機密『資材A』として幽閉されていた。 太平洋の地図に記されずDEM社による人体実験が多数行われていた島であるネリル島の地下施設に囚われの身となり、反転されるために様々な実験や拷問を受け、精神崩壊寸前の状態となるが反転には至らなかった。 その後、脳内に超小型の顕現装置を埋め込まれて拷問の記憶を消され、日本のDEM社関連施設へと運び込まれることになり輸送される。 その折に士道の暴走によって共鳴を起こし、自らを捕えていたコンテナを破壊し逃亡した。 その逃亡から数週間後、逃亡のチャンスを作ってくれたことへの礼として自分の霊力を封印するチャンスを与えるべく、偶然を装って士道の前に現れる。 その存在は以前から言及されていたが、士道の前に現れた精霊の順番としては「第9の精霊」としてカウントされる。 本人曰く、27〜28年前に人間から精霊となったとのこと。 現界直後、唯一把握していた自らの天使の能力によって自分という存在がどのようにして生まれこうなったのかという経緯(正確には「思い出した」と表現されている)と人間の汚い面を知ってしまい、二次元へと傾倒し現実の人間を信じられなくなっていた。 そのため士道とデートしても好感度が上がらなかったが、「士道をモデルにした同人誌の主人公に恋をさせればいいのではないか」という折紙の妙案を採用したラタトスクと同人誌即売会で勝負する。 勝負自体は引き分けだったが、実際に読んだそれに一切の脚色がないことを知り、士道を認める。 しかしその直後に、消されていた記憶がよみがえったことで反転してしまう。 そして、エレンやアルテミシアの介入によって重傷を負った上に反転した霊結晶をウェストコットに奪われるが、直前にわずかに反転状態から脱していたためにわずかに霊力が残り、七罪の〈贋造魔女〉で傷を塞がれた後で、僅かな霊力を士道に封印されると同時に士道たちの霊力を二亜に循環させたことで、一命を取り留めた。 2月20日の決戦では、霊結晶の大部分をウェストコットたちに奪われた為に戦闘能力をほとんど有していないことから〈フラクシナスEX〉に残り、〈フラクシナスEX〉から去った令音の後任の解析官として活動していた。 しかし、澪の〈万象聖堂〉によって〈フラクシナスEX〉が破壊されて地上に墜落し、二亜も僅かな霊結晶を澪に抜き取られて死亡する。 しかし、士道が【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日に時間遡行した事で、二亜の死を含めた2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、二度目の2月19日に狂三がウェストコットから奪った二亜の霊結晶を自分に取り込んで〈囁告篇帙〉を発現した際には文句を言った。 その後、新たな〈始原の精霊〉になろうとするウェストコットとの戦いの最中に澪に霊力を注ぎ込まれたことで完全な霊装と〈囁告篇帙〉が顕現し、更にマリアからの助言で〈囁告篇帙〉と〈フラクシナスEX〉の顕現装置によって〈ニベルコル〉のようにマリアの疑似精霊としての分身体を多数作り出し、〈極死祭壇〉の闇の粒から士道たちを守った。 識別名は 〈シスター〉。 霊装は、十字があしわれた法衣にペンが付いた修道服を思わせる修道女型霊装 〈神威霊装・二番()〉。 発顕する天使はのような十字架があしらわれたの形をした 〈囁告篇帙()〉。 その能力は全知。 未来以外のことであれば、現在起こっているできごと、誰が何をしているかなどの自分の望む情報をなんでも知ることが可能で全てが「事実」。 二亜の考え方としては「超々高性能」。 全てが「事実」のために、霊装に付けられているペンで〈囁告篇帙〉に記述することにより、未来における記述対象の行動を操り人形のようにして操る「未来記載」を有する。 反転した状態で発現した魔王は巨大な本 〈神蝕篇帙()〉。 自動的に本に記述されるようになり、記述速度が跳ね上がり、魔王本体からページを飛び散らせることで反転前よりも手数と速度が増えており、本に記された存在を具象化することもできる。 魔王へと変貌したことによる変化かどうかは不明だが、歴史改変のことすらも知ることが可能。 また、知った事実をイメージとして他人に伝えることも可能。 完全に取り込んでいるわけではないために、「未来記載」は使用できない。 世界中の物語が混ざった 【幻書館(アシュフィリヤ)】という空間を作りそこに送り込むことができた。 しかし、二度目の2月19日に狂三がウェストコットから二亜の霊結晶を奪って【四の弾】で元の状態に戻した後で自身に取り込んだことで、〈神蝕篇帙〉は二度と顕現されなくなった。 本来は表裏一体である〈神蝕篇帙〉と〈囁告篇帙〉が同時に存在するという矛盾が生じていて、〈囁告篇帙〉から〈神蝕篇帙〉へ向けて検索の妨害・遅延によって牽制することができる。 また、全知の能力でこそはあるが、妨害をかけられてしまうこともある。 全知に対する妨害としては〈ファントム〉が自らの情報を解読不能にしたことと、前述の検索妨害・遅延といった2ケース。 星宮 六喰(ほしみや むくろ) 第10の精霊。 黄金色の長い髪と瞳を持つ。 宇宙に漂っていたが、〈神蝕篇帙〉で居場所を検知したDEMによる攻撃とその報復で存在が〈ラタトスク〉側にも発覚した未知なる精霊。 一人称は自分の名前を縮めた「むく」。 天使の力で自らの心を閉ざしていたため、感情がまったく変化しなかった。 身長148㎝。 自らの心に鍵をかけて閉ざしていたその過去は、かつて自分が両親に捨てられ、家族の愛を実感できていなかったという過去である。 養護施設にいた後に星宮家に引き取られ、義理の両親と義姉の 星宮朝妃(ほしみや あさひ)に大切に育てられる。 髪を綺麗だと言ってくれていた義姉だったが、友人の言葉でそれを曲げてしまう。 その出来事で絶望していたところに、〈ファントム〉から霊結晶を与えられて精霊となった。 家族からの愛情を独占するために周囲の者から家族に関する記憶を閉ざしたが、自分を化物と見られたことで家族から自分の記憶を閉ざし、自分から心と記憶を閉ざしていた。 15巻で士道が〈贋造魔女〉で模倣した〈封解主〉の力で心を開かれ、その際に士道の記憶が流れ込んだことで士道が自分と似た過去を持つことを知り、彼のことを主様と呼び、慕うようになる。 しかし、士道を独占したいが故に、士道の周囲の者から士道の記憶を閉ざしてしまう。 その後、士道の記憶を閉ざされた結果、反転した十香に髪を切られたことで暴走し、士道に重傷を負わせてしまったことで反転しかけるが、士道の必死の説得とキスによって霊力を封印された。 十香の消滅後、四糸乃や七罪や真那と共に琴里の通っている中学校に三年生として編入している。 そして、〈ビースト〉が襲来する数か月前に〈ラタトスク〉機関員の椎崎が運転する車で士道と共に、かつて六喰が住んでいた街へと向かって、かつての自宅の傍で家から出てきた義理の両親と義姉の朝妃の幸せそうな姿を見て安堵の涙を流し、朝妃たちに再会しないと決めて車で外出する朝妃たちを見送った。 そして、決意表明として士道から借りたカッターナイフで長い髪を一息に刈り取った。 しかし、〈ビースト〉が士道に抱きついて〈フラクシナスEX〉から地上に落下した際に、折紙からの提案で〈世界樹の葉〉を操作して士道のバックアップと近隣住民の避難と救助をしている最中に、偶然近くにいた義姉の星宮朝妃と再会してしまい、バランスを崩して倒れかけた朝妃を支えて思わず「姉様」と呼んでしまったことで、朝妃が六喰に関する記憶を思い出してしまう。 しかし、六喰の朝妃を気遣う姿に、かつて六喰を傷つけた後悔と罪業から朝妃が思わず発した「髪、切ったんだ」という言葉の後に朝妃に頭を撫でられたことで和解し、涙を流しながら救助作業を続行した。 士道が並行世界から帰還した後の4月に、琴里たちと共に来禅高校に入学する。 便宜的に付けられた識別名は 〈ゾディアック〉。 霊装は、星座があしらわれている女仙型霊装 〈神威霊装・六番()〉。 発顕する天使は鍵の形状をした 〈封解主()〉。 対象に鍵をかけ機能を封じる 【閉(セグヴァ)】、空間に孔を開ける 【開(ラータイブ)】、手のひらに収まるサイズにまで小さくする 【小鍵(テフェテー)】、奥の手として錫杖から戟の形状に変貌し潜在能力を引き出す 【放(シフルール)】、触れた霊力や分子の結合を解除して分解する 【解(ヘレス)】を有する。 これによって〈バンダースナッチ〉や戦艦などの機能を閉ざして機能停止させたり、空間の入り口と出口という穴を作り出しては宇宙から地球に直接爆撃したりしている。 崇宮 澪(たかみや みお) 世界で最初に確認された精霊。 長い髪を風にたなびかせた端正な顔立ちながら、どこか物憂げで陰を帯びた表情の少女。 本編開始の30年前に、ユーラシア大空災を引き起こした。 彼女以降の他の精霊とは一線を画し、全ての精霊の根源という存在である。 便宜的な呼称は統一されているわけではなく、 〈始原の精霊〉や「原初の精霊」とも呼ばれたりする。 13巻で狂三が二亜の〈囁告篇帙〉から得た情報によると、狂三が霊力を集めても狂三では絶対に勝てないとのこと。 発生原因は、ウェストコットとエレンとウッドマンの三人が全ての始まり。 身長160cm。 同時に士道と真那の過去に関わる人物。 12巻で暴走し忘我の域にいた士道からその名前は発せられ、真那はその名前に既知感を覚えている。 過去に狂三を精霊にした張本人でもあり、本来であれば人間に直接霊結晶を入れると毒であるが、それを精製しようと何人もの少女に霊結晶を仕込み、精製していった。 その果てに狂三の親友であった山打紗和を精製の対象にし、狂三に異形と化してしまった彼女を殺害させた。 そのために、狂三の絶対の怨敵となっている。 その正体はウェストコットとエレンとウッドマンの三人が、世界中に存在するマナというエネルギーを一点に集中させて生み出された超常生命。 識別名は 〈〉。 霊装は、女神のような衣である女神型霊装 〈神威霊装・零番()〉。 発現する天使は、幾重にも重なる花弁の巨大な花【万物を殺める】 〈万象聖堂(アイン・ソフ・オウル)〉と樹の形をした【あらゆる条理をねじ曲げる】 〈輪廻楽園(アイン・ソフ)〉、種の形をした【全てを消滅させる】 〈 (アイン)〉。 また、自らの存在を二つに分割させて、一つの意志に二つの肉体の状態である〈ファントム〉と村雨令音として、それぞれに行動させることもできる。 誕生から半年後に南関東大空災を意図せずに起こした後、崇宮真士に保護され、彼から澪という名を与えられ、彼の妹の真那と共に三人で崇宮澪として生活していた。 当初は言葉すら話せなかったが、わずか一日で流暢に話せるようになり、その後も様々なことを教えてくれた真士に恋をしていった。 しかしある時、DEMの襲撃に遭い、真那は攫われ、真士は命を落としてしまう。 悲しみに暮れる澪は真士を蘇らせる方法、そして真士と永久に過ごす為の方法を考え付く。 その方法は真士に「精霊の力を吸収する能力」だけを与えて自らの胎で産み直し、成長した真士(士道)に自らの力を一つずつ与えていき、自らはそれを近くから見守る。 そして真士(士道)が全ての力を手に入れた時、真士は何者にも害されぬ力を持ち、永劫に近い命を得て澪と永遠の恋人となるというものであった。 その後、自身の霊力を十個の霊結晶に分割して として人間に霊結晶を与えて精霊に変化させつつ、〈ラタトスク〉の解析官 として士道と精霊たちを監視していた。 そして、2月20日の士道たちとDEMとの決戦の最中に、〈ファントム〉として狂三の影に取り込まれていた澪が狂三の内側から崇宮澪の姿で現れて、狂三から霊結晶を抜き取って殺害した後、士道に触れて崇宮真士としての記憶を取り戻させた後で、その場に転移してきた令音と融合して霊装を纏った精霊としての完全な姿に戻り、ようやく目的が叶うことに歓喜しながらも五河士道としての記憶を消そうとする。 そして、真士に完全な力を手に入れさせる為に、十香たち精霊全員の霊結晶を抜き取って殺害した。 しかし、狂三の本体が死の間際に分身体に撃ち込んだ【一一の弾】によって現れた狂三の最後の分身体が、澪に殺される前に士道に告げたあるメッセージの真意に気付いた士道が、〈刻々帝〉を顕現させて【六の弾】を自身に撃ち込んで士道の意識が2月18日に時間遡行した事で、2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、令音として二度目の2月19日の未明ごろに士道からデートを申し込まれて、承諾する。 そして、二度目の2月19日の午前10時からデートを開始し、デートの終盤には30年真に真士と澪がデートした海岸に連れてこられて、初めて真士が殺された悪夢に苛まれることなく眠ることができた。 そして、士道にキスされるが霊力は封印されることはなく、逆に経路(パス)を通じて士道と記憶を共有したことで、士道の意識が2月20日から時間遡行してきたことを知った。 そして、士道の説得に耳を傾けることもなく断った。 しかしその直後に、DEMの艦隊が向かってくるのを目撃した上に、狂三が現れて攻撃してきたことで令音の姿で霊装を纏って、再び狂三の中からもう一人の澪を出現させる。 そして、狂三が動かなくなると再び一人に融合して本来の姿と霊装を纏った。 しかし、狂三の霊結晶を奪った感覚が無く不審に思った直後に士道が〈フラクシナスEX〉に転送され、澪はDEMの艦隊の迎撃に向かった。 そして、〈万象聖堂〉でDEMの艦隊をほぼ壊滅させた後で、それが陽動だと気付いて、士道たちの下に戻った。 そして、士道から仮に全ての霊結晶を集めた上で五河士道の記憶を消したとしても、それは本当の真士ではなく真士の魂もそこに存在しないと告げられて動揺し、それでも士道を真士に戻そうとするが、士道に再びキスされて無意識に〈輪廻楽園〉が自身と士道を包み込んで独自空間を形成する。 そして、〈輪廻楽園〉の中で士道と令音と澪と真士の四人に意識が切り離されたと説明し、四人でデートを楽しんだ。 しかし、デートの終盤で士道が澪に真士の亡骸を士道として産み直した本当の目的は 超常生命である自分を殺せる存在を作るためだったと指摘され、澪もそのことを否定しなかった。 しかしその直後、自身という『霊脈』を介して精霊術式を発動させてウェストコットが新たな〈始原の精霊〉になろうとしていると察知し、それを阻止するために士道と共に外界に戻った。 そして、ウェストコットが顕現させた魔王〈永劫瘴獄〉を〈万象聖堂〉で抑え込むと同時に、士道と真那と精霊たちに霊力を注ぎ込んで強化した。 そして、マナとなって世界に溶け込んだ澪の意志が、〈ビースト〉をこの世界に引き込んでまでして十香の再生を一年がかりで完了させたことが、最終巻のエピローグで語られている。 〈ビースト〉 精霊の消滅から1年後に、天宮市に顕現した精霊。 己の名を忘れ去っている。 色を失った白い髪に、幽鬼のように青白い肌をした少女。 理性がない獣に等しい。 識別名は 〈〉。 霊装は、擦り切れた外套に亀裂が入った形状をしている。 発現する天使は澪の分を除いて今まで顕現した精霊のものと同じ力と名を持つ天使を、大小様々な多数の剣の形で所有している。 剣の天使とは別に、巨大な五本の爪状の天使も所有。 10本の剣の中に〈封解主〉の力を見せる1本があり、その能力で〈フラクシナスEX〉のブリーフィングルームの中央に出現する。 そして、士道に組み付かれて〈フラクシナスEX〉から落下して地上に不時着する。 その正体は、士道が死亡したことで絶望し、反転と狂乱の果てに他の精霊たちを殲滅し、全てを破壊した 並行世界の十香だったことが判明する。 マリアと元精霊たちによって天使を引き剥がされた上に、精霊・風待八舞に圧倒されて五本の爪状の天使を〈鏖殺公〉に変化させて空間を切り裂いて並行世界へ帰還するが、残していった〈暴虐公〉を使用して並行世界まで追ってきた士道にキスされて、十香としての理性を取り戻す。 そして、お互いの世界のことを士道と語り合った後、自分たちの世界で暮らさないかという士道の提案を、シドーとの思い出が残るこの世界に残ると決めて断り、〈鏖殺公〉で切り裂いた空間の傷から士道を元の世界に帰還させる際に、士道の唇に近い頬にキスして元の世界へ送り出した。 その後、自身が破壊した並行世界を旅してる途中に、自身が殺したはずの妖艶な大人の姿になった並行世界の時崎狂三と再会し、この並行世界をやり直さないかと提案される。 ラタトスク機関 村雨 令音(むらさめ れいね) 声 - 〈ラタトスク〉の解析官。 眼鏡をかけた20歳くらいの若い女性。 身長164cm。 重度の不眠症(本人は30歳とも)。 目の下にはいつも分厚い隈が出来ており、突然倒れてしまうこともある。 琴里の友人かつ右腕的な存在で、彼女と共に士道の訓練を行ったり、精霊に関する情報の分析、モニタリングを行ったり、空間震が炸裂する瞬間に同規模の空間震をぶつけると相殺できるという事実を突き止めるなど、非常に有能。 また、修学旅行の際は〈ラタトスク〉との通信が断たれた上、耶倶矢と夕弦の2人の精霊が逆に士道をデレさせようとしている状態で、二人を同時にデレさせなければならないという前代未聞の状況下でも、耶倶矢と夕弦の士道を落とすためのアドバイザーになる振りをして2人を制御下に置いた上で同時にキスさせようとするなど、冷静かつ臨機応変に対処した。 それら以外にもヴァイオリンの腕前がプロ級だったり、マイナーな言語を複数話すことができたりもする。 十香が天宮市に現れてからは、来禅高校に物理の教師兼士道のクラスの副担任として赴任した。 基本的に無表情で下着を士道に見られても無頓着だったりと感情の起伏が乏しく、驚いて紅茶を吹き出したりはしても表情が変わることは滅多にない。 いつも継ぎ接ぎだらけの熊のぬいぐるみを、胸のポケットに入れて持ち歩いている。 なぜか士道の名前を「しんたろう」と間違って覚えた末に、それを縮めた「シン」と呼んでいる(他の人間の名前は普通に呼んでいる)。 時折、不可解な言動やDEM社に対する怒りを漏らしている。 折紙が〈バンダースナッチ〉に襲われた時に居合わせて同時に襲われたはずだが、折紙が意識を回復した時には外傷すらなく機能停止したと告げている。 16巻の終盤で、狂三によって琴里たちを精霊に変えた〈ファントム〉であることが判明した上に、逃亡しようとしたところで狂三の分身体たちに全身を掴まれて拘束され、影の中に引きずり込まれた。 しかし、その後も士道達の前に何食わぬ顔で現れているなど、謎が多かった。 そして、17巻終盤で士道と会話していた狂三の本体の内側から、崇宮澪の姿で現れた。 その際、「……時崎狂三。 感謝するよ。 君は最後まで、私の素晴らしい友人だった」と言っているが、その真意は狂三や琴里たちには親愛の情を抱いているが、真士を取り戻すためならそれらの感情を切り捨てられるという歪な決意であった。 その正体は であり、 でもある。 そして、2月20日の決戦の最中に〈フラクシナス〉の艦橋にいた令音は、狂三の内側から現れた崇宮澪の姿を見た琴里に問い質されたことで正体を現し、目的を果たすために瞬間移動で澪の下に転移し、澪と融合して霊装を纏った精霊としての完全な姿に戻った。 以降の詳細はを参照。 神無月 恭平(かんなづき きょうへい) 声 - 〈ラタトスク〉の副司令官。 28歳。 美男子だがドMの変態かつ巨乳嫌い。 デートでの選択肢選びでは、必ずと言っていいほど下ネタに繋がる答えを選び、琴里から無視されるか折檻されるが、反省するどころか喜んでいる筋金入りの変態である。 実はASTの元エースであり、燎子が新人の頃の隊長。 無駄口を叩いた隊員にペナルティとしてコスプレをさせたり、その状態で自分を踏みつけさせたりなど、当時から遺憾なく変態振りを発揮していた。 それもあって、隊員たちは規律正しくなったという。 事情を話さずASTを離れたが、その腕を惜しむ上層部の意向で籍は残されている。 デート作戦における指揮能力は絶望的だが、実際の戦闘における指揮能力や顕現装置の操作・制御技術は並の魔導師を凌駕しており、その点においては琴里からも全面的に信頼されている。 DEM社の空中艦〈アルバテル〉との戦闘では神業的な顕現装置の操作技術を持って〈アルバテル〉を一方的に退け、折紙とエレンの戦いの時には〈フラクシナス〉の砲撃でエレンの注意を逸らし、折紙を援護した。 十香の消滅から一年の間に、岡峰珠恵と思われる女性 と婚約している。 崇宮 真那(たかみや まな) 声 - 四糸乃の封印後、天宮駐屯地に補充要員として配属された隊員で階級は。 また、DEM社からの出向社員でもあり、コールサインはアデプタス2。 士道とよく似た雰囲気を持ち、後頭部で括った髪に利発そうな顔、左目の下の泣き黒子が特徴の14、5歳くらいの少女。 身長147cm。 普段から「感心しねーです」、「決まっていやがります」といった、奇妙な敬語を話す。 顕現装置の扱いは世界で5指に入るといわれ、実際に折紙を含めたAST隊員10人がかりでも歯が立たないほどである。 また、纏っているCR-ユニットはDEM社で開発された新型だが、それを使用するに当たって全身に魔力処理が施されており、若年でありながら異常な戦闘能力を持つが、その代償は大きく、令音の分析ではあと10年ほどしか生きられないと診断された。 また、何らかの理由で記憶の大半を失っており、自分自身の身体のことは知らなかった。 実は士道の実妹であり、幼い頃に突然いなくなってしまった兄を、ロケットに入れられた古い写真を手がかりに探し続けていた。 記憶喪失の影響で兄のことはおぼろげにしか覚えていなかった(両親のことはまったく覚えていない)が、四糸乃の一件を記録した映像に映っていた士道を見て実兄と直感。 3巻で再会を果たした。 しかし、その古い写真から推定される士道の外見年齢は時期的に既に五河家に引き取られているはずの時期であり、琴里からは疑念に思われている。 十香からは「士道の妹2号」と呼ばれる。 五河家に招かれた際、琴里と壮絶な妹対決を演じるも、同時に兄を引き取って家族同然に育ててくれたことに感謝していた。 しかし、士道が琴里が司令官を務める〈ラタトスク〉機関の一員として精霊との直接交渉を行う危険な役割を任されていると知った時は、彼女に対して怒りを露わにしていた。 〈ナイトメア〉こと狂三とは深い因縁があり、自らの意思で人間を殺戮する狂三を抹殺することが自身の使命であり、存在理由だとしており、過去何度も殺してきた。 天宮駐屯地に来たのも、天宮市周辺に彼女の反応が確認されたからだった。 しかし、真那がこれまで殺してきた狂三は、彼女の能力によって召喚された過去の再現体でしかなく、天使を発現させた本体にはまったく歯が立たなかった。 狂三との戦いで重傷を負い、意識不明のまま入院していたが、〈ラタトスク〉により病院から連れ出され、〈フラクシナス〉にて秘密裏に匿われていた。 この間に自身の身体のことを琴里や令音から聞かされ、DEM社からの離反を決意。 当初はDEM社に対し「記憶喪失の私を受け入れてくれて存在理由も与えてくれた」と感謝していたが、後にジェシカたちと会合した際、彼女らにDEM社を退社すると伝えた上で、社長に対し「退職金は貴様の首で勘弁してやります」と言い放つなど、一転して怒りを露わにしている。 美九の暴走の際は眠っていたため、彼女の能力で洗脳されずに済み、琴里らフラクシナス・クルーを正気に戻した後、DEM社の部隊を相手に奮戦していた折紙の前に〈フラクシナス〉に積まれていたCR-ユニット〈ヴァナルガンド〉を装備して現れ、多くの〈バンダースナッチ〉と同僚であったジェシカ率いるDEM社の部隊を一蹴した。 その後、十香救出のためにDEMの日本支社に向かった士道と合流 したが、〈スカーレット・リコリス〉を装備し、脳改造によって半ば正気を失ったジェシカに阻まれる。 さらにエレンや洗脳された四糸乃や八舞姉妹まで乱入し、窮地に陥るが、折紙や燎子たちAST部隊のおかげで事なきを得る。 その後、廃人と化したジェシカを屠り最期を看取るも、自身に忠誠を誓う部下をゴミ同然に扱うウェストコットに抑えきれぬ怒りを湛えていた。 DEM社から離反した今でも、狂三を追い続けていた。 この狂三の追跡には、隙あらば魔力処理の治療のために病院へと収容しようとする琴里からの逃亡も兼ねていた。 DEM社を裏切ったことによりDEM社のお尋ね者となり、DEM社から100万ドルの懸賞金が掛けられている。 そして2月20日の決戦では、十香たちと共に澪と交戦するが、その最中に澪に頭に触れられた直後に記憶を取り戻し、澪に何処かへ転移させられた。 しかし、士道が【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日に時間遡行した事で、真那の記憶回復を含めた2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、二度目の2月19日では一連の真実を聞き、〈フラクシナスEX〉内部に侵入してきたエレンを迎え撃ち、士道と琴里の三人でウェストコットたちと交戦する。 そして、狂三がウェストコットの霊結晶を奪って自身に取り込んだ後に自ら士道にキスして霊力を吸収されたのを目撃しても、複雑な思いながらも攻撃しなかった。 そして、ウェストコットが精霊術式を発動させた後に、澪に霊力を注ぎ込まれて強化され、折紙たちと共にエレンやアルテミシアと互角に渡り合った。 そして、反転体の十香が澪の霊結晶を取り込んで理想世界へ上書きした際には、記憶を改変された上に〈フラクシナスEX〉での精密検査でも、身体に何の異常も発見されなかった。 しかし、元の空間に戻れば肉体はDEMの魔力処理に蝕まれた状態に戻ることを〈囁告篇帙〉で知っていた狂三が、精霊同士のバトルロイヤルが終わった後で狂三に決闘を挑まれて、その最中に狂三の残りの全霊力を込めた【四の弾】を撃ち込まれたことで、顕現装置が使えなくなった代わりに肉体がDEMの魔力処理が施される前の健康な状態に戻ったことに気付いて、狂三に皮肉を述べながら気絶した。 十香の消滅後、四糸乃や七罪や六喰と共に琴里の通っている中学校に三年生として編入し、剣道部のエースになっている。 そして、士道が並行世界から帰還した後の4月に、琴里たちと共に来禅高校に入学する。 12巻で暴走し忘我の域にあった士道が口にした台詞から、澪が士道と彼女の共通の過去に関わっており、失った過去の中で彼女がDEMに拉致された結果、記憶を消されてDEMに所属するという状態になったようであると推測されていた。 川越 恭次(かわごえ きょうじ) 声 - 〈フラクシナス〉のクルーの一人。 5回の結婚と離婚を経験した恋愛マスター、通称〈早すぎた倦怠期(バッドマリッジ)〉。 幹本 雅臣(みきもと まさおみ) 声 - 〈フラクシナス〉のクルーの一人。 金の力で夜のお店のフィリピーナに大人気、既婚者で3人の子供の父親、しかしなぜか子供に変な名前(上から美空(ぴゅあっぷる)、振門体(ふるもんてぃ)、聖良布夢(せらふぃむ))を付ける、通称〈社長(シャチョサン)〉。 だが課長にとどまっていた。 椎崎 雛子(しいざき ひなこ) 声 - 〈フラクシナス〉のクルーの一人。 何故か恋のライバルに次々と不幸が訪れる午前二時の女、通称〈藁人形(ネイルノッカー)〉。 実戦の経験が少ないために、緊急事態ではすぐに助けを求める一面がある。 〈アルバテル〉の襲撃や美九の〈破軍歌姫〉による洗脳などの危機的状況に襲われているが、いずれも運良く難を逃れている。 中津川 宗近(なかつがわ むねちか) 声 - 〈フラクシナス〉のクルーの一人。 自称100人の嫁(三次元かどうかは不明)を持つ男、通称〈次元を超える者(ディメンション・ブレイカー)〉。 MUNECHIUKAというペンネームでとある有名サークルの代表をしていたこともあり、オタク業界ではかなりの有名人。 箕輪 梢(みのわ こずえ) 声 - 〈フラクシナス〉のクルーの一人。 愛が深すぎるがゆえに法律で愛する彼の半径500メートル以内に近づくことを禁じられた、通称〈保護観察処分(ディープラブ)〉。 エリオット・ボールドウィン・ウッドマン 声 - 〈ラタトスク〉の創始者で、円卓会議の議長であり、琴里の恩人。 彼の部屋の本棚には点字図書が保管されている。 また、車椅子に乗っていた。 円卓会議の議員をバカにしている琴里も、ウッドマンにだけは敬意を払っている。 ウェストコットと因縁があり、捕らえたパディントン越しに会話を交わしたが、ウェストコットからの誘いを一蹴した。 DEM社の創業メンバーで30年前当時はウェストコットやエレンと共に精霊の利用を考えていたが、〈始原の精霊〉をその目で直接目撃したことによって、始原の精霊に恋し、今までの自分が許せなくなり彼に惚れ込んでいるカレンと共に離反した。 純正魔術師(メイガス)にして、世界最初の人造魔術師(ウィザード)であり、エレンに顕現装置の使い方を教えた師匠でもあった。 しかし、ウェストコットやエレンと違って顕現装置で老化を抑制していない為、緊急着装デバイス〈〉を使用する為には顕現装置で身体を全盛期の状態に戻さないと使用できない超高出力ユニットである為に、〈ヴォーダン〉を使用する度に寿命を削っている。 魔術師として戦闘が可能であるが、緊急着装デバイスに回数制限がかかっており、ウェストコットと直接対面した時には残り2回という僅かな残数へと減っていた。 魔術師としての実力はかなり高いらしく、17巻で全盛期の姿でエレンにむけて「俺のいない世界で最強を気取るのは、楽しかったか?」と発言して交戦を開始する。 そして、エレンの切り札である〈ロンゴミアント〉に対して、自身の切り札である〈〉を放って勝利する。 そして、エレンの顕現装置を全て破壊して気絶させると、この戦いに勝てたのは安定的に100の力を発揮できるエレンが一瞬だけ101の力を出せるエリオットに不意を突かれただけという話であり、世界最強の魔術師はエレンだと自覚していると思った後、遂に限界を迎えて倒れ、士道に後を託して息を引き取った。 しかし、士道が【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日に時間遡行した事で、エリオットの死を含めた2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、二度目の2月19日に〈フラクシナスEX〉からの一連の報告を聞いても〈始原の精霊〉澪と〈ラタトスク〉が保護してきた精霊たちの両方に味方するという答えは変わらず、DEMの総攻撃によって窮地に陥った士道たちを救う為に出陣しようとするが、澪がDEMの艦隊を壊滅させた上に死んだはずの狂三が現れてウェストコットの霊結晶を奪うという事態になり、重傷を負ったウェストコットが撤退したことで生き残った。 そして、カレンと共にウェストコットたちが精霊術式を発動したのを感知する。 そして、カレンと共に致命傷を負ったウェストコットの前に現れて、ウェストコットとかつての仲間だった頃のように会話した後、三人でウェストコットの最期を見届けた。 ウェストコットの消滅後、DEMやウェストコットに関する記憶を失ったエレンを〈ラタトスク〉の機関員として働かせる決定を行った。 カレン・ノーラ・メイザース 声 - ウッドマンの側近の20代中盤の眼鏡をかけた、淡いノルティックブロンドの髪の女性。 エレンの妹で、彼女とは袂を別っている。 かつてはDEM社の技術開発部部長であったが、ウッドマンと共に離反している。 その結果、DEM社の技術進行速度は数年遅れることとなった。 魔術師としての実力は未知数。 ウッドマンに心底惚れ込んでいて、ウッドマンが〈始原の精霊〉に一目惚れしたことによって、DEMからの離反に付き従った。 14巻で折紙と意気投合し、折紙のことを3人目の理解者というような発言をした。 そして、17巻でエレンを倒す為に出撃しようとしているエリオットが次に緊急着装デバイスを使用すれば命が尽きることを知っていたことで、エリオットを冗談を装って引き留めようとするが、エリオットの決意は変わらず旗艦〈ウルムス〉に残った。 そして、18巻で円卓会議議長代理として戦闘の指揮を執るが、〈始原の精霊〉崇宮澪が現れて〈万象聖堂〉を展開した事で事態は一変。 〈ウルムス〉から状況を把握しようとして自ら解析を行うが、澪が殺害した精霊の死体が一つ少ないことに気付く。 しかし、士道が【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日に時間遡行した事で、精霊たちの死を含めた2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、二度目の2月19日に出陣しようとするエリオットを止めずに見送ろうとしたが、事態の推移によってエリオットが出陣せずに生き延びたことに安堵し、狂三に感謝するが、エリオットと共に精霊術式が発動したのを感知する。 そして、エリオットと共に致命傷を負ったウェストコットの前に現れて、最早ウェストコットを救えないと悟って泣き崩れる姉エレンの姿を見て微かに心苦しそうな様子を見せて、三人でウェストコットの最期を見届けた。 五河 遥子(いつか はるこ) 五河家の母親で〈ラタトスク〉の母体であるアスガルド・エレクトロニクスの社員で、ショートカットの髪に吊り目がちな双眸をし堂々とした立ち姿の女性。 夫の竜雄と2人で顕現装置の開発に携わり、〈フラクシナス〉の開発チームでもある。 士道と琴里、精霊達のことも承知しているが、臨時休暇で一時帰宅するまで十香たちの顔を知らなかった。 旧姓は穂村(ほむら)で、真那の親友だった。 五河 竜雄(いつか たつお) 五河家の父親で〈ラタトスク〉の母体であるアスガルド・エレクトロニクスの社員で、黒縁の眼鏡ににこにことした微笑んだ風貌の猫背気味な男性。 優秀なエンジニアだが人の悪意などには非常に疎く、善人すぎる人格。 また、崇宮真士のクラスメートで友人でもあった。 ローランド・クライトン 〈ラタトスク〉最高幹部連、円卓会議の一員である吠え癖のあるを思わせる初老の男。 短絡的で士道の暴走時、オルムステッドから密かに横流しされた〈ダインスレイフ〉の起動キーを起動してしまうが、〈ファントム〉によって士道の死は防がれた。 フレイザー・ダグラス 〈ラタトスク〉最高幹部連、円卓会議の一員である痩身に片眼鏡が特徴的なを思わせる男。 ギリアン・オルムステッド 〈ラタトスク〉最高幹部連、円卓会議の一員であるに出る意地の悪い猫のような雰囲気を持つ男。 ずる賢く、自分の関与をうかがわせずに琴里しか有していないはずの〈ダインスレイフ〉の起動キーをクライトンへと横流しした。 ウッドマンにはこのやり口を見抜かれ、〈ファントム〉の出現で俗物的な言動を言おうとしたことに黙れと釘を刺された。 或守 鞠亜(あるす まりあ) 声 - PS3版ゲーム第二弾『或守インストール』のオリジナルキャラクター。 アッシュブロンドの髪に青の瞳、十字が象られた白を基調とした修道服を纏う。 〈ラタトスク〉が作った仮想世界に現れ、士道に「愛」とはなんなのかを問いかける。 その正体は、〈フラクシナス〉の管理AI。 鞠奈が〈フラクシナス〉のメインコンピューターに侵入した際に、最もプロテクトが強固な仮想世界に鞠奈を閉じ込め、未知の存在である鞠奈に対抗するために鞠奈を模倣して生み出された。 記憶がロックされていたため、AIの根本的な目的である「愛」を知ることのみを目的としていた。 愛を知るために士道を愛する者達を仮想世界に連れ込み、士道達の設定の変更や記憶のリセットを行うことで愛を観察していた。 その中で少しずつ人間らしさを手に入れていったが、その隙を鞠奈につかれ、権限のほとんどを奪われてしまう。 最後は権限を取り戻し、鞠奈と共に消えることを選んだが、鞠奈が人格と記憶を移していたため、士道の携帯電話に移る形で生き残った。 戦闘時には、彼女の正体である〈フラクシナス〉の管理AI由来であることを彷彿させるような、機械のパーツが多数付けられた擬似霊装を纏う。 再び発生した〈凶禍楽園〉に実体を伴って現れ、士道と共に真相の追究を行っている。 MARIA( マリア) 修理改修され、対話式コミュニケーションの機能が付加された〈フラクシナス〉改め、〈フラクシナスEX(エクス・ケルシオル)〉の管理AI。 「マリア」の呼び名はコールサイン。 対話機能が追加されたことにより、ここぞとばかりに問題児なクルーたちに問題行動を指摘する。 2月20の決戦で、〈フラクシナスEX〉は澪に破壊されマリアも機能停止したと思われるが、士道が【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日に時間遡行した事で、〈フラクシナスEX〉の破壊を含めた2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、二度目の2月19日では澪に霊力を注ぎ込まれて〈囁告篇帙〉を取り戻しても自分の天使は戦闘向きではないと落ち込む二亜にある提案を行い、二亜の〈囁告篇帙〉と〈フラクシナスEX〉の顕現装置を使って〈ニベルコル〉のようにマリア自身の疑似精霊としての分身体を多数生み出し、〈極死祭壇〉の闇の粒から士道たちを守った。 十香の消滅後、顕現装置で作成された対人コミュニケーション用のボディが完成し、人間の肌の質感を完全に再現するなどの優れた義体を、一年後には五体ほど稼働している。 AST 日下部 燎子(くさかべ りょうこ) 声 - AST天宮駐屯地の隊長。 階級は。 27歳。 精霊根絶のために手段を選ばない折紙を気にかけている。 しかし、彼女の両親が炎の精霊〈イフリート〉に殺害された(事実は異なる)ことは、本人が〈ホワイト・リコリス〉を持ち出すまで知らなかった。 原作6巻において、ジェシカ率いるDEM社の部隊が配属されると上層部に激しく食って掛かり、さらにジェシカたちの露骨な態度に反発。 後にジェシカたちが一般人を巻き込んで〈プリンセス〉を捕獲しようとしていることと、彼女たちのもうひとつの狙いが折紙の想い人である士道だと知り、そのことを折紙に洩らし、彼女の二度目の〈ホワイト・リコリス〉での独断出撃を黙認。 それによって作戦を妨害されたジェシカの増援要請を無視した。 士道と狂三のDEM日本支社襲撃時は、DEMに逆らえない上層部を愚痴りつつも狂三の分身たちと戦うが、美九に操られた四糸乃たちの乱入などに引っ掻き回された。 その後も理不尽なことを行い続けるDEM社に逆らおうとしても、下手に逆らえばAST天宮駐屯地の人員をDEM社の息のかかった人間に挿げ替えられかねないために、逆らいたくても逆らえない歯がゆい状態が続いている。 幸か不幸か、彼女を初めとしたAST天宮駐屯地のメンバーはDEM社に押さえられていたために、精霊と化した折紙の姿を見ることは無かった。 士道と狂三の歴史改変によって、折紙は自らの精霊化を自覚していない状態でASTを退職し、なおかつ喪服のような霊装であったために〈デビル〉が折紙であることには気づいていなかった。 その後、17巻にて折紙と真那からDEM社からの応援要請を跳ねのけるように言われて葛藤した末、2月20日の決戦でDEM社の魔術師アイリーン・フォックスに攻撃を受けそうになったが六喰によって助けられたこともあり、ASTを辞めて〈ラタトスク〉に再就職することを決意する。 その後、澪の〈万象聖堂〉の光を浴びた美紀恵たちが心肺停止状態になってしまったことで、折紙の頼みを受けてアルテミシアと美紀恵たちを連れて〈フラクシナス〉に到着する。 そして、〈ラタトスク〉の司令である琴里の若さと、かつての上官である神無月と再会して二度驚愕する。 そして、意識不明者と非戦闘員が乗る区画を〈ウルムス〉に射出することになると、琴里の頼みで射出する区画の警護に回った。 しかし、士道が【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日に時間遡行した事で、〈ラタトスク〉への転向を含めた2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、二度目の2月19日に美紀恵やミリィと共に天宮駐屯地にいるところを数体の〈バンダースナッチ〉に襲撃され窮地に陥るが、六喰の〈封解主〉によって瞬間移動した折紙に助けられた。 普段から実戦に出ていない上層部の不満の声をさんざん聞いているためにストレスがかなり溜まっており、それが爆発すれば鬼神としか言いようの無いまでに激昂する一面もある。 岡峰 美紀恵(おかみね みきえ) 声 - 『デート・ア・ストライク』のもう一人の主人公。 AST天宮駐屯地に配属された新人隊員で階級は。 年齢は士道達より1歳年下だが、折紙と共に行動させるという上の方針により、1年飛び級で来禅高校に編入している。 そのあまりに子供っぽい性格と言動から、燎子に遊ばれている。 岡峰珠恵の従姉妹。 岡峰重工の社長・岡峰虎太郎を父に持つ社長令嬢だが、その期待に応えることが出来ず「役立たず」として放逐されている。 失意の内に町を彷徨う中、封印前の十香の攻撃から折紙たちASTに助けられたことがきっかけで入隊した。 その経緯から折紙を慕っており、より親密になろうと努力するが、あまり上手くいっていない。 また、高校編入後に十香とは親しくなっているが、彼女の正体には気づいていない。 アシュリーたちの襲撃の際、奪取されそうになった〈アシュクロフトV〉「チェシャー・キャット」を装着、以降は暫定的な使用者になる。 2月20日の決戦では、決戦前に折紙が言っていた通りの事態となった事とDEMの魔術師に使い捨てにされそうになった事で、燎子たちと共に〈ラタトスク〉への転向を決める。 しかし、澪の〈万象聖堂〉の光を浴びたことで心肺停止状態となり、その状態で〈フラクシナス〉へ運び込まれた。 しかし、士道が【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日に時間遡行した事で、美紀恵の心肺停止状態を含めた2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 ベル 「チェシャー・キャット」に搭載されたナビゲーションAI。 ユニットの装備や機能説明を行う。 その正体はAIではなく、失われたはずのアルテミシアの人格そのものであった。 ミルドレッド・F・藤村 声 - AST天宮駐屯地の整備士。 愛称および一人称はミリィ。 美紀恵と同い年くらいの少女で、階級はだが、真那と同様、DEM社からの出向社員。 しかしCR-ユニットの整備ができれば、あとはどうでもいいために執行取締役のウェストコットのことや非人道的な実態を知らず、DEM社員としての自覚は全く無い。 妄想癖過多で耳年増。 本来は同僚であるジェシカたちのやり方には燎子と同じく反発を覚え、折紙に愚痴と共に情報を洩らした。 桐谷 AST天宮駐屯地の。 〈ホワイト・リコリス〉を無断で持ち出していた折紙に対し、査問会で懲戒処分を言い渡した。 しかし、直後に乱入してきたウェストコットが異を唱え、一度は撥ね付けるも、まで引っ張り出したウェストコットの圧力に屈し、二ヶ月の謹慎処分に減刑した。 塚本 声 - ASTの女性自衛官で、階級は。 来禅高校 殿町 宏人(とのまち ひろと) 声 - 士道のクラスメイトで友人。 ワックスで逆立てられた髪が特徴。 クラスの情報通、感情豊かでノリの良い少年。 思春期の少年らしく恋愛やエロスに興味津々だが、自身が主催した『恋人にしたい男子ランキング』では358位中358位に終わり、『腐女子が選んだ校内ベストカップル』では士道とセットで2位となるなど、女生徒からの反応は冷たい。 それゆえ、十香や折紙から好意を寄せられる士道を羨ましく思っている。 2月20日の決戦では、空間震警報で学校地下のシェルターにいたところで、澪に転移させられた士道が十香と折紙たちを探しにシェルターの外に出ようとしているのを見て、亜衣麻衣美衣と共に教師たちの足止めを行うが、士道がシェルターの扉を開けるために〈封解主〉を顕現したのを目撃して驚愕する。 しかし、士道が【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日に時間遡行したことで、〈封解主〉の目撃を含めた2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、二度目の2月19日では亜衣麻衣美衣や岡峰珠恵と共に教室にいたところを数体の〈バンダースナッチ〉の襲撃を受けて窮地に陥るが、六喰の〈封解主〉によって瞬間移動した十香に助けられた。 岡峰 珠恵(おかみね たまえ) 声 - 士道たちのクラスの女性担任。 29歳。 微妙にサイズの合っていない眼鏡や、のんびりとした性格、生徒らと同年代にしか見えない童顔と小柄な体格から、『タマちゃん』という愛称で生徒たちから親しまれている。 しかし、29歳独身という境遇から結婚願望が非常に強い。 士道の告白(訓練)を受けて以来婚姻届けを持ち歩き、婚活パーティーにも通っている。 十香の消滅から1年後、ようやく婚約が出来た模様で、相手はあの神無月恭平だと思われる。 山吹 亜衣(やまぶき あい)、葉桜 麻衣(はざくら まい)、藤袴 美衣(ふじばかま みい) 声 - 、、 士道のクラスメイトの女生徒の仲良しトリオ。 似たような名前が縁で仲良くなった。 十香の純粋無垢な性格に好意を持ち、士道との仲を積極的に応援する。 十香に対しては水族館のチケットを渡してデートを進めるなど好意的で優しいが、反面、士道に対しては厳しい。 三人とも強引かつ猪突猛進な性格であり、修学旅行ではカメラマンに扮して十香を監視していたエレンを無自覚ながら散々妨害し、当人から天敵と恐れられていた。 かわいいものに目がなく、女王様のような仰々しい言動の耶倶矢も「イタかわいい」とあっさりと受け入れた。 天央祭の際は、体育館に集まった全校生徒の前で決起集会を行っている。 当人たちの弁では、亜衣の父親は黒魔術結社の幹部、麻衣の母親はSMの女王様、美衣の叔父は外国ので、誕生日に『一人殺したらもう一人サービス券』をもらったとのことである。 美衣は、アニメではほぼ全編を通して台詞が「マジ引くわー」か、それを少し変えたセリフのみとなっている。 三人の中で、制服は亜衣だけシャツを出して着ている。 長曽我部 正市(ちょうそかべ しょういち) 善良で目立たない初老の物理教師。 通称「ナチュラルボーン石ころぼうし」。 物理準備室がトイレ以外で唯一安らげる場所。 デウス・エクス・マキナ・インダストリー(DEM社) アイザック・レイ・ペラム・ウェストコット 声 - DEM社業務執行取締役(マネージング・ディレクター)。 DEM社の実質的なトップで、各国の上層部に顔が利く。 エレンやウッドマンからは「アイク」の愛称で呼ばれる。 30代の男性に見える外見を持つが、確認される限りでは数十年以上前から外見が変わっておらず、DEM社の取締役たちの中では若手として扱われる壮年の者たちを差し置いた古参格であることと、顕現装置は使いようによっては代謝操作で若い体を維持できることから、外見通りの年齢ではなく、年季が入っていることをうかがわせる。 ただし、彼当人は手術を施していないため、顕現装置を直接扱うことはできない。 〈ホワイト・リコリス〉を動かした折紙に目をつけ、ASTの上層部に圧力をかけて彼女の処分を軽減させた。 さらに精霊〈プリンセス〉に酷似した十香の正体を確かめるため、DEM系列の旅行会社を利用して士道らの修学旅行先を沖縄から或美島に変更させ、エレンと空中艦〈アルバテル〉を差し向ける。 この作戦で〈アルバテル〉を失うものの、夜刀神十香が精霊〈プリンセス〉であることと、精霊の力を扱う人間、五河士道の存在を確認。 二人を捕獲するため、ジェシカ率いるアデプタス部隊を天宮駐屯地に派遣した。 人を傷つけたり殺すことをなんとも思わず平然と立案し、倫理観が全く無い冷徹かつ異質な人物で、マードックやエドガーのように自分に対して反抗する者を実力主義者の面として好ましく思っている。 対峙した者から見ると、同じ人間とは思えない人間の形をしただけの思考形態が完全に異なる異質な生物という印象を持つ。 ウッドマンからは「核ミサイルのスイッチが並べられた部屋にいる子供」と形容される。 後に、他者の絶望に悦びを覚える異常な倫理観と価値観の持ち主だと判明する。 〈ラタトスク〉にいるDEM社の元創業メンバーの一人であるウッドマンとは純正魔術師(メイガス)が隠れ住む村で生まれ育った友人同士であったが、現在では「あの若造」と蔑称している。 士道と初めて会った際に「タカミヤ」と言い残しており、五河家に引き取られる前の士道のことを知っていると士道に推測されていた。 その真相は、30年前に天宮市で崇宮真士と澪の前に現れて、澪を引き渡せば真那の身柄を返すというウエストコットの提案を断って澪を連れて逃げようとした真士を、銃撃して射殺したというものであった。 13巻で、二亜を仕込んでいた顕現装置によって反転させ、二亜の反転した霊結晶を取り込み〈神蝕篇帙〉を己のものとし、自らの野望実現へと前進する。 これにより、歴史改変のことも知った。 16巻で士道の抹殺をエレンたちに命じ、〈神蝕篇帙〉から〈ニベルコル〉を生み出しエレンたちに与えた。 2月20日の決戦では、旗艦〈レメゲトン〉に搭乗して〈ラタトスク〉との戦闘を眺めていたが、〈始原の精霊〉崇宮澪が現れて〈万象聖堂〉を発動したことで〈レメゲトン〉を撃墜された。 しかし、ウェストコットは無傷で地上に降りて、澪の霊力を手に入れる為に士道の前に現れて、先に士道の霊力を奪おうとして交戦を開始する。 当初は〈神蝕篇帙〉の力で戦闘を優位に進めるが、美九と七罪が士道の援軍に現れて、二人の〈破軍歌姫〉によって身体能力を限界まで強化した士道が放った【最後の剣】を〈ニベルコル〉を使ってギリギリで回避し勝利を確信するが、その一瞬の隙をつかれて士道が放った〈瞬閃轟爆破〉を喰らって敗北する。 そして、士道の〈封解主〉で〈神蝕篇帙〉の力を封印された直後、澪に反霊結晶を摘出された。 しかし、士道が【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日に時間遡行した事で、反霊結晶の摘出を含めた2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、二度目の2月19日に〈神蝕篇帙〉によって一連の真実を知ったウェストコットは、自身の望む未来を実現させるために、精霊術式に必要な魔力炉と集積呪符を〈ゲーティア〉に搭載させ、その日のうちに士道と精霊たちに総攻撃を仕掛ける。 そして、予定通りに狂三に二亜の霊結晶を奪わせ、その際に重傷を負わされながらも自身を核に精霊術式を発動し、自身を新たな〈始原の精霊〉へと変化させ始めた上に、魔王 〈永劫瘴獄()〉を顕現させる。 しかし、澪の〈輪廻楽園〉で〈永劫瘴獄〉を抑え込まれるが、即座に 〈極死祭壇(アティエル)〉を顕現させて精霊たちを攻撃させる。 しかし、〈囁告篇帙〉を取り戻した二亜と顕現装置で生み出されたマリアの分身体たちに防がれ、士道の渾身の一撃を受ける。 そして、エレンに抱きかかえられながら身体の大半が消失し死を待つだけとなった最期の時にエリオットとカレンが現れて、エリオットとかつての仲間だった頃のように会話した後で、エリオットたちが悲しみと絶望に満ちているのを感じて、恍惚しながら息を引き取った。 目的の詳細は〈始原の精霊〉の力を手に入れて世界を上書きすることであり、鞠奈曰く「世界を滅ぼしてでも成し遂げたい」とのことであった。 〈 ニベルコル〉 ウェストコットが〈神蝕篇帙〉を使って生み出した擬似精霊。 全員が或守鞠奈と似たような容姿をしており、〈神蝕篇帙〉のページから無数に生み出される。 〈禁呪霊装・二番・片(カイギディエル・イェレッド)〉と呼ばれる簡易的な修道女型霊装を纏っているが、強度自体はさほどではない。 また、 〈神蝕篇帙・頁(ベルゼバブ・イェレッド)〉と呼ばれる古びた紙を、紙飛行機や折り鶴などの形にして攻撃したり、何枚も重ねて鎧の形をとったりする。 また〈神蝕篇帙〉が発生原因であり、その〈神蝕篇帙〉も二亜の〈囁告篇帙〉と表裏一体のため、二亜の好感度によっては、士道のキスによって倒すことが可能であり、さらに一にして全、全にして一の群体のため、士道にキスをされたと認識した個体も、まとめて倒すことができる。 身長158cm。 二度目の2月19日に、狂三がウェストコットから二亜の霊結晶を奪ったことで存在を維持できなくなり、全員消滅した。 エレン・ミラ・メイザース 声 - DEM社の表沙汰にできない裏の部隊である第二執行部部長にして、世界最強の魔術師。 事実上のDEM社のナンバー2でコードサインはアデプタス1。 ノルディックブロンドの長髪が特徴の美女。 CR-ユニット〈〉を纏う。 魔術師達の間では『悠久のメイザース』の通称で呼ばれる。 身長160cm。 口調や物腰は丁寧だが、自らの実力に傲岸なる絶対の自信を持つ。 十香が〈プリンセス〉なのかを確かめるため、ウェストコットの指示でカメラマンとして来禅高校の修学旅行に同行するが、自らの不運と亜衣・麻衣・美衣の無自覚な妨害によって大苦戦を強いられた。 しかし、耶倶矢と夕弦の戦闘により生じた暴風雨を好機とみて捕獲を決行。 〈バンダースナッチ〉部隊を率いて限定解除の十香と戦い、圧倒的な強さで打ち倒すも、士道による〈鏖殺公〉の顕現、さらにはパディントンの命令無視に端を発した〈アルバテル〉損傷から撃沈に伴う〈バンダースナッチ〉の制御不能、そして自らの不運が重なり、機能停止した〈バンダースナッチ〉の下敷きになって昏倒するという無様な形で失敗した。 その後、天宮祭にて起こった美九の暴挙の隙を突き十香を捕獲、DEM日本支社に連れ去った。 常に世界最強を自負するように慇懃無礼に話しながら、ウェストコットと同様に冷徹かつ異質で倫理観が極めて無い性格で、彼女に拷問される寸前だった士道は、精霊とは全く別の意味での異物感を感じている。 対峙した者からすれば、自分達人間をそもそも同じ生物として見てはいないと評される。 長年の付き合いであるウェストコットのことを「アイク」と呼んでいる。 世界最強の魔術師だけあり、〈フラクシナス〉の主砲を受け止めたり、美九の洗脳が全く通じないなど、他の魔術師とは一線を画する力を誇る。 反転した十香とも互角に戦うが、最中に折紙に負わされた傷が開いてしまい、不利を悟ってウェストコットを連れて撤退した。 さらにはエレン単独で動かす専用空中艦〈〉を擁し、常識外の戦闘力をもって一撃をもらった以外は〈フラクシナス〉を一方的に叩きのめした。 13巻の終盤で、二亜の反転した霊結晶を奪取する為に士道たちを襲撃し、アルテミシアの助けもあって反霊結晶の回収に成功し、その後でウェストコットが顕現させた〈神蝕篇帙〉に触れたことで歴史改変前の世界の記憶を思い出した。 14巻では、宇宙に漂う六喰を地上へ落とす為に〈ゲーティア〉へ宇宙に向かうが、15巻で〈フラクシナスEX〉との戦闘に敗れて地上に落とされた上に、琴里にアイクが自分に黙って〈ラタトスク〉の本拠地を襲撃したのを聞かされたことで、憤懣やるかたない状態でDEM日本支社に戻った。 16巻では、アルテミシアの記憶処理が解けるのを懸念した後で、アイクに士道抹殺を命じられ、2月9日にアルテミシアや〈ニベルコル〉と共に士道を襲撃しようとしたところで、真那に迎撃され失敗に終わった。 そして、2月20日の決戦で〈ラタトスク〉を迎撃している最中に全盛期の姿のエリオットと遭遇し、絶叫しながら交戦を開始する。 そして、交戦の末に自身の切り札である〈ロンゴミアント〉をエリオットに放つが、エリオットの切り札である〈ゴングナー〉との衝突に撃ち負けて敗北する。 そして、エリオットに顕現装置を全て破壊され、気絶させられる前に「なぜ、私を連れて行ってくれなかったの、エリオット」と呟いて気を失った。 しかし、士道が【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日に時間遡行した事で、エレンの敗北を含めた2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、二度目の2月19日にウェストコットから魔力炉と集積呪符を〈ゲーティア〉に搭載するように命じられる。 そして、〈フラクシナスEX〉の装甲を切り裂いて内部に侵入し、士道を殺そうとするが、真那に阻止される。 そして、ウェストコットやアルテミシアや〈ニベルコル〉たちと共に士道たちと交戦し追い詰めるが、死んだはずの狂三が現れてウェストコットの胸を貫いて霊結晶を奪ったことで、重傷のウェストコットを連れて撤退する。 しかし、ウェストコットが精霊術式を発動させたことで、精霊術式の核になっている〈ゲーティア〉をアルテミシアと共に防衛する為に折紙たちと交戦する。 しかし、戦いの末にウェストコットが致命傷を負って、もう手の施しようもないと気付いた直後にエリオットとカレンが現れて、恨んでいるはずのエリオットにウェストコットを助けてと懇願するが、もはや誰にもウェストコットの命を救えないと気付いて泣き崩れ、三人でウェストコットの最期を見届けた直後に気絶した。 そして、目覚めた後にはDEMとウェストコットに関する記憶を失っており、ウッドマンの一存で〈ラタトスク〉の機関員として空席となった令音の後任として、来禅高校の士道たちのクラスの副担任になったり、二亜のアシスタントになったりと多忙である。 一方で、顕現装置を使用しない状況下ではビート板がないと25m泳げなかったり、1000mの持久走で途中リタイアなど、かなりの運動音痴。 本人はそのことを誰にも気づかれてはいないと思っていたが、部下たちの間では公然の秘密だった。 〈ラタトスク〉に袂を別っている彼女の妹のカレンが所属しているが、姉妹というには外見年齢が一致していないことや、ウェストコットのように顕現装置は使いようによっては代謝操作で若い体を維持できることから、外見通りの年齢ではないことをうかがわせる。 〈始原の精霊〉の発生原因が彼女とウェストコットとウッドマンの3名であることから、最低でも年齢は30歳を超えている模様。 ジェームズ・A・パディントン 声 - DEM第二執行部の大佐相当官にして空中艦〈アルバテル〉の艦長。 元イギリス海軍大佐。 エレンの部下であるが、当人は親子ほども歳の離れたエレンに従うことを快く思っていない。 十香の調査に赴いたエレンを〈アルバテル〉で補佐している最中、偶然〈フラクシナス〉の存在に気づき、エレンの命令を無視して独断で攻撃を仕掛けるが、神無月の神業的な指揮と随意領域操作の前には歯が立たず、返り討ちにされる(その結果士道と十香がエレンから逃れることができた)。 独断専行によって艦を損傷させられた上に〈バンダースナッチ〉部隊の一部を失うという失態を犯した焦りから、名誉挽回を狙って八舞姉妹を捕獲しようとするが、和解直後の気分を害された耶倶矢と夕弦の怒りに触れ、〈颶風騎士〉【天を駆ける者】によって〈アルバテル〉を木っ端微塵にされた。 その後、〈ラタトスク〉に捕縛され尋問をされても、ウェストコットから記憶を消去されているために情報を一切出さなかったが、ウッドマンが訪れたことで一変。 既に施されていたウェストコットの生きた会話中継役という役割が起動し、中継が終わった後は用済みのように吐血した。 5年前に離婚した妻との間に2人の娘がおり、現在も慰謝料と養育費を払い続けている。 ジェシカ・ベイリー 声 - DEMの第三戦闘分隊の隊長。 コードサインはアデプタス3。 20代半ばの赤髪の外人女性。 日本語に慣れていないのか、独特のイントネーションの会話(会話文中に頻繁にカタカナが混ざっている)が特徴。 真那と同様、DEM社の出向社員として部下9人(アデプタス4〜12)と共に天宮駐屯地へ配属される。 表向きは同駐屯地への補充要員だが、実際はウェストコットから十香と士道の捕獲という密命を帯びており、非常時における特別裁量権を持った独立分隊としての権限が与えられていた。 燎子、折紙を初めとした天宮駐屯地のAST隊員を「役立たず」と見下しており、部下ともども露骨な態度を取っている上、他人が気に入らない言動を取るとすぐに手が出る。 また、ウェストコットに心酔しており、彼の命令とあらば一般人に対する無差別攻撃も厭わないなど、傲慢かつ高飛車で非情な性格。 同時に、自分より年下でありながら実力・階級共に格上の真那に激しい嫉妬心を抱いている。 美九との戦闘の際、近くにいた士道に気付き、即座に捕獲を試みるも折紙に妨害された上、自分たちの真の目的に勘付かれた。 ウェストコットの命令でDEM社の最新鋭の装備を身に纏った部下と〈バンダースナッチ〉20機を率い、多くの市民が集まった天宮スクエアを強襲して十香を捕らえようとするものの、寸前で〈ホワイト・リコリス〉を装備した折紙に再び阻止される。 増援部隊と共に折紙を追い詰めるも、今度は同僚であったはずの崇宮真那に乱入され、圧倒的な実力差とCR-ユニットの性能差の前に部下ともども敗北した。 その後、脳に魔力処理を施され、〈ホワイト・リコリス〉の姉妹機である〈スカーレット・リコリス〉を用いて真那と戦う。 脳改造によって半ば正気を失い、真那を抹殺するだけの殺戮マシーンと化し、執拗に彼女を追い詰めるも、〈リコリス〉の活動限界による負荷に耐え切れず暴走。 最後は真那に介錯され、ウェストコットへの忠誠心を口にしながら彼女の眼前で息を引き取った。 アンドリュー 声 - 子安武人 DEM社の第一社屋の十香を監禁していた部屋を護衛していた筋肉質の男性の魔術師。 巨大なガトリング砲を持っていたが士道と美九の口喧嘩の真っ最中だったために邪魔とばかりに一蹴された。 原作版ではフルネームはやたらと長かったらしく、名乗りを上げている途中で一蹴された。 アニメ版では名前が短縮され、アンドリュー・カーシーとなっている。 ロジャー・マードック 声 - DEMの取締役の一人。 ウェストコットを業務執行取締役から解任しようとしたが、物理的暴力で封じられた。 その後、ウェストコットの暗殺を計画。 他の役員達と共謀して計画を進めた。 なお、その際に意図的に狂人じみた言動をしている(ただし本人も演技ではなく本当に狂っているのではと自己分析していた)。 天宮市に滞在していたウェストコットに爆破術式付きの人工衛星を落として殺そうとしたが、士道達とDEMに入った折紙によって防がれてしまう。 その後、計画に加担した他の取締役員と共に本国で拘束されたが、処罰は降されていない。 ラッセル 声 - 山中誠也 DEMの取締役の一人で、取締役会の議長(チェアマン)。 ウェストコットの解任決議が行われた際に採決を行ったが、右腕を切り落とされたマードックたちを見て「決議は否決された」と平然と発言するなど、ウェストコット寄りの姿勢を見せた。 シンプソン 声 - DEMの取締役の一人で、ウェストコットの解任決議で賛成して手を挙げたことでエレンに腕を切り落とされた一人でもある。 その後、マードックのDEMの廃棄された人工衛星を天宮市に落としてウェストコットを抹殺しようとする計画に賛同するが、失敗した後にマードック共々拘束された。 ノックス、バートン 二亜を移送する任務を負っていた輸送機の操縦士と副操縦士。 狂三の襲撃という事態からアデプタス2による防衛で輸送したが、暴走した士道による攻撃とそれに共鳴を起こした二番目の精霊によって幽閉していたコンテナと輸送機を破壊され、逃亡された。 二亜の逃亡後にウェストコットとエレンに詰問され、そこで彼らの異質さを思い知りDEMからの転職を決意した。 クロウリー DEM社の正規の戦闘部隊である第一執行部のトップの人物。 ミネルヴァ・リデル 『ストライク』に登場。 色黒の女性。 元SSSのナンバー2であり、現在はDEM社の第一執行部所属。 コールサインはセオリカス12。 SSS時代、ナンバー1であるアルテミシアと魔術師の存在意義を巡り争った際に左目を斬られて以来、彼女へと芽生えた「愛」と称する執着を糧に昇り詰めた。 セシル達を追って日本に現れる。 エドガーの指示に従って動いているが、根本的なところでは従わず、新型顕現装置のコアにアルテミシアが使われるように仕向け、〈アシュクロフト〉をすべて集めることで自らがアルテミシアになろうとする。 「ジャバウォック」に仕込まれていた機能を使って戦いを優位に進めるが、「チェシャー・キャット」に潜んでいたアルテミシアの意識、美紀恵・折紙・セシル達の奮闘によって倒された。 それでも狂気的な執念のままにセシルを傷つけ戦いをやめようとしなかったが、〈アシュクロフト〉に分散されていたアルテミシアの意識が共鳴した怒りによって〈アシュクロフト〉が集合体の怪物と化し、集合体が起こした破壊に巻き込まれて瓦礫に潰される形で絶命した。 エドガー・F・キャロル 『ストライク』に登場。 DEM社専務取締役(エグゼクティブ・ディレクター)。 〈アシュクロフト〉の開発者であり、〈アシュクロフト〉の成果でウェストコットから社長の座を奪おうとしていたが、ウェストコットに対して命乞いをしたためにエレンによって首を落とされ死亡した。 アルテミシア・ベル・アシュクロフト ウェストコットからエレン・真那に並んで世界最高峰の魔術師の一人として名を挙げられる女性。 18歳。 SSSの隊員ではみ出し者だったアシュリーたちと仲良くしており、人々が平和に暮らせる世界をつくるための更なる力を求めてDEM社の元に向かうが、脳内情報をすべて奪われ、〈アシュクロフト〉シリーズのコアとされ、本人は脳死状態となってしまう。 彼女を元に戻すには、〈アシュクロフト〉シリーズ5つ全ての情報をフィードバックさせるしかないとされる。 〈アシュクロフト〉が失われたことで意識が戻らないかと思われたが、美紀恵の随意結界でコアが守られていたことで意識を取り戻し、セシルたちの監視役としてリハビリしながら共に生活している。 ウェストコットとエレンは彼女をアデプタスナンバーに引き入れようとしているが、折紙の一件の時点ではまだ実戦には復帰できていないために、引き入れることができていない状態が続いていた。 その後、12巻ではDEMの新たなアデプタス2となった。 エレンの〈ペンドラゴン〉の姉妹機であるCR-ユニット〈〉を纏い、〈〉の名を冠する特徴的なレイザーブレイドを振るい、ネリル島を襲撃した狂三の分身体たちを一蹴した。 さらに13巻では反転した二亜の前に現れ、彼女から反霊結晶を取り出した。 かつての事件当時よりも冷酷なまでに人格が一変していて、折紙と真那からはDEMに加わっていることを疑念視された。 15巻で折紙と交戦した際、折紙と面識があるはずがSSSのことを問われると、折紙のことを忘れているかのような言動をしていた。 16巻で、エレンの独白によって記憶処理が施されている事が判明した後で、エレンと共に士道抹殺を命じられる。 しかし、17巻での決戦の最中に折紙たちの策にはめられ、六喰の〈封開主〉の【開】によって記憶を取り戻し、その情報量の多さに気を失った。 そして、意識を失った状態で燎子たちの手で〈フラクシナス〉に運ばれて、更に意識不明者と非戦闘員を乗せた区画に載せられて〈ウルムス〉へ送られた。 しかし、士道が【六の弾】を自身に撃ち込んで2月18日に時間遡行した事で、アルテミシアの記憶回復を含めた2月20日に起こった全ての事象は無かったことになった。 そして、二度目の2月19日に〈フラクシナスEX〉の上空で士道たちと交戦するが、ウェストコットが霊結晶を奪われて重傷を負ったことで撤退した。 そして、精霊術式を発動する核である〈ゲーティア〉をエレンと共に防衛する為に折紙たちと交戦し、新たな〈始原の精霊〉に変化し始めたウェストコットからエレンと共に霊力を注ぎ込まれて折紙たちを圧倒するが、同じく澪に霊力を注ぎ込まれた折紙たちに抑え込まれ、互角の戦いに持ち込まれた。 その後、DEMに所属していた間の記憶がなくなり、DEMを退職後は心理学を学ぶ為に大学に通っている。 十香の消滅から一年後には、久しぶりに折紙や燎子たちと再会して世間話をしている。 或守 鞠奈(あるす まりな) 声 - 三森すずこ PS3版ゲーム第二弾『或守インストール』のオリジナルキャラクター。 鞠亜とは異なるもう一人の或守。 自らを或守であり、或守でないものと語る。 鞠亜とは対照的に、黒鉄の髪に金の瞳、逆十字が象られ黒を基調としたバグを起こしているような修道服を纏っている。 戦闘時には瞳孔が黒に染まり、黒髪の一部が金色に染まり、全身にコードが絡まりコードで編まれた翼を広げバグが肉体にまで進行したような霊装をまとう。 鞠亜と異なり、士道と会った時から感情が豊かではあるが何の気もなしにデータ上の仮想存在とはいえ人をあっさりと消すような危険な一面を持つ。 実は〈フラクシナス〉のメインコンピューターに侵入した人工精霊は鞠亜ではなく、彼女の方である。 令音の所見では、霊力を持ったデータと言える存在。 鞠亜が愛を知ったことでできた隙に彼女の権限のほとんどを奪い、〈フラクシナス〉の主砲の発射や、〈フラクシナス〉の落下などをしようとするが、最後は士道の手によって消滅する。 その出自にはDEM社のウェストコットとエレンが絡んでいるようだが、詳細は捕獲していた二亜を研究し、DEMの技術で生み出された人工精霊。 ウェストコットの目的が、世界を滅ぼしてでも成したいことなのだと知らされている。 消滅したはずだったが、再び開かれた〈凶禍楽園〉で実体を伴って凜緒と共に現れる。 厳密にいえば、この鞠奈は消滅した鞠奈が復活したわけではなく、彼女が残した鞠亜のデータにわずかに存在した鞠奈のデータが実体化した存在。 ただし、単独では実体化できず、鞠亜の身体を借りる形で実体化している。 凜緒のガーディアンでもあり、凜緒の元にいつでも移動することができる。 SSS アシュリー・シンクレア 『ストライク』に登場。 小柄な少女で、自衛隊ASTのものとは違うワイヤリングスーツを装備する。 15歳。 イギリスの対精霊部隊、SSS(Special Sorcery Service)の元隊員で、後に来禅高校の美紀恵のクラスに転入してきた。 新型顕現装置〈アシュクロフト〉を奪うため、AST隊員を襲撃。 自衛隊AST基地襲撃の際に〈アシュクロフトIV〉「ユニコーン」を強奪。 レオノーラ・シアーズ 『ストライク』に登場。 19歳。 アシュリーの仲間で、同じくSSSの元隊員。 愛称はレオ。 長身で目つきが悪い見た目に反して、泣き虫。 主に遠距離狙撃を得意としている。 自衛隊AST基地襲撃の際に〈アシュクロフトIII〉「レオン」を強奪。 セシル・オブライエン 『ストライク』に登場。 17歳。 アシュリーの仲間で同じくSSSの元隊員。 三人の中ではリーダー格。 過去に空間震で視力と足の感覚を喪失しているため、普段は車椅子に乗っている。 しかし、随意領域展開時には高い動体視力と足技主体の格闘で折紙を圧倒するほどの実力を有している。 新人だった頃の燎子と日英合同演習で戦ったことがあり、勝利した。 自衛隊AST基地襲撃の際に〈アシュクロフトII〉「ジャバウォック」を強奪。

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緑 谷 出久 霊力 小説

こちらのサイトより転用しております。 otakihogakki. 私どもの年代だと恐いものの代表は「地震雷火事親父」と云われ、 親父は怖い存在であった。 特に、親父の「お説教」は地獄で、長々と正座にて御叱りを被り、 姿勢を崩すや間髪を入れず長い竹の物差しで叩かれる苦行であった。 嫌なら止めれば良いと解っていながらも、 悪さを仕出かし又お説教にあったが、 今では懐かしい思い出になっている。 このお説教と云う言葉は仏教から来たものだが、 以外にもお説教自体を源とする伝統芸能が数多くある。 今回から「説教(説経)」を取り上げ、 その枝葉とも言える芸能がどのようにして 出来上がっていったのかを見て行こうと思う。 以前取り上げた「声明」と共に、 日本の 「歌う芸」 「話す芸」 「語る芸」 の源流と云われ、 ・謡曲 ・平家琵琶(琵琶唄) ・浄瑠璃 ・講談 ・浪曲 ・様々な門付芸 などが発生しており、 現在の歌謡曲もその影響下にある芸能と言える。 このように説経は日本の芸能史に 欠かすことの出来ない存在であるが、 又、説経に流れる仏教思想は あらゆる文学作品に多大な影響を与え、 日本の文学史上でも無視出来ない存在になっている。 本来、説経(説教)と云う言葉は、仏教の経典経義を購読することで、 経典を購読する僧侶を「説経師」と呼んでおり、 音曲を伴う語りを意味するものではなかった。 最初に流行した平安時代の説経は、経典の講釈を中心とする「購説」と、 比喩因縁を盛り込んで経典経義を説く「説経」「談義」とに別れていた。 この時代には、まだ仏教は一般民衆のものではなく、 一握りの貴紳階級を対象としたものであったが、 中期頃から庶民層まで広げることを考える僧侶が生じ始めた。 末期になると活発化し、教えを説く説経師達は仏教の大衆化を図る為に、 無知蒙昧な庶民層に焦点を当て、彼らが仏教を迎え易くする手段として、 教儀を判り易く説く為に機知に富んだ通俗的な法談を行うようになった。 しかし、教義を噛み砕いて説いても限界があり、比喩因縁と結び付ける様になった。 この「法華八講」と云うのは、法華経八巻を一日に朝座・夕座と二回講じ、 四日間にて全巻を購読する法会のことである。 このように頻繁に行われるようになると、 名を成す僧侶の中から説教を専門職とする者たちが出るようになり、 彼らはスター的な存在になっていった。 説教の行う説教師については、皆様ご存知の源氏物語を始め様々な平安時代の物語や随筆には説経僧・説経と云う言葉で 多く出てくるなど、この当時名説経師としてスター的な存在であったのが、 奈良興福寺の清範、延暦寺の院源、浄土教の源信(恵心)等であった。 個々の説教師に対する聞き手の反応も様々であり、 特に宮廷に仕える女房達に持て囃され、 好まれる説経師がどのようなものか、 女性の目から清少納言は「枕草子」30段「説経師は顔よき」の項にて次の様に記されている。 『説経の講師は顔よき。 講師の顔をつとまもらへたるこそ、 その説く事の尊さも覚ゆれ。 外目しつれば、ふと忘るるに、 にくげなるは罪や得らむと覚ゆ。 この詞はとどむべし。 少し年などのよろしき程こそ、 かやうの罪は得がたの詞書き出でけめ。 今は罪いとおそろし。 』 〔説経をする講師は容貌の整った方が良い。 何故ならその美貌な顔をじっと見つめているので、 精神が集中出来、その説く事が心に染み入り尊いと思う。 容貌の醜悪な講師は、 聴く方がついよそ目をしてしまうので集中出来ず、 その結果つい有難い話も忘れてしまう。 故に醜悪な顔の講師は、聴聞者に仏の有難さを理解させられないので仏罰を被るだろう。 この様な事を書くと仏罰が当たるので止めます。 いま少し年が若い頃には、この様な罰当たりな事を平気で書きもしただろうに、 あの世に行くのが近くなった今では仏罰が恐ろしい〕 また、この項の中で清少納言は、 説教僧が説教を行う説経道場や貴族の館が、 貴紳淑女達が華やかな装いにて集う社交の場としての一面も兼ね備えており、 其処には説教が主ではなく、 その場所に赴き社交に励む者も居た様を次の様に記している。 「一、二回聴聞した故に何時も行かなくてはならないと思い、 夏の暑い日盛りに、きらびやかな帷子を見せびらかして着て、 烏帽子には物忌みの札を付けて、敢えて善根を積むために物忌みで 篭っておる日なのに来ていると人に思わせる魂胆なのか来ている。 聴聞を聞かず世話役の僧侶と立ち話をしたり、 聴聞客の交通整理を買って出たり、 久振りに会った人には側に行って座り、 数珠を手慰みしながら世間話にうち興じ、 彼方此方に視線を動かして説教を聴かず、 何時も聴いているので別段耳新しくないとの素振りをしている」 清少納言が書いているように彼女が華々しく女房生活をしていた時代は、 仏教流布を積極的に行うために説経が盛んに用いられ、 人々も宮中や有力公家の館の「講」に招かれ、 説経を聴く事が1つの社会的ステータスともなっていた。 また、説経師の側としても、 有力者の催す「講」の説経を任されることは、 説経師としての力量を認められることとして喜ばしいことであった。 説経の主体も「法華八講」で解るように天台宗の根本経典である法華経を主体にしたものが多かった。 しかし、天台宗を学んだ僧侶達の中から仏教は一握りの者の為のものではなく、 あらゆる階層の者に必要なものとの考えに立ち、 仏教の大衆化を図るために様々な試みを行うものが現れるようになった。 当初は経典を判り易く噛み砕いて説教しても、 一般庶民の聴聞者を引きつけるのには限界があることを知った事になった。 そこで当時刊行されていた「日本霊異記」に記載されている説話を題材にして、 比喩因縁をもって経典解釈と結び付けて語るようになった。 「日本霊異記」は薬師寺の僧景戒によって弘仁14年(823)に完成された仏教説話集で、 中国の仏教説話集を基に地名・人名等を日本に替え、 また、多くの民間説話も収録されたもので、因果応報説話が多く、 仏教的因果応報の理念に立って衆生教化を目的として編纂された説話集で、 特に前世の報いの為に地獄に落とされた話しが多く収められている。 また、同じ頃に「浄土信仰」も徐々に広まり始めていた。 この浄土信仰は既に奈良ア朝期に伝来していたが広まらず、 後に天台座主となった円仁(後に慈覚大師)が五台山にて授けられた 「念仏の法」を唐より帰朝し、 仁寿元年(851)に延暦寺常行三昧堂にて「引声念仏」として行ってから、 三昧堂が法華経主体の天台宗の内にて阿弥陀仏による西方浄土を説く 「浄土教」の念仏道場として存在するようになった。 この教義は浄土三部経即ち 「無量寿経」 「観無量寿経」 「阿弥陀経」 を指し、 その説くところは 「一に深く信ず、自身はこれ罪悪の凡夫にして解脱の縁もなし。 二に深く信ず、阿弥陀仏の本願は衆生を摂取す、 疑なくかの本願に乗じて必ず救はる」 即ち 「罪悪に死し仏願力に生きる他力浄土」 とする 「他力本願」の教義である。 そこに流れる思想は、 阿弥陀仏による極楽浄土に往生する 「極楽往生思想」で、 往生の意味することは 「この世での生命が終った後、西方の極楽に生まれること」 と説いていることである。 この浄土信仰をより早く民間の中で実践したのが 『空也上人』である。 若くして優婆塞 (五戒を受け在家のままで戒律を守り仏教に従事する男性を言う)として諸国を回遊し、 道路の改修・開発、灌漑の利用を薦め、 野晒の死体を回収して火葬にし阿弥陀仏を唱え供養したと云う。 まだ念仏行が世間に知られていない 天慶年間(938〜47)には、 京都にて民衆の中に身を置いて阿弥陀仏を唱えること即ち 「称名念仏」にて庶民を教化し、 人々から市聖・阿弥陀聖と呼ばれる存在であった。 「ひとたび南無阿弥陀仏といふ人の 蓮の上にのぼらぬはなし」の 和歌が拾遺和歌集に収められている。 この「往生要集」はインドに生まれた仏教が、 日本に到達するまでに様々な形に育成発展して来た過程において出来上がった 「往生浄土」の思想と信仰を様を、 様々な経論の中より選び出し、 問答形式にて編纂したもので、 「往生の業は念仏を本となす」を主旨として、 念仏往生の要を懇切に説き、 且つ地獄極楽を説いた仏教書であり、 この書が世に出るや浄土教信仰において 最重要な仏書として位置付けられる様になった。 また様々な知識人にも読まれ、 平安時代中期以降の日本文学作品や絵画などの 芸術などに及ぼした影響は計り知れず、 浄土思想史上における金字塔を成すものであった。 この書に盛られた浄土思想を源として後に 「浄土宗」 「浄土真宗」 「時宗」 「天台宗眞盛派」 などが創設され、また後世になると 「往生要集」 より六道・地獄・極楽に関する個所を抜き出して絵本が作られ、 広く民間に流布され、近世になるとこの絵本を基に 「覗きからくり」 などの民間芸能が生まれ、 また、掛け絵図を基に信者に絵の説明をする 「絵解き」 が寺院や小屋掛けにて行われるようになった。 現在でもお寺にて地獄極楽絵図を掲げ住職が絵解きを 行っておられる所もある様ですし、 読者の中には縁日やお祭りの時に小屋掛けにて 地獄図の説明を聞いた方も居られると思います。 この「往生要集」は当時の説経師達にとっては、 説経の題材を得るには都合のよい事例が多く載せられており、 格好な教本となったし、以後の説経隆盛において 欠かすことの出来ない重要な台本でもあった。 この書に盛られた「地獄観」は、 苦界とも云える現世に生きる者達に取っては身近な存在であり、 素直に受け入れ易いものであった。 この地獄に相対する 「極楽浄土」 は阿弥陀如来の居られる西方浄土にて、 苦しみや煩悩がない安楽境であるとされ、 現世にては求める事の出来なかった 「極楽」 に行く手段としては、生前ひたすら 「南無阿弥陀仏」 の称名を唱える事で、死後如何なる人でも この極楽浄土に生まれ変わる事が出来るとするのが浄土教の教えであった。 阿弥陀仏の浄土と来迎 (人の臨終の時に仏・菩薩が浄土へと導くために迎えに来る事)が 恵心僧都によって特に鼓吹され、且つ誰にも解る様に 平易に「極楽往生の道」が説かれたことにて、 浄土信仰は急速に普及し、当時社会に広まっていた 末法思想と相俟って貴族社会に浸透していった。 この末法思想と云いますのは、六世紀に中国にて考え出された史観で、 釈迦入滅500年間は仏教が正統に実践される「正法」の時代であり、 以後の千年間は仏果(修業を積んだ結果得られる成仏)や仏証を体得した者が皆無となるが、 釈迦の教えと行法は存続する「像法」の時代である。 それ以後の一万年は仏法が衰え廃る「末法」の時代としている。 この思想は当時の我が国の仏教界に根強く定着しており、 往生要集が出された平安中期は「像法の時代」の終末期であった。 あたかもそれに併せる如く摂関政治にて権勢を振るった 藤原道長が萬寿4年(1027)に逝去するや、 摂関政治も翳りを見え始め、 約140年後の仁安2年(1167)に平清盛が太政大臣となり、 天皇の外戚となるや藤原氏支配の摂関政治も終末を迎えた。 また治承元年(1185)に平家の滅亡にて武家政権が確立されるや平安時代も終った。 それは源信に遅れること約200年であった。 それまでの仏教は教義・経典を理解できる貴紳階層を対象にしたものであり、 愚痴・無知・蒙昧・罪悪深重の一般庶民を対象にしたものではなかった。 この法然の説く専修念仏は難解な教義経典を知らなくても、 ひたすら念仏称名すれば極楽往生が出来るとの事にて、 今まで仏教に無縁であった一般庶民に受け入れられていった。 また法然の教えは貴紳・老若・男女を問わない万民のための念仏であったので、 後白河法王・関白九条兼実の帰依を得るようになり、 貴紳・宮中の女官・武士・庶民が争って庵に参集した。 現在の仏教に疑義を抱く、既存宗派の僧侶達が多数その門を叩き弟子となった。 中でも目立つのが保元・平治・平家滅亡と打続く源平の闘争に 従軍した有力鎌倉方武士の無常感による念仏門への帰依であった。 法然の黒谷の庵にての浄土教の説教は、 仏教自体を無縁なものと思っていた庶民層に土に浸み込む水の如く、 民衆の絶大なる支持を得て受け入れられていった。 その理由として上げられるのが、 文盲無知な庶民に浄土教の教義を理解させ宗門を拡大する 手段とし取られた口演(説経)による布教に外ならなかった。 しかし、他宗派との差別化をするには、 興味を抱かせるための庶民性豊かな説経(話芸)であった。 そこで考えられたのが、民衆が好む娯楽的要求を受け入れるために、 比喩因縁談に重点を置いた説教を用い、 語り掛け、身振り手振りを使い、 内容に沿った表情や音色に感情表現を加えた話法が作られた。 この話法を浄土教の説教に取り入れたのが、 天台門より浄土門に転じた 当時説経師として著名であった安居院聖覚であった。 この聖覚は説教の達人として名高く天台宗の高僧ながら、 叡山を離れ安居院に住まいし妻帯し 10名の子供を設け、破戒僧として世間から指弾されながらも、 説教にて道俗を教化していた澄憲法印(藤原信憲の子息)の子息である。 父と同じく比叡山にて天台門を学び、父に劣らない説教者として名を成していた。 しかし、法然の説く浄土教に接するや、 天台宗を離れ、法然に傾倒し浄土宗に転向し、 その高弟となった。 この説教の名人の入門は法然にとって念仏門布教には欠かすことの出来ない存在となり、 様々な説教手法を創設したので、 「説教念仏義の祖」として尊敬された。 法然と同時代に天台の高僧にて澄憲法印と呼ばれる説教達人がおり、 比叡山を降り安居院を住まいにし、 僧の身ながら妻帯し十名の子供を儲け、 世人から破戒僧として厳しい指弾を受けたが、 説教を持って道俗の教化に努め、 安居院流唱導の祖と称されている。 因みに澄憲は保元の乱の中心人物であった 小納言藤原通憲(信西)の子供で僧籍に入った者である。 子の聖覚も比叡山にて勉学し父の劣らない説教者として名を成したが、 山を降り父と同じく安居院に住した。 やがて法然に傾倒し天台宗を離れ浄土宗に帰依し高弟となった。 この聖覚の入門は法然にとり念仏門布教に欠く事の出来ない存在となり、 様々な説教手法を創設したので、 後に「説教念仏義の祖」と尊敬されるようになった。 彼の説教手法は従来の表白体の説教を止め、 比喩因縁談を中心とした口演体説教に変えたことである。 彼の説教手法は法然門下の僧侶に広まり、 庶民を対象にして各所にて説教道場が開かれたので、 浄土宗は一挙に信者を増やしていった。 この浄土宗の盛行に対し天台宗はじめ旧仏教側は脅威を抱き、 様々な圧迫を加えて来たが、浄土門では摩擦を避け釈明にこれ努めて来た。 しかし、後鳥羽上皇熊野行幸中に御側の女官が無断にて 法然の弟子により浄土宗に出家する事件が起り、 これを契機として、承元元年(1207)に「念仏停止」の断が下され、 法然以下主だった弟子が流罪になった。 この事件は浄土教にとっては京都での活動の停止であったが、 反面流罪になった者達がその地にて浄土宗を普及させると云う、 浄土宗の地方伝播と云う側面を齎した。 聖覚は安居院に拠り浄土宗説教手法はを守って来たが、 以後安居院流の説教手法は説教道の大きな流派として厳しい修練と口伝より、 浄土宗に数多くの説教者を輩出し連綿と継承されるようになった。 後に安居院流説教道は節付説教(説談説教)の名にて呼ばれ、 本の話芸に多大な影響を与えている。 この節談説教の方法は、俗受けのため有効で、 声明・和讃・講式などが発展するにつれ、 これらを取り入れて改良され、次第に芸能的要素が加わっていった。 それは奈良県当麻にある浄土宗寺院当麻寺に伝わる 『浄土変観経曼荼羅(通称当麻曼荼羅)』と云う、 「観無量寿経」によって阿弥陀如来主宰の極楽浄土の図相を現した綴れ織の掛け物であるが、 それに纏わる由来を表わした「当麻曼荼羅縁起絵巻」によると、 『 天平宝字7年(763)横佩大臣の姫が当麻寺に入り、 生身の阿弥陀如来に会い、観音が蓮糸で構成したこの浄土図を仰いで往生の素懐を遂げた』とあり、 阿弥陀経を宗派の経典とする浄土宗においては、 この「当麻曼荼羅」が尊信され、 浄土教の普及と共に浄土宗の僧達により多くの注釈書が出版され広く流布された。 この注釈書を基に作られたのが 「絵解き」で、 「当麻曼荼羅図」 を掲げて 「観無量寿経」 の主旨を講説する絵解きは、 浄土信仰を普及させる手段としての 視聴覚による高度な説教であり、 中世末期から近世初頭に掛けて 浄土宗では盛んに行われていた。 また、この縁起絵巻が発展して作られたのが 「中将姫」伝説であり、 姫の名を「中将姫」として室町時代になると 能「雲雀山」「当麻」、 古浄瑠璃「中将姫之御本地」が作られた。 近世になり、これらを集大成した 五段物人形浄瑠璃「鷓山姫捨松」が並木宗輔により作られ、 元文五年(1740)二月に豊竹座にて上演され、 特に三段目「雪責めの段」が有名であった。 やがてこの「中将姫雪責め段」のみを 「中将姫古跡の松」として、 寛政九年(1797)二月に大阪東の芝居にて義太夫歌舞伎狂言として上演され、 現在も浄瑠璃・歌舞伎にて上演されています。 このように 「当麻曼荼羅図絵解」 は本来の説教以外に 猿楽・浄瑠璃などの後世の芸能に大きな影響を与へています。 又、浄土宗の説教者の中からは 落語の祖と言われる安楽庵策伝が、 江戸時代初頭に現れ、 長年に亙る説教の話材を集大成した 笑話集「醒睡笑」を元和九年(1623)に完成させている。 この本の内容は著者の見聞や古今著聞集などの話を 滑稽説教にした小噺集であるが、 その特徴は話の最後を落ち(サゲ)にて締め括っていることであり、 この手法は現在でも落語に踏襲されている。 落語の原点が仏教の説教である話芸である事は、 現在演じられている落語には浄土宗以外に 日蓮宗・浄土真宗などの説教話に題材を得たものが 数多くある事からも明白である。 その説経の形態は安居院流と同じく、 比喩因縁談を中心とする民間説話に重点が置かれていた。 浄土宗の安居院派と共に二大説経道の流を誇って来たが、 この三井寺派の説経道は何時しか三井寺を離れ、 同寺の別所である近松寺に移ったが、 近世になると仏教布教の手段としての三井寺系説経道は廃絶した。 その理由として室木弥太郎著「語り物の研究」に拠れば、 室町期に逢坂山山麓の関寺の支配下にあった 近江の関清水蝉丸宮が放浪芸となった琵琶・説経・祭文・傀儡遊女・放下・辻能などを支配していた。 しかし、関寺が廃寺となると蝉丸宮の支配する諸芸は 近松寺に移管されるようになった。 近世に入ると近松寺の説経道は廃れ、 民間芸能である「説教浄瑠璃(説教節)」を 含む放浪芸を支配する寺として幕末までその権利を維持してきたと、述べられております。 浄土真宗の開祖親鸞は、叡山に学んでいたがその宗義に疑義を抱き、 吉水に道場を開いた法然を訪れ、その教えに傾倒して弟子となり、やがて高弟となった。 法然の門には当事有数の説教者であった安居院聖覚も居り、 親鸞は彼の卓越した説教手法を認め敬慕していた。 法然と共に「念仏停止の断行」により僧籍を剥奪され越後に流された親鸞は、 この地にて念仏門の布教を行い信者を増やしていった。 親鸞は聖覚の称えた「阿弥陀如来の音声を正確に聞き取ろう」を説教の本質と捉え 「聞法」「聞即信」の精神をモットーとし、 布教の手法としては聖覚より取得した説法手法を取り入れ、 通俗説教に最も力を入れて実施し、特に重視したのは「和讃」であった。 和讃は以前に【声明】の項にて説明しましたが、 字の如く和製の「声明」であり、 [教化]とも云われ、説法教導して衆生を聖に化せしめる目的で作られた声明であった。 親鸞はこの和讃を数多く作り布教の際に唱導した。 それは「聞法」即ち説教(教化)の徹底であり、 和讃をして聴衆者の心に教えを深く定着させる事と考え、 浄土宗の教義を庶民に解り易く解説したものに、 声明の持つ節を付け、それを度重ねて唱えさせることにて庶民の心に定着させた。 親鸞の作った多くの和讃は浄土真宗の勤行の中枢とされたばかりでなく、 後に真宗にての説教の中心とされ説教僧の巧みな節付けにより、 演出効果を増し、節談説教または節付説教と呼ばれるようになった。 安居院聖覚の説法手法は真宗の中にて開花し、真宗にての説教五段法が作られた。 それは・ 讃題・法説・比喩・因縁・結勧 と云う五段階の構成にて行う説法で、 特に比喩と因縁の個所は聴衆を惹き付ける最重要な部分であり、 説教者はこの部分に様々な演出を施して講演をした。 この手法は後に説教から「民間の語り芸」が発生する上で 多大な影響を及ぼしている。 三世覚如は宗祖親鸞の事跡を選述して 「本願寺親鸞伝絵」二巻を 興国4年(1343)に作り、視覚による 説教即ち「絵解き」による説教の基本テキストとした。 後に絵巻に添えられた詞書を抜き出して 「御伝鈔」、 絵画のみを抜き出して 「御絵伝」 が作られ、 真宗布教の為の説教に用いられるようになった。 このようにして浄土真宗では宗門拡大の対象を庶民階層に置き、 通俗説教を布教の最重要手段として連綿と行っている。 両道場にて修業を成した唱導師(説教師)達が世俗受けを狙う余り、 僧侶より脱して芸人化して行く経緯を、 僧師錬(虎関禅師)が元亨二年(1322)に著した 「元亨釈書」巻二十九「音芸志」[国史大系所収]では、 『諂誦交生、変態百出、揺身首腕音韻。 言貴偶儷理主哀賛、毎言檀主。 常加仏徳。 欲感人心先感自泣。 痛哉無上正真之道。 流為詐偽俳優之伎。 願従-事于此者、三復予言焉』 と記している。 その意味する事は、 「説教者達が演台から体や首や腕を揺り動かしては様々な型を見せて、 美声で歌い上げ、人に感動を与える為にか、 自らも泣くなど、説教の流れは偽者の役者の技を成していると」 述べ嘆いていることである。 鎌倉時代末期の後醍醐天皇の頃 1321〜38 なると、 上記の様に変質を遂げた説教に和讃の曲節や 平家琵琶(平曲)の語り口が取り入れられ、 より庶民的な説経が形作られるようになった。 また、鎌倉時代も末期になると有力寺院や 神社においてはその経済的基盤が不安定になって来た。 その理由としては幕府が各地の私有荘園に設置した地頭により荘園が侵食され、 全国各地に広大な荘園を有して経済基盤として 成り立っていた有力貴族及び寺院は衰退の道を辿り始めていた。 また、有力貴族の寄進などにより成り立っていた 寺社等は自らの経済基盤を確立する為に、 庶民層に経済的基盤を依存する道を探り、 自己の信仰を広める必要性に迫られた。 その為に寺社に建立に纏わる縁起や 自己の本尊・祭神等に纏わる霊験譚を作り、 布教の手段とし信者獲得を図り信者よりの寄進に拠る経済の安定を考え出した。 この為に作られた 本地物語 (神や仏がかっては人間として生を受け、 様々な艱難辛苦を経た後に神や仏に転生した話)や 霊験譚は、 歩き巫女 (伊勢巫女・熊野比丘尼・出雲巫女など)、 山伏、 高野聖(高野山)、 盲僧、 御師(伊勢信仰)、 廻国聖、 絵解法師 などの下級宗教家により全国に伝播して行った。 彼等によって語られるこれらの神仏の本地談や縁起や霊験譚は、 物語性を持つ説経の一つの形態であり、唱導文学であった。 しかし、これらの本地物語や霊験譚も各地に伝播するに従い、 その信仰がより根強く土地の民衆に受け容れ易くなるよう、 その土地固有の信仰や習俗が摂り入れられる様になって行った。 また下級宗教者と散所の結び付きにより 次第に宗教から逸脱し芸能化して行く時期でもあった。 では散所とは如何なる処であったかと云いますと、 律令制度崩壊に伴ない1000年頃になると、 律令制度下において各司(政府機関)に隷属し、 賎民扱いを受け奈良や京都に居た専門職種の奴婢達が、 受け皿もなく大量に解放された。 これら解放された人々は、 手に有する職も限られ、 居住する場所も失ったので、 新しく貴族や社寺の保有する荒蕪地(耕作不可能な地)に流入して、 定着して「散所」と呼ばれる集落を形成するようになった。 この中には遊芸を専門職種とした散楽所などに属した者達も居た。 この散所の多くは京都周辺の不毛の荒地の為、 年貢(租税)を出さなくてよかったが、 その代替として所有者に全面的に隷属して 様々な労役に服さなければならなかった。 これは取りも直さず官営の奴婢からの解放は、 貴族や社寺に隷属する職業と居住地を制限された 私有賎民階層への切替に外ならなかった。 南北朝から室町時代になり商工業が活発化すると、 散所の人々は労役の暇を見つけて 専門職種を生かした手工業や商業を行うようになり、 散所地の所有者を「本所」として公事銭(上納金)を収め、 職業毎に「座」と云う組織を作って生産・販売の独占を図るようになり、 次第に商工業者として自立していった。 同じ散所でも貴族や社寺の所有地に居住せず、 鴨川や桂川の河原や巷所(道路など非課税の公地の空き地)に 散所を設けて「河原者」と呼ばれた者達も解放された奴婢であったが、 世間からは賎民として扱われていた。 彼らの職業の多くは人々から蔑視される 殺生物・染織・造園・雑芸 など様々な賎業なすものが多かった。 彼らも地域別にz「座」を作り、 有力貴族や寺社を「本所」としていた。 この散所は当初は賎民階層の集落地であったが、 次第に様々な階層社会を逸脱した 「遁世者」 達も居住するようになり、 彼らも何時しか賎民扱いを受ける様になった。 これは取りも直さず世間から散所居住者は 即く賎民と見なされることを意味していた。 当時京都市中に存在した散所は、 ・誓願寺 ・六角堂 ・空也堂 ・霊山寺 ・融通堂 ・北野天満宮権現堂 ・七条朱雀権現堂 ・東山雲居寺 などの社寺周辺や ・北畠 ・柳原 ・御霊神社 附近などにあった。 また、室町期になると素人による様々な芸能への参加が活発化し、 専門芸と区別する意味合いから、 手(素人の意味)を付けてて ・猿楽 ・手曲舞 ・手田楽 などと呼び盛んに行われるようになった。 中には専門芸(道の芸)が途絶え素人芸のみが残るものも出て来た。 手曲舞が散所の雑芸者に伝わり、 道の芸が廃れ、 何時しか散所の芸となったのが「曲舞」である。 この散所と念仏聖との結び付きも深く様々な名前で呼ばれる 下級宗教者が存在し念仏布教に取り組んでいたが、 何時しか宗教活動から離れ芸能活動へと転じる者も出るようになった。 [ 放下僧 ] 放下と云う言葉の意味することは、 禅宗において物事を放り捨てて 無我の境地に入る事を指していた。 後に禅宗系の僧侶達が 宗教的理由から宗派を離れ僧侶身分を放下して、 民衆への布教を一義として 念仏布教をしていた半俗半僧の勧進聖を 「放下僧」と呼んでいたが、 天台宗により次第に弾圧され、 散所に身を置き布教活動を行うようになった。 特に有名なのが南北朝期に 東山雲居寺門前にて説経をして、 説経の合間に余興として ササラを摺り、 鞨鼓を打って、 小歌を歌い、 舞(曲舞)を舞っていた 「自然居士」で、 観阿弥により 能「自然居士」「花月」も 放下僧を扱ったものである。 しかし、この頃の放下僧は飽くまでも宗教者であり、 彼らの行った様々な遊芸は庶民へ説経するための人寄せの手段であった。 それに代わって散所芸能者としての 「放下(ほうか)の徒」 に転化するようになって行った。 その芸としては、 『看聞御記』 応永三十二年(1425) 二月四日条に、 『抑放哥一人参、手鞠・リウコ・舞、又品玉、ヒイナヲ舞ス、其有興賜酒』 とあり、又、同書嘉吉元年(1441)四月八日条に、 『放歌参、手鞠・龍子・品玉等芸其興、細美布一給、りうこ甚上手手也』 とあるように、 放下僧の説経道具であり、 彼等の特徴でもあった 「ササラ摺り」の芸は消滅し、 輪鼓・手鞠・品玉などの曲芸のほかに 放下歌・鞨鼓打ち・曲舞・物語などを主な芸としていた。 [高野聖] 高野聖も放下僧と同じく念仏布教の宗教者であった。 彼等の始まりは僧侶身分や自己の階層身分を脱し、 真言宗の本拠地である高野山の萱堂の地に 厭世隠遁して念仏修業を成していた念仏聖であったが、 次第に数を増し、萱堂以外に西谷・千手平を修業の場として集まっていた。 彼らは修業の後に高野聖として、 回国遊行して弘法大師信仰と 高野山納骨勧誘を主眼に伝導活動を行う事であり、 当然念仏僧として弘法大師や高野山に纏わる信仰譚や 霊験譚・縁起を唱導説経の形にて語り、 一般大衆相手に高野信仰を広めていった。 室町時代以降になると笈に布帛や呉服などを入れて布教の傍ら行商を成して、 生活費を稼ぎ出す様になり、 「売子(まいす)」 と呼ばれる 「商僧」 となっていた。 後に仏や仏法を売る僧侶を罵る言葉となった 「売僧(まいす)」はここから出ています。 [空也聖] 平安時代中期に優婆塞として阿弥陀経を信仰し、 南無阿弥陀仏を唱える事にて庶民を教化し、 また積極的に社会活動に従事したので人々から 「阿弥陀聖」 と呼ばれた空也が、 改めて延暦寺にて天台宗系念仏を学んだが、 観念観想を主体とする天台念仏に疑義を抱き、 天台宗を去り称名念仏に切替て京市中を庶民層主体に念仏布教を行い、 布教の手段として念仏を唱えながら踊る 「踊念仏」 を考案した。 空也が起した称名念仏(空也念仏)は 連綿として受け継がれ、 やがて六波羅蜜寺や空也堂を中心に盛んになっていった。 後に空也堂などの附近にあった散所と密接になり、 空也念仏の聖達による散所が形成されるようになった。 空也聖の特色は 日常「茶筅」や 台所用品である 「ササラ竹」を 念仏布教をしながら京の市中を売り歩いており、 寒中や春秋の彼岸には修業の一環として、 瓢や鉢を叩いて念仏や 和讃を唱えて市中の墓所や斎場を供養に廻り、 また市中の家々を廻り念仏を 唱え布施を受けて居たので 「鉢叩き」 と呼ばれる賎民扱いをされる下級宗教者であった。 なぜ彼等が賎民扱いをされたかと云いますと、 二つの理由があります。 一つは散所に住いしたことである。 散所は即ち賎民の集落と見なされたこと。 二つ目は彼等が扱う竹細工が賎民の扱う業種であったこと。 律令時代には上番する隼人より 隼人舞と竹笠造作を 習得させるために、 隼人司に竹細工所が置かれ専従する隷属の雑戸が設けられていた。 雑戸解放後竹細工に従事していた奴婢(被差別民)が、 何れかの貴族・社寺を本所として隷属し、 散所を形成した処が空也堂の附近であり、 この散所と結び付いて空也聖の竹細工の製造販売が成立した。 江戸中期頃から空也堂の念仏聖の托鉢姿である 「鉢叩き」 の風俗を真似た大道芸をするものが現れ、 鉦を叩き歌うように念仏を唱え門付をしたので、 彼等を称して「歌念仏」と呼んでいたが、 彼等は下級宗教者ではなく物乞いの徒であった。 [唱聞師] 鎌倉後期になると 「声聞師(しょうもんじ)」 と呼ばれる下級宗教者が現れた。 彼等は古くは 陰陽寮(おんみょうりょう)の雑戸に隷属し 警戒や清掃の役も務める特殊職能(賎民)の下級宗教者であった者達で、 律令制度崩壊による雑戸解放に伴い庇護を離れ、 集団を組んで散所を作り家々の 「キヨメ」や陰陽師として生活する下級宗教者となった。 彼等は本来の宗教職能として 平安時代から「金口打ち」を生業として来た。 この金口打ち(金鼓打ち)と言うのは、 不吉の前兆を予感した時に、 不吉を避ける意味合いから当人が寺々を廻り、 金鼓を打ち鳴らす風習が行われていたが、 次第に当事者に代わり代参して 金鼓打ちをする事を業とするものが現れた。 それが陰陽寮雑戸の下級宗教者であった。 右大臣小野実頼の日記である 『小右記』 長和二年(1012)八月三十日条に、 『夢想紛紜、令打百寺金鼓 以下六僧日中内了』 と、不吉な夢を見たので六人の僧侶をして、 一日にて百軒の寺を廻らせ金鼓打ちをさせたとの記述がある。 しかし、鎌倉末期になると、 彼等は生活の手段として従来からの下級宗教活動以外に、 散所系統の雑芸を習得し法体にて芸能活動を行うようになり、 彼等も興福寺などの大寺を本所として 「声聞道」の「座」を形成するに至った。 声聞師の散所としては、 奈良には興福寺と大乗院門跡に属する五ヵ所・十座があり、 興福寺に対するに人夫役を勤めながら、 唱聞道を管掌すると共に七道物と呼ばれる 雑芸( ・鉢叩き ・猿楽 ・歩き白拍子 ・歩き巫女 ・金叩き ・歩き横行 ・猿飼 )の大和での支配権をも有していた。 また、唱聞師の散所として京都には ・桜町 ・柳原 ・北畠 などがあり、 全国各地にも散所が存在していました。 室町末期の公家山科言継の日記 「言継卿記」に拠れば 『桜町、北畠の唱門師が毎年正月に禁中の三毬打(左義長)に囃子役を勤め、 正月四・五日にも参内して千秋万歳と称して曲舞を奏した』 と記されている。 これら下級宗教者と雑芸を兼ね備える唱聞道の者以外に、 早くも南北朝時代に散所声聞師とは別に歌舞遊芸をもって渡世とし、 門付を業とする俗法師の 「唱門師」 と呼ばれる輩が出現した。 この者達は説経師(声聞師)であったが、 何時しか堕落して宗教活動を放棄し、 日常の生活の糧を得るための手段として、 世俗的な説教を家々の門先に立って唱える 門付けをして歩くようになった者で、 この者を指して人々は 『門説経』とか『歌説経』と呼ぶようになった。 しかし、「門説経」と呼ばれてはいるが、 其実態は宗門拡大を行う布教の為の説経ではなく、 放下師が説経の際に用いた「ササラ」を伴奏楽器として、 世俗的な事柄を説経風な節付けにて歌い語る、 日々の糧を得るための物乞いの芸に外ならず、 人々が蔑視して「ササラ乞食」 と呼ぶ仏教から逸脱した賎民芸であった。 彼らの社会的身分は最下層の放浪をなす賎民に外ならず、 彼らの芸を聞いてくれる聴衆の多くは下層の庶民層の者たちであった。 これは同じ頃に現れた 「浄瑠璃姫物語」 を語る者達が、貴賓の席に呼ばれ語っているのとは趣が異なっていた。 その理由は、この 「浄瑠璃姫物語」は 三河の国の名刹鳳来寺の本尊である薬師瑠璃光如来に纏わる仏教譚であり、 三河地方の遊女により語り継がれ、 また歩き巫女などにより各地に伝播し、 やがて琵琶法師により節付けされ、 琵琶を伴奏にして語られる 「浄瑠璃」 となったものですが、 伝播方法が門付芸をなす放浪唱導師の賎民芸でなかった故かと思われます。 やがて門付けの物乞い芸であった門説経の中から、 説経本来の基盤である ・比喩因縁 ・因果応報 ・結縁 の手法にて物語性を持つ語り物が発生し、 時を経るに従い 「物乞い芸」 を脱し、大道芸に転化させる者が現れた。 室町末期には大道芸の門説経として確立し、 伴奏としてササラ以外に ・鉦 ・鞨鼓 などを用いて語るようになっていた。 唯、浄瑠璃姫物語がその流布の過程に於いて早くから賎民芸より脱し、 琵琶法師の芸となって有識者の鑑賞する芸とされ、 十二段草子として文字化され広まったのとは異なり、 説経節は飽くまでも賎民芸として 口伝にて伝承されて来た大道芸であったことです。 説経節の構成は 室町時代に出来た 啓蒙的、 通俗的、 娯楽的な 御伽草子 と呼ばれる説話の手法と同じく、 説経世俗化の最たるものであり、 特に 寺社縁起談、 本地談、 霊験談 が多く、 これらに世俗的な ・恋愛談 ・嫉妬談 ・継子談 ・懴悔談 ・お家騒動談 などを付加して出来上がっています。 江戸時代初期になり 当時普及され始めた三味線を伴奏に用いるようになり、 また浄瑠璃と同じく西宮戎神社に属する傀儡(くぐつ)の芸である 「えびすかき」 「くぐつまわし」 と呼ばれる人形廻しの芸と結び付き、 説経系人形劇である「説経操り」が出来上がった。 この説経操りは大道芸を離れ、 大勢の観客を対象とする 「操り芝居」 として、寛永年間を対象とする 「操り芝居」 として、寛永年間頃に京都四条河原に 小屋掛して興行するよう頃に 京都四条河原に小屋掛して興行するようになり、 口伝にて語り継がれて来たものが正本化される様になった。 現在に伝わる説経浄瑠璃の台本とも言える正本は、 江戸時代に入りそれまで口伝にて語り継がれて来たものが 説経太夫により文字化したものです。 伝承されて来た説経節の代表的なものは、 「五説経」 と呼ばれる 「刈萱」 「山椒太夫」 「小栗」 「俊徳丸」 「愛護若」 です。 これら五説経に共通するものは、 主人公達が何れも有力な武将や裕福な長者の子供として生を受けているが、 何らかの境遇の変化にて不幸になり、 最下層の賎民同様な状態となって諸国を放浪するが、 何れもが最後には賎民の身を逃れ、 昔の身分階層に戻るという構成にて作られていることです。 これは賎民階層として説経節を語っていた者達が、 その根底に持っている感情の発露に外ならず、 彼らも好き好んで賎民となった訳ではなく、 機会があれば現状から脱皮し、 人に蔑まれない身分に身を置きたいとの願望を抱いており、 この願望を寺社に纏わる霊験談に絡ませて作ったものと考えられます。 この様に門説経と呼ばれた大道芸の中から脱皮して 「操り説経」 として自立する者達とは別に、 従来の門付説経を成して喜捨を受ける物乞芸である 「門説経」 に説経節は二分される様になった。 しかし、「操り説経」となっても「門説経」と共に、 放浪芸を支配する 関清水蝉丸宮(後に近松寺)の支配から脱することは出来ず、 幕末までその支配を受けていた。 「歌念仏」については項を改めて詳しく述べますが、 鎌倉初期に浄土宗の祖法然上人の弟子空阿弥陀仏が、 称名念仏の間に文段を入れた事にて始まり、 後にこの念仏の仕方が下級宗教者の業となり、 やがて宗教色を一掃して大道芸の者達が俗謡俚歌を この曲節に乗せて勝手気侭に唄うようになったものです。 元禄三年(1690)刊行の「人倫訓蒙図録」七の 「門せっきょう」と描かれている絵には、 三人連れにて ・一人はササラ ・一人は三味線 ・一人は胡弓を弾き、 編笠を被り、 腰には脇差を差し、 中の二人は羽織を着ています。 門説経の特徴は室町期に放下僧が行なった 「ササラ摺」 を伴奏楽器として連綿と継承しておることですが、 同画の説明に 『 小弓引、伊勢会山より出る。 此所のふし一風あり。 小弓はもとは琉球国よりわたすとかや。 小弓引編木摺はわきて下品の一属。 』とあり、 ・胡弓引 ・ササラ摺 は賎民のなす業で、 胡弓は伊勢会山より出ると記しています。 この会山と云うのは、 伊勢内宮と外宮との間にある 「間の山」 と呼ばれる山坂の事を指し、 この処には伊勢信仰の全国普及が進み、 伊勢参宮(お伊勢参り)が盛んに成ると、 両宮を参詣する人達を相手に伊勢勧進巫女 [伊勢本願慶光院(尼寺)の支配下にて伊勢信仰を奉じて全国を歩く勧進巫女] が歌った 「歌念仏」 を胡弓やササラを用いて唄い、 喜捨を得る賎民芸能者や物乞いをする乞食が多数屯していた。 彼らが歌う 「歌念仏」 をして何時しか 「間の山念仏」 と呼ぶようになった。 この間の念仏が 「間の山節」 となり、後に川崎音頭や伊勢音頭となったと云われています。 また、間の山以外にも参詣客を相手にする様々な物乞いが、 伊勢参宮街道に多数屯していたそうです。 門説経は ササラ摺り以外に 三味線の普及と共に 伴奏楽器として加え演奏するのが普通であったが、 伊勢地方の門説経語り達が更に 胡弓を加え、 元禄年間には 門説経・歌説経の 全国的演奏形態として定着していたと思われます。 【 操り説経の定住化 】 藤本箕山著「色道大鑑」 (延宝六年・1678)に拠れば、 『説経の操りは大阪与七郎といふ者より始まる』 とあり、現在残る説経浄瑠璃正本や 「音曲声纂」 の記述よりみると、 寛永年間(1624〜43)には他の様々な芸能に 伍して操り説経座が京都四條河原に 小屋掛けして興行をしていました。 このように芝居小屋にての上演となると、 ストーリーのあるものが必要となり 正本(台本)が作られるようになった。 それまで口伝えにて語られて来た 説経節も時代の要求故に正本化するようになった。 説経節の初期の正本としては、 寛永八年(1631)に「せっきょうかるかや」、 寛永末年(1643)には与七郎本「さんしょうたゆう」、 正保五年(1648)に佐渡七太夫本「せっきょうしゅんとく丸」 などが作られています。 数多くの正本の内、 ・愛護若 ・信田妻 ・梅若 ・山椒太夫 ・刈萱 が五説経(時代により曲目が異なります)と呼ばれていますが、 他にも ・小栗判官 ・志田三郎 ・熊谷 ・法蔵比丘 などがあります。 これらに共通するのは、 唱導説教から発生したものであるため、 一般庶民が篤く信仰する神仏を引き合いに出して、 その物語が真実であることを信頼させ、 聴衆の感動を誘う有効な手段んを取っていることです。 大阪には慶安〜明暦年間(1648〜57)に 佐渡七太夫が出て道頓堀に操り座を建てたが、 やがて大阪には名代を置き江戸に進出した。 寛文元年(1661)には先に江戸に進出した 天満八太夫(天満座)と競い、 大阪七太夫(佐渡座)と呼ばれ 延宝・天和年間(1673〜83)頃には両座とも確固たる地歩を固めていた。 初代佐渡七太夫の演じる演目は、 「しんとく丸」 「さんしょう太夫」 「おぐり」 などの従来からの五説経を中心にした演目であったが、 二代目の時代になると江戸にて様々な浄瑠璃が流行し始め、 画一的な演目の説経節は次第に飽きられ始め、 浄瑠璃系統の演目である 「法蔵比丘」 「熊谷先陣問答」 「ですいでん」 「伏見常磐」 などを取り入れ、 説経節に乗せて演じ、客は離れを回避する手段を成したが 享保年間(1716〜36)頃を境に世上から消えていった。 佐渡七太夫の進出前の江戸操り説経座は、 津村淙庵著「譚海」に 『 江戸浄瑠璃の始めは結城孫三郎と云う 説教節太夫葺屋町にて櫓を上げて興行せしが始め也 』 [日本庶民生活史料集成第八巻所載・三一書房1969刊行] とあるように、 江戸初期に江戸孫三郎が 当時の芝居小屋などが 建ち並ぶ葺屋町に結城座を開設したことにて始まるが、 万治年間(1658〜60)に 天満八太夫(石見掾)が現れ、 寛文二年(1662)には 禰宜町に操り小屋を建て興行するようになった。 彼の作った天満座は、 宝暦年間(1751〜63)頃まで 江戸説経座として人形浄瑠璃が流行する中で孤高を守っていた。 『青楼雑記』の[説教の事]の項に、 『 同じ頃、結城一角といへるものありけり、 かれは能説教を語りける、 殊に三味線を引くに他の人とかわり左三味線なり、 その調子妙にして、いかにしてひくやらん、 左り勝手にては成にくき事を奇妙にも 能く覚え親しまれ、 吉原遊廓の座敷にも呼ばれるくらたりけり。 結城一角は正徳年中也、 式部太夫権之丞も浄るり語り、 同時代なり。 その頃は説教師はやりけるゆへ、 女郎の座敷へも太夫行って、 せっきょうを語りける。 中にも 結城孫三郎、 佐渡七太夫、 武蔵権太夫、 古天満小太夫、 其の後の小太夫 近頃まで存世せり。 』 とあり、 正徳年間(1711〜15)には 多くの説経太夫が競演して居ることを記しています。 何故説経節が庶民に親しまれたのか、 当時の儒者太宰春台は其の著「独語」に 説経節の特徴を次のように記しています。 『 其の声も只悲しき声のみなれば、 婦女これを聞きては、 そぞろ涙を流して泣くばかりにて 浄瑠璃の如く淫声にあらず。 三線ありてよりこのかたは、 三線を合するゆえに鉦鼓を打つよりも、 少しうきたつようなれども、 甚しき淫声にあらず。 言はば哀みて傷ると言ふ声なり 』 [日本随筆大成1期 7所載] しかし、この様に庶民に親しまれた説経操り浄瑠璃も 享保年間(1716〜35)になると急速に衰退していった。 其の理由としては、 説経節の演目が少ない故に、 江戸浄瑠璃の演目を説経節曲節に替えて演じ、 又、寛文年間になると浄瑠璃の序詞と同様な文体で起こし、 祝言で結ぶ作品を多く作る事などを試みていたが、 次第に飽きられて行った事と、 上方にて様々な曲節にて演じられて居た浄瑠璃が、 竹本義太夫が語り出した新しい義太夫節と言われる曲節により排除されて、 浄瑠璃と言えば義太夫節人形浄瑠璃を指すようになり、 近松門左衛門との結合にて 元禄年間から多くの世話物人形浄瑠璃を 世に送り出し人気を博して居た。 享保初期になるとこの義太夫節人形浄瑠璃が江戸に進出し、 心中など庶民の身近なものを題材とした豊かな世話物が 江戸人に斬新な感じを抱かせた故に流行し始めた事であった。 説経節浄瑠璃の衰頽に見切りをつけた 武蔵権太夫や 江戸孫四郎は 歌舞伎に身を投じ、 結城孫三郎座は説経節から離れ、 義太夫節を用る糸操り人形座に転身していった。 「江戸節根元集」によると、 『 説教節初り年号知らず、 延享年中(1744 〜47)の頃 江戸又は田舎祭礼等に折節興業有、 太夫に 天満万太夫、 半太夫、 長太夫 などとてあり、 三絃は 盲人竜玄、 玄達 などいへる者也。 人形は裾より手を指込で 一人遣ひにて見合は 今ののろま人形也。 古風なるもの也。 隅田川苅萱など段物の 操致せしを覚へいると 老人の物語り言伝ふ 』 [中央公論社版・未刊随筆百種] と、文化年間の伝聞として書かれ、 延享年間には 江戸には説経節の常設小屋は無くなり、 祭礼などに小屋掛けにて興行する程度に廃れて居たことが判ります。 又、「嬉遊笑覧」には 宝暦十年(1760)刊行の「風俗陀羅尼」より引用して 『いたわしや浮世のすみに天満節』の川柳を乗せ、 細々と天満系の説経節が命脈を保っている様を記しています。 説経節操りとして庶民の娯楽として親しまれ、 京大阪江戸にて常設操り芝居座が多く設けられ、 歌舞伎や人形浄瑠璃と肩を並べ、 寛永年間から元禄年間(1624〜1703)に掛けて隆盛を見せていたが、 次第に歌舞伎や人形浄瑠璃に圧され衰退し、 宝暦十三年(1763)頃は消滅した。 【説経節より浄瑠璃への転化】 先述したように説経節は宝暦年間末に消滅したために どの様なものかその全貌を知ることは出来ませんが、 その曲節は義太夫節や他の浄瑠璃や長唄の中に摂取されておりますので、 大体の形を知ることは可能です。 又、五説経はじめ多くの説経節の演目は、 説経節の衰退と共に人形浄瑠璃に吸収され、 浄瑠璃化され上演される様になり、 この中には後に歌舞伎化されたものもあります。 元禄〜正徳年間(1688〜1715)に地歌「こんかい」[多門庄左衛門作詞・岸野次三郎作曲]が作られています。 元禄16年(1703)9月豊竹座。 義太夫浄瑠璃「信田森女占」[紀海音作] 3. 享保19年(1734)10月竹本座。 義太夫浄瑠璃「芦屋道満大内鑑」[初代竹田出雲作]。 この曲は紀海音作「信田森女占」に拠り、信太の森伝説と安倍晴明伝説を結び合わせた作品で、四段目「葛の葉の子別れ」が有名です。 同年同月竹本座。 義太夫景事物「葛の葉の道行」別名「信田妻道行」。 四段目「子別れ」に続く「信田の二人妻」の前半にて、狐葛の葉が夫安倍保名と別れ、信田の森の古巣へ帰って行く部分です。 享保20年2月京都中村富十郎座にて前年10月竹本座初演浄瑠璃を歌舞伎化し、同名本名題にて初演。 同年11月江戸中村座。 一中節「信田妻」本名題「かん菊釣香炉」[二代目都一中作曲]。 元文2年(1736)3月江戸中村座初演。 原拠は半太夫節「神刀小鍛冶初午参」の五段目道行。 安倍保成の妻手がしはが狐である事が露見、信田の森への道行。 安永2年(1773)閏3月豊竹座。 義太夫浄瑠璃「信田妻今物語」。 二段目義太夫景事物「保名狂乱の段」より、後に清元「保名」が作られた。 天保2年(1831)9月江戸中村座歌舞伎狂言「信田森鳴響嫁入」大切所作事、 四世中村芝翫四変化「四季詠所作の花」の一つとして、常磐津・長唄掛合「葛の葉」[松井幸三作詞、常磐津五世岸沢式佐・長唄杵屋六左衛門作曲]が作られた。 「芦屋道満大内鑑」の大詰「信田の森の場」を改作した曲です。 この作品は 説経浄瑠璃 ・「刈萱」 ・謡曲「刈萱」 ・古浄瑠璃「くずは道心」 などを原拠にして、 これに「女性の髪の毛が嫉妬の蛇と化して食い合う」 という説話を取り入れて作られております。 特に五段目「高野山」は、石童丸が顔も知らない父を探しに 高野山を訪れる段で有名です。 義太夫浄瑠璃「刈萱桑門筑紫イシズエ」の五段目より作曲。 初代冨士松魯中作曲。 各種先行曲や縁起伝説に拠り作曲。 筑前琵琶「石童丸」と同じ内容である。 松田文耕堂・千前軒(竹田出雲)合作。 別名「小栗判官照手姫」または「小栗判官」と呼ばれ、 現在でも上演されている。 義太夫節舞地「小栗曲馬物語」 (義太夫浄瑠璃「小栗判官車街道」四段目大切より取って作られている)。 義太夫節浄瑠璃「小栗判官車街道」四段目に拠り、 照手姫の熊野本宮湯元への道行を唄っている。 菅専助若竹笛躬合作。 謡曲「弱法師」と説経節「愛護若」「俊徳丸」を混ぜ込みにた浄瑠璃 「莠伶人吾妻雛形」を更に脚色した作品である。 現在は下の巻「合邦庵室の場」のみが上演される。 紀海音作。 竹田出雲作。 二歩軒・半二・北窓俊一・三郎兵衛・松洛合作。 中の巻「鶏娘」では、 三荘太夫の娘おさんは親の因果が 子に報いの譬えの如く盲目であり、 雪中に白鶏を追うおさんの凄惨な姿は 女形の見せ場と言われています。 外記・閏介・冠子・松洛・半二合作。 近松門左衛門作。 以上縷縷と説経節について述べて来ましたが、 大道芸として世に出た説経人形操りは大衆に支持され、 一時は歌舞伎芝居に伍した娯楽であった。 しかし上演演目の少なさが次第に観客に飽きられ、 新しく世に出て来た 江戸浄瑠璃や義太夫浄瑠璃の演目を説経化したりして、 態勢の立て直しを図ったが、 義太夫浄瑠璃の斬新さに観客を奪われ衰退し、 演奏者自体も見切りを付け、 義太夫節浄瑠璃に転向して行き、やがて消滅した。 その曲節や題材は先述した様に 義太夫節始め様々な浄瑠璃の中に残っています。 同じく宗教より発生した芸能に 「祭文」 を源にしたものがあります。 また、この祭文系統の芸能と説経節とが結び付き 新しい芸能が起きておりますので、 これから暫くは祭文について述べて見たいと思います。 「祭文」と云いますのは、 本来は祭事の際に祭主が神仏に対する 祈願や祝詞(のりと)として用いた文章の事を指した言葉でした。 その基は中国の儒教に於いて、 先帝の霊や天神などを慰める祭事に用いられたものですが、 中国から儒教伝来以後、我が国では ・陰陽道 ・儒教 ・神道 ・仏教 など様々な宗教にても用いられ、 特に平安時代の祭文には 陰陽道的色彩が濃厚に表れていると云われています。 我が国での祭文で最も古い用例としては、 「続日本紀」延暦六年(787) 十一月五日の条にある 『祀天神於交野其祭文曰』 [交野に於ける天神を祭りし、 その祭文に曰く] と云われています。 祭文の形式としては、神道を例に取りますと、 「謹上再拝謹啓」 とか 「奉る」 で始まり、賛嘆や祈願の主意を述べ、 最後に 「再拝」 や 「敬白」 の語にて結ぶようになっています。 また、巫女が神降ろしの際に唱える呪詞も祭文です。 本来祭文は神前にて述べる告文でしたが、 祝詞とは異なり面白い節を付けて読み上げられていました。 この宗教上用いられる祭文を源に、後に 声明、 説経節、 浄瑠璃 などと融合して様々な芸能を生み出しています。 今回からは芸能化して行く過程を述べて見たいと思います。 1.山伏祭文 山伏と云いますのは、平安時代に原始以来日本に存在した山岳信仰に立脚して、 特定の山嶽に登拝修行を志して登攀し、 山中の窟に宿って祈祷修法の行を群れにて行なう者達が現れ、 彼らをして修験者と呼び、その宗教的実践を称して 「修験道」 と云う様になりました。 修験道の本願は、果敢に各地の霊山と呼ばれる山々に登攀し、 危険に身を曝すことにて自己の精神や肉体を鍛える霊力を身に付ける 「行」 をするために、峰入りすることにあった。 これらの激しい修行により凡俗の煩悩を断ち切り、 成仏の悟りを開くことにて、 修行の実践の場として里に下りて、 真言密教の呪法を行ない、 人々の帰依信心を得る事が出来た。 里に下りた修験者は自己の研鑚を開示して 帰依する信者を獲得し、 それを檀家として加治祈祷に当っていた。 山伏と呼ばれる由縁は、 修行の過程にて山中修行にて山に臥し、 また諸国行脚の際に山野に臥すことから、何時しか 「山伏」 「山臥」 と呼ばれる様になったと云われています。 山伏信仰の基盤は真言密教の為、 その本尊である金剛蔵王権現や不動明王を念持していたが、 檀家の要望によっては他宗の本尊である 観音信仰や阿弥陀信仰による読経も 行なう融通無碍な対応能力をも持ち合わせる者達であった。 中世なると修験道の山伏が修行や勧進のために 諸国行脚をする際に、地方の民家に宿り、 依頼により加持祈祷を行なう時の願文には祭文が用いられており、 彼らの読み上げる祭文をして 「山伏祭文」 と呼んでいた。 しかし、加持祈祷の後の直会(なおらい)と 呼ばれる慰労会の場にての余興に彼らが考え出したのが、 身に付ける錫杖や法螺貝などを伴奏として用いて、 世俗的な内容の語りを祭文の形式の則り作り上げた語り物であった。 やがてこの語りを声明等の節付け乗せて語る様になり、 これが娯楽性の乏しい山間部や農村部の民衆に喜ばれ、 「山伏祭文」 とか 「もじり祭文」 と呼ばれるようになった。 また、巫女の呪詞祭文も歩き巫女により、 山伏祭文と同じ経過を辿り俗化し歌謡化していった。 宿先にての余興芸として、 祭文に当意即妙な諧謔を加えた 「もじり祭文」 「若気祭文」 などを演じて庶民に喜ばれていたが、 あくまでもこれは余興であった故に、 これらの祭文は 「そもそも勧進降ろし奉る」 とか 「そもそも祓い清め奉る」 などの言葉にて始まり、 「請願は成就皆満足せしむ敬って申す」 などで終わる祭文本来の形式を 踏まえて作られていました。 この山伏による山伏祭文は 宗教家しての山伏により連綿と継承されて来たが、 何時しか 「もじり祭文」 は山伏の手を離れて一人歩きし、 脱落した山伏や大衆芸能者により語られるようになり、 その内容も益々俗化し、 錫杖や法螺貝などの法具による伴奏が 三味線に替わっていった。 江戸末期になると宇都宮の在方に三味線に変え、 法螺貝のみを伴奏とする 「貝祭文」 と呼ばれる山伏祭文が現れ、 やがて法螺貝を用いず法螺貝の音色を口真似して 「でろでんでろれん」 と伴奏する 「でろでん祭文」 が生まれて一世を風靡した。 又、この口真似に変えて木魚を伴奏にして 祭文を経文めかして語る 「阿呆陀羅経」 も起こり流行した。 2.門付祭文 江戸時代に入ると下級宗教者の零落などにより、 当初勧進の為の余興として発生した 「もじり祭文」 は益々俗化して、 大衆芸能としての 「もじり祭文」 となった。 中でも願人坊主などによる物乞い芸である門付芸となったのを 「門付祭文」 と呼んでいた。 江戸に於いて、特定の社寺には属さず、 寺社奉行の管理監督を受けて、 日本橋橋本町に願人坊主を管理する宿泊施設が置かれており、 仕事は鞍馬寺とさほど変わらず、 武家方や町家よりの依頼にての日待月待の代参、 様々な社寺の依頼による札配や勧進をしていた。 しかし、次第に寺社奉行の管理を嫌い、 自由奔放に生きる事に目覚め、 長屋などに住み着き、 依頼による代参や札配にて生活の糧を得、 その傍ら町中の辻々にて住吉踊を 披露する大道芸能者となっていった。 天和・元禄年間(1681〜1704)になると、 歌祭文の詞章の内容も一変し、 天災地異や当時流行始めた ・駆落ち ・心中事件 など庶民が興味を持つニュース性の高いものが主体となり、 語る口調も 「口説」 の調子にして三味線に乗せて唄い、 三都にて流行した。 また、この歌詞を瓦版に仕立て街頭や社寺の境内など 群衆の集まる場所にて、唄いながら売りさばいて居たので、 現在のワイドショー的な存在で事件を広く報じる役割を担っていた。 当時上方にて流行し始めた 義太夫節人形浄瑠璃には、 これら瓦版にて心中事件を知り、 浄瑠璃化し舞台に掛け人気を博したものが数多くあります。 特に大阪では この歌祭文が人気を得て、 生玉神社の境内に歌祭文を常打にした小屋が 出来ていたと言われて居ます。 世間で持て囃された歌祭文の内で代表的なものは、 実録物である 「おさん茂兵衛」 「お千代半兵衛」 「お俊伝兵衛」 「お初徳兵衛」 「お染久松」 「お夏清十郎」 「八百屋お七」 「小三金五郎」 などで、 近松門左衛門や紀海音の浄瑠璃作品にも取り上げられ、 以後の世話物浄瑠璃に多大な影響を及ぼしております。 また、後に様々な三味線音楽に歌祭文の曲節が取り入れられています。 一例を上げますと、清元の「道行浮塒鴎(お染)」では、 『 ここに東の町の名も 聞いて鬼門の角屋敷、 瓦町とや油屋の一人娘に お染とて年は二八の細眉に 内の子飼いの久松と忍び忍びの寝油を 親達や夢にも白絞り 二人は苔の花盛り しぼりかねたる振りの袖 梅香の露の玉の緒の 末は互いの吉丁字 そこで浮名の種油 意見まじりに興じける 』 と、お染のバックグランドと久松との 不義密通の状況を歌祭文にて唄っています。 このように一世を風靡した歌祭文も、 宝暦年間(1751〜63)になると 京大阪江戸などの大都市では急速に衰退して行き、 その 残滓は地方の盆踊り歌として残り、 また瞽女歌として各地の瞽女により歌い継がれて行きました。 尚、筆者が子供の昭和20年代の始め頃、 東京でも神社の祭礼時の夜店に 「覗きからくり」にて 「不如帰」 や 「八百屋お七」 を歌祭の節付きにて聞いた記憶がありますが、 現在ではどうなっていますか。 皆様ご存じの 義太夫浄瑠璃「新版歌祭文(お染久松)」の野崎村の段にて 弾かれる連弾(野崎)は 歌祭文の曲節を変化させたものと云われています。 4.説経祭文 文化六年(1809)頃に 江戸にて説経節語りの薩摩若太夫が、 説経節と歌祭文とを合体させて 「説経祭文」 と称する一派を創設し、 一時は人気を博したが、やがて飽きられ、 その後四代目まで細々と命脈を保ってきた。 四代目の時に幕府瓦解に遭遇し、 それ以後は八王子の郷土芸能である 車人形の地方(じかた)として存続して現在に至っている。 又、天保七年(1836)頃に 名古屋の新内語り岡本美根太夫が、 新内節に説経祭文の節を加味して祭文江戸説経節を創設した。 明治五年(1872)に弟子の美根松が 説経源氏節と改称し、後に源氏節と改めた。 又、美根太夫の妻美家古が女性の弟子を多く育て、 源氏節を地として芝居を演ずる様になり、 名古屋にて評判を得、 明治三〇年(1897)頃には東京に進出し、 当時流行の女義太夫を凌ぐ名声を博したが、 彼女たちの演技が卑猥なために当局により上演禁止となり、 以後衰退の一途を辿った。 現在この系統を引く一座が名古屋市の在の 甚目寺にあって定期的に公演をしています。 syakkyo. html 6月4日の石響公演に向けて、説経について研究をはじめました。 「説経について」室木弥太郎氏『新潮日本古典集成 第八回 説経集』解説より 説経とは 語り物(口から耳に伝えられる)、口承文芸(昔話・伝説・ことわざを含む)。 「説経節」「説経浄瑠璃」ともいわれる。 近世(江戸時代)では、多く「説経」の字を当てるが、「説教」を当てることもある。 便宜上、「説経」に統一し、お坊さんの「説教」と 区別する。 それを語る専門の芸人も、「説経」・「説教」「説経説き-せっきょうとき)・「説教者」という。 内容「せつきやうかるかや」/語り手「説経与七郎」 時代 説経は、中世の芸能である。 説経らしくその特色を発揮したのは、劇場に現れる以前の野外芸能の時代。 十五世紀末、安土桃山時代(1568〜1600)までさかのぼる。 (この時期の説経を確かめる資料はほとんどない)ひかえめに1600年(慶長五年)前後を説経の時代と考える。 1600年(慶長五年)ごろ、一部の人を別として、一般には文字や本になじまない生活を送っていた。 しかし文字を知らないと不便であり、また知らないことを恥として、文 字の学習が熱心になった。 (当時の『洛中洛外図』を見ると京都の商家や芝居に、文字を記した看板が次第に増えていく)それでもまだまだ文字の文芸から遠く、語り物の大 衆化、国民文学的な普及になっていった。 中世の語り物の主流は、平曲(『平家物語』を琵琶の伴奏で節を付けて語る。 平家・平家琵琶ともいう)盲僧の専業。 中世末になると平曲の人気が落ちたため、他のいろいろな芸能をやっている。 『言継卿記(ときつぐきょうき)』天正二十年(1592)八月十五日の条では、福仁という座頭が、平家のほか、浄瑠璃・小唄・三味線・早物語をやっている。 (三味線をひきながら浄瑠璃を語ったかどうかはわからない) 座頭が浄瑠璃を語ったのは、享禄四年(1531)以前からであるが、(柳亭種彦氏指摘)このころの浄瑠璃はまだ一地方の語り物であった。 矢作(やはぎ)の宿(愛知県岡崎市)の遊女浄瑠璃御前と源義経の恋物語『浄瑠璃御前物語』を語った。 天正(1573〜92)ごろ「尼君物語の浄瑠璃」が行なわれた。 (『奥羽永慶軍記』) 舞曲『屋嶋軍(やしまのいくさ)』と同材らしく、『浄瑠璃御前物語』を語ると同じ節回しで、他の作品も語ったことが分る。 平曲に代わり浄瑠璃が徐々に台頭。 (中世の語り物は、平曲のほかに『曽我物語』『義経記』も語り物を素材にしたと考えられている。 義経、曽我兄弟の悲壮な運命をたどった人物は、取り分け人気があり、死去間もなくから熱心に語られた) 『をぐり』は絵巻物。 (他作品は刊本)寛永十六年(1639)正保五年(1648)ごろできた。 江戸時代以前からよく似たものが行なわれたに相違なく、説経の中の説経。 初期の説経の刊本では『せつきやうかるかや』とわざわざ「せつきやう」何々として、浄瑠璃ではないということを示す。 説経が盛んに行なわれたのは、江戸時代の初期(17世紀)。 浄瑠璃にやや後れて、劇場に進出し、その正本-しょうほん(テキスト)も刊行され、いっそう著名になった。 都市の発達に伴い、大勢の人を一度に収容し、入場料で経営する芝居(劇場)が生まれ、劇場にふさわしい芸能が工夫されるようになった。 (歌舞伎・浄瑠璃) 説経も浄瑠璃をまねた。 伴奏に三味線を用い、その語りを繰り人形で演出する。 また初段・二段・三段と六段ぐらいに分け、各段の間に余興を入れ、お客を退屈させないようにした。 (劇場芸能としての変革) 江戸の天満八太夫(石見掾-いわみのじょう)の時代が一番華やかだった。 (元禄四、五年1691〜92)(信多純一氏による) ササラを捨て三味線を使うようになったのは、三味線の流行によるが、おそらく劇場進出がきっかけで、寛永八年(1631)より少し前のことであろう。 段別のない従来 の説経が、浄瑠璃と同じく六段になったのは、遅くも万治元年(1658)からである。 このころから急速に旧作品の改作、それに新作、浄瑠璃の改 作も手掛け、新しい説経の時代を迎える。 その代表者は、江戸の天満八太夫。 『あいごの若』『まつら長者』はこの時期の刊本を底本にしたが、いずれも古い正本がないため。 古い説経の面影をよく残しているにしても、段分け、段初段末の慣用句、戦闘場面の増補など、説経浄瑠璃の名がふさわしい。 「をぐり」は、段別がなく、古風。 都市の劇場に出入りするようになって、旅の必要がなくなり、寺社や仏神が、都市の観客・聴衆に無縁のものになると、本地物の形式は次第に消えていく。 延宝三年(1675)刊行の『おぐり判官』の冒頭では、「それつらつらおもんみるに、天神(てんじん)七代地神五代より、かく人皇に至るまで、君君たれば臣臣たり、四海波風静かにて、国土豊かに治まれば、なびかぬ草木はなかりけり」とすっかり浄瑠璃風 になり、正八幡も結ぶの神も出て来ない。 浄瑠璃同様重々しい教訓的な言葉で始まり、語り手の威厳を示そうとするようになった。 (佐渡七太夫豊孝は、説経復興の志があったためか、その正本は古体を残している) 一部の説経が劇場に進出した後も、寛永・正保(1624〜48)までは、相当旧態を維持し、その正本も1600年ごろの面影を十分残している。 (「あいごの若」「まつら長者」は、浄瑠璃風に六段になっており、新しい説経) 説経は、浄瑠璃との競争で、その独自性を発揮するため、古体を残す必要があった。 しかし大勢に順応して、浄瑠璃風に新味を出そうと努めるとともに没落していった。 語り手 説経の人々はどういう姿で語り歩いていたか。 ササラこじき---説経を語る人々は、当時、簓乞食ともいわれた。 簓は茶筅(ちゃせん)を長くしたような形で、竹の先を細かに割って作る。 それで、刻みをつけた細い棒(簓子(ささらこ))をこすると、さらさらと音を立てる。 それでササラという。 楽器というほどのものではないが、これを伴奏にした。 後に胡弓や三味線に替えたが、本来はササラである。 京都国立博物館編『洛中洛外図』所載の八坂神社所蔵図の解説によると、(元和のころ(1615〜24)の制作。 )広いむしろの上に立ち、長い柄の大傘(おおからかさ)を肩に寄せてかざし、両手で簓(ささら)をすりながら語っている。 三十三間堂境内の人通りの多い処で、周りに座っている数人の中には、泣いている者もあり、座ったままひ しゃくで金を集めている者もあり、聞き手が投げたと思われる銭が、辺りに散らばっている。 徳川美術館蔵、絵巻『采女(うねめ)歌舞伎草紙』は、初期の女歌舞伎の説経を取り合わせているがもっと堂々としていて、羽織を着ている。 ササラ・大傘・羽織が説経の特徴ある姿であったらしい。 元禄三年刊『人倫訓蒙図彙』大傘を捨てて菅笠(すげがさ)をかぶり、ササラの代わりに胡弓(こきゅう)あるいは三味線を持って門付けをするようになる。 『洛中洛外図』所載、西村啓一郎氏所蔵図では、本来の姿で門付けしているが、それは時代が比較的古いからであろう。 そういう門付けを、当時門説経(かどせっきょう)といい、乞食同様の者であった。 都に歌念仏の日暮(ひぐらし)一派があり、説経を語る。 万治・寛文(1658〜73)ごろの日暮小太夫は特に聞こえたが、この一派は鉦鼓(しょうご)を用いた。 しかし劇場で語った時は、三味線を用いたであろう。 大傘を持つ---何か理由があって古くからの続く。 雨や日をよけるためばかりでなく、田楽法師が傘を持った伝統であろうが、傘の形をした松を神様松という地方があり、おそらく神のよりましといった、権威を示したのであろう。 説経が取材し脚色した以前の語り物を考えると、『かるかや』は高野聖(こうやひじり)かも知れず、『さんせう太夫』『をぐり』は、日本海と大平洋の沿岸を歩く巫女(ふじょ=みこ)であったかもしれない。 いずれにしても、各地を放浪して人の集まる寺社の傍らで語っていた時代の、宗教味を漂わせた語りの形式である。 初期の説経の刊本では語り手は、「説経与七郎」と「説経」何々とする。 『さんせう太 夫』は説経与七郎の正本(しょうほん)『さんせう太夫』明暦二年版(1656)と『しんとく丸』は説経佐渡七太夫の正本。 あるいは寛永八年版『かるかや』も与七郎の、絵巻『をぐり』も両人いずれかの語り物かも知れない。 いろんな点から与七郎・七太夫は師弟か、それに近い関係の人で、写本『かるかや』も与七郎ではないだろうが、同系の人であることは間違いない。 説経には、主に助詞の「て」に付く「に」という間投詞をはじめ、独特の用語がある。 高野辰之氏はこれを「伊勢の特殊用語」としたが、果たしてこれが当時の伊勢方言かどうか確かめることはできない。 しかし蝉丸神社文書等の資料から考えて、与七郎と佐渡 七太夫の出身は、伊勢あるいはその近辺と思われる。 『さんせう太夫』与七郎正本に「摂州東成郡生玉庄大坂天下一説経与七郎」とある。 生玉(天王寺区、生国魂(いくたま)神社境内で説経の芝居の興行をしたのであろう。 (水谷不倒氏解釈) 『色道大鏡』に「説経の繰りは大坂与七郎といふ者よりはじまる」とある。 大坂与七郎がそうであるように、佐渡七太夫も、佐渡で興行に成功したといった因縁によるのではないか。 佐渡は金山でにぎわい、芸能者がこぞって渡島したようで、歌舞伎の創始者と いわれるお国も、ここを訪れたと伝える。 説経は本来野外の芸能であるが、与七郎が人形繰りと結んで初めて劇場に進出した。 画期的なことである。 さらに本屋(板元はんもと)は正本(テキスト)を絵入りの読み物として刊行した。 おかげで語り物説経は、文字になって固定し今日に残る。 都市と劇場と出版が説経を中世からよみがえらせた。 平曲の盲僧、青森県のイタコ、新潟県のゴゼのような盲女、盲人だけでなく、一般に唱導(説法)を専門とする比較的身分の低い僧尼が多数いた。 そういう日常旅を暮らす人々によって、語り運ばれたのであるが、交通の便がよくなり、農村が豊かになった中 世末期、特に戦国時代以降に最も活況を呈し、その中から浄瑠璃が、抜きん出たと想像される。 東海道の勇者が勝利を得たのとよく似て、浄瑠璃の台頭も地の利を得たということがあろう。 浄瑠璃が近世の語り物として成功したのは、現在では分らないが、内容だけでなく、その語り、節回しが平曲などに比べ、余程新鮮であったからであろう。 また三味線という新しい楽器を伴奏に使った点もあり、さらに繰り人形を利用して、劇場芸能にふさわしい演出を試みたということがあろう。 説経は、織田信長にひいきにされた幸若(舞)の一派を除く、非幸若のように乞食同然に転落した者も多いが、語り物の新しい転換に積極的であり、浄瑠璃と対抗しあるいは妥協して、相当長く生きのびた。 説経は幸若のように権力に結びつく機会がなく、宮中に出入りするとか、武将に招かれることもなかった。 また中世の幸若のように、農村に 基盤がなく、定住地を持たず、各地を放浪していたのではないかと思われるふしがある。 身分的にも経済的にも底辺に沈淪(ちんりん)しながら、大衆の支持で、かろうじ てその芸能に生きることができた。 それが近世になっても柔軟に対応し、最後の活力を 発揮したゆえんであろう。 次第に浄瑠璃に吸収されていくが、後の芸能・文芸に及ぼした影響は舞曲を超えるものがあった。 江戸時代、説経の人々は、東は滋賀・三重・岐阜・愛知・静岡・長野、西は京都・大 阪・兵庫・岡山・香川に散在しているが、相互の交流は距離的もあまり行なわれなかったようである。 しかし蝉丸の宮を中心に結び付いていたといえる。 彼等のうち与七郎らのように、劇場に進出して成功した者もあるが、中には賤業(死人の取り扱いなど)を強いられるなど、ほとんどが貧困にあえいでいた。 正徳元年(1711)以降は、三井寺の別所近松寺が、彼等を直接支配するようになったが、寺の権威にすがらねばならぬほど、弱い存在であった。 能楽に「自然居士(じねんこじ)」「華自然居士」「東岸居士」「西岸居士」という曲があり、いずれも古い説経者を主人公とした作品。 特に「自然居士」(観阿弥の作といわれるが、現行のものは世阿弥の改作であろう)は有名で、ここに登場する説経者自然居士は、人買いの男から娘を救うため、ササラをすり、羯鼓(かつこ)を打ちながら舞を舞う。 説法もさることながら、そういう芸能も得意であったことがわかる。 (鎌倉時 代末(十三世紀末)に同名の芸能者があって、それをモデルにし、美化した作品) 自然居士はこの当時から乞食といわれた。 久松家の絵巻『天狗草紙』によると、「放下(ほうげ)(一切の執着を捨てること)の禅師と号して、髪をそらずして、烏帽子をき、坐禅の床を忘れて、南北のちまたにササラすり、工夫(考えめぐらすこと)の窓をいでて、東西の路に狂言す(気違いじみたことをいう)」とあり、絵にはその通りの人 物が、ササラを持って踊り歌っているように見える。 『尾張志』では、自然居士の弟子東岸居士を祭る者があり、それはササラすりという戸籍の外の遊民であるとしている。 従ってササラこじき--説経というのも、この系譜を引くと見て間違いないだろう。 少なくとも十三世紀より約三百年間、ちらりとその姿を見せるが、ササラで象徴される、下層の芸能者である。 企画をした人 目貫屋長三郎、監物(けんもつ)・次郎兵衛は、盲僧でも、芸能の家の出身でなく、素人のように思われる。 後の竹本義太夫、近松門左衛門など、素人によって開発されたということは重要である。 説経や舞曲は素人が飛び込む余地がなく、その殻を破り得なかった。 場所 人がよく集まる所、例えば逢坂山のふもと、京都の三十三間堂、北野神社、大阪の四天王寺、江戸の増上寺など、広々とした寺社の境内などで語った。 時間 一篇を語るのに相当時間がかかり、相当の力量を要したであろう。 中でも、与七郎・七太夫は第一級の芸能者で、ただの乞食ではない。 説経の世界 説経の人々の系譜は、作品と深く関連している。 『しんとく丸』の主人公は盲目のこじき、『さんせう太夫』のつし王も都の権現堂(ごんげどう)から四天王寺までこじき同様。 『をぐり』の小栗判官は餓鬼阿弥(がきあみ)といわれて土車に載せられるが、餓鬼阿弥が癩患者の別名になるほど、それは醜悪なこじきの姿である。 照手姫も転々と売られ小萩の名で下水仕(しもみずし)となる。 奴隷である。 奥州・九州、関東の大領主、都の公家、河内や大和の長者といった、それぞれの出身のきらびやかさは、表面だけのもので、中身はこじきや奴隷といった下層民の世界である。 そこに説経の他の文学に見られない、暗黒・悲惨の一面がある。 『平家物語』や舞曲に見るような、華々しい戦闘の場面はないが、仇敵に対する峻烈極まる処刑は忘れない。 その登場人物は、やや思考性に欠けるが、極めて行動的であって、強情一徹に自分の意志を貫くというたくましさがある。 『かるかや』御台所、姉娘があくまで優しく自分を捨てて夫や息子、父や弟に奉仕し、しかも一片の幸せも得ず落命するはかなさは、後の浄瑠璃や歌舞伎に見る日本的悲劇の祖型を示す。 決断が早く、まっしぐらに行動するのが、主人公の特徴。 『さんせう太夫』の安寿姫、『しんとく丸』の乙姫、『をぐり』の照手姫、『まつら長者』のさよ姫は、いずれも女性であるが、そういった積極的な人物である。 照手姫は恋に猛進あるいは盲進する誠実 そのものの女性。 毒殺された夫がよみがえり、見る影もない餓鬼の姿になっているのに、夫と知らず愛着し、貞節を尽くす。 ありえないような極限の、異常な恋愛であって、愛への献身である。 神仏の霊験・利益(りやく)が現われたり、誓文の神降ろしといった独特の語りがあったり、中世的な宗教性が作品の特徴になっているが、それ以上に登場する人物の強い意 志がまっすぐ貫かれて、神や仏がそれを助けるというのが特色。 それはまたその当時の 進取の気風を反映したものであろうし、新しい時代に迎えられ、芸能・文学に繰り返し 再生されて、今日に及んだ理由の第一であろう。 特に女性達の、まなじりを決して苦痛 に耐え抜くその行動性は、説経の大きな魅力で、後の近松門左衛門の作品にも、そういう女性が装いを新たにして登場してくる。 説経は、すべて説経の人々の敢然な創作ではないと考える。 彼等には、それだけの才能やゆとりがなかったというより、語り物あるいは芸能の、長い伝統と習慣といってよい。 従来よく行われた、大衆になじみの多い作品を、脚色・改作するのが、確かな人気 を得る、最良のやり方で、国文学はそういう過程で生まれている。 説経以前にすでに同材の作品(語り物)あって、それを改作し、脚色したのであろう。 (小栗が四天王寺から熊野湯の峰へ土車で運ばれた通り筋を小栗街道という。 湯の峰に は今も小栗湯の名が残っている。 小栗ゆかりの藤沢市清浄光寺(しょうじょうこうじ)内には、小栗・照手のささやかな墓がある。 この辺りも記念碑がいくつかある) 人間像は、時代の好みに沿って変わる。 そういう語り物はいずれも当初地方に生まれ、全国に伝播したとみてよい。 他の説経作品 説経らしい説経、あるいは古体を残した説経は、他にどういうものがあるか。 『あいごの若』『まつら長者』の底本は、いずれも万治元年(1661)の刊行であるが、そのころまでに実際に語られ、正本として刊行されたものは、 『熊野之権現ごすいでん』(『熊野の本地』)万治元年十月刊 『目蓮記』万治ごろ刊 『梵天国』(写本) 『松平大和守日記』万治四年二月十三日の条に、説経の草紙(正本)として「かるかや」「さんせう太夫」「しんとく丸」「をぐり」「あいごの若」「目蓮記」の他に、 『隅田川』『阿弥陀の本地』(法蔵比丘(びく))『釈迦の本地』『殺生石』(正 本不 明、謡曲「玉藻の前の伝説を素材にしたものか)『といだ』(正本不明、浄瑠 璃のほう で五部の本節(ほんぶし)の一とする「戸井田」と同じものかどうか) 『法蔵比丘』『釈迦の本地』は後に出た正本が残る。 正徳・享保(1711〜36)のころ、佐渡七太夫豊孝という説経、説経の伝統を守ろうと努力。 当時すでに衰退していて彼が刊行したものに説経の古典といっていいものがある。 『さんせう太夫』『をぐりの判官』『こすいでん』(『熊野の本地』)『伏見常磐(ときわ)』『志田の小太郎』『くまがえ』(『熊谷先陣問答』) (『伏見常磐』『志田の小太郎』は、日暮小太夫の『百合若(ゆりわか)大臣』(寛文 二年刊)・石見掾(いわみのじょう)(天満八太夫)の『兵庫の築島』(寛文ごろ刊)などとともに元は舞曲であろう) 「・・・てに」の語法を含む次の刊本は、『くまがえ』『信田妻(しのだづま)』とともに古い説経かも知れない。 一考を要する。 『小敦盛(こあつもり)』正保二年八月刊 『吹上秀衡入(ふきあげひでひらいり)』伊勢嶋宮内正本 慶安四年九月刊 『毘沙門天王之本地』承応三年十一月刊 新作と思われるものを除き、説経の古典を手探りしたのであるが、以上の説経の中 には、浄瑠璃の方で語られているものもあり、純粋の説経とは言いきれない作品があ る。 著作権も上演権もない時代であるから、一つの語り物を説経の方でも浄瑠璃の方でも、随意に脚色し、随意の曲節で語った。 そういう意味で本来説経でないものが相当あるはずである。 そういう中でこれが説経の代表と言えるものを選ぶとすれば、躊躇なく『か るかや』『さんせう太夫』『しんとく丸』『をぐり』の四つを挙げる ことができる。 説経の節 太宰春台の『独語』に、説経の節について「その声もただ悲しきのみならば、婦女これをききては、そぞろに涙を流して泣くばかりにて」「はなはだしき淫声(いんせい)にはあらず、言はば哀みて傷(やぶ)るといふ声なり」とある。 「あらいたはしや」「流涕(りうてい)焦がれ泣きにける」といった句をしきりに用い、ササラをすりながら、ゆるやかなテンポで語ったのであろう。 絵巻物や奈良絵本には節付けがない。 従って『をぐり』も底本が絵巻であるため節が付いていない。 他は絵入り刊本であるため、わずかな節付けがある。 コトバ・フシ・クドキ・フシクドキ・ツメ・フシツメ・・ 比較的几帳面に記している『しんとく丸』(カッコ内の数字は『説経正本集』第一による行数) コトバ(6)、フシ(8)、コトバ(7)、フシ(18)、フシクドキ(5)、コトバ(15)、フシ(29)、コトバ(13)、フシ(27)、ツメ(17)・・・・ 他の本と併せ考えると、コトバ(詞)・フシ(節)・コトバ・フシと交互に語るのが基本になっていたようだ。 コトバ---日常の会話に比較的近く、あっさりした語り方。 フシ---説経独特の節回しがあり、情緒的に語ったのであろう。 コトバとフシが交替してリズムを作っていく間に、クドキ(口説)ツメ(詰)を適度に交えて、全体的に起伏・変化を与えているように思える。 しかし曲節についての表記はどの本も不完全で『かるかや』も、中の巻からようやく丁寧になり、語りの句切りを示す(山のようなマーク)の下に、コトバとフシを大体交互に記している。 この本の場合、それ以外の曲節の名称は出て来ない。 しかしクドキやツメは古い伝統であるから、『かるかや』にもそういう語りがあったに違いない。 『さんせう太夫』では「きやうだいの口説きごとこそ哀れなり」の次に、フシクドキ(フシの部分のクドキであろう)として「あらいたわしやなきやうだいは、さてこぞの正月までは、御浪人とは申したが・・」と続く。 恐らく物悲しい沈んだ調子の語り方が されたのであろう。 聞く人を泣かせたのはこういう部分であったと想像される。 ツメは急迫した場面に用いられたようで、『さんせう太夫』の場合、邪見な三郎が安寿に焼き金を当て拷問する時、お聖が進退極まり誓文を立てる時などの行われる語り方で ある。 『あいごの若』にはキリ(切)と三重がある。 これは場面の終わりに一句切り(ひとくぎり)つける際に使われるが、どういう語り方で三味線との関係はどうかということは全く分らない。 この二つの曲節は明らかに区別があるが、その違いも分らない。 ワキという符号の付いたところがあるが、これは太夫に次ぐ者としての脇である。 本来は太夫が一人で語ったのであろうが、ワキが太夫を助けて一部を語ることが行なわれ、寛文七年版の『さんせう太夫』の例では、コトバの相当部分を語り、フシの一部を太夫と「つれぶし」で語る場合もあった。 解題 『をぐり』---本地物(ほんじもの) 「をぐり」の冒頭は〈そもそもこの物語の由来を詳しく尋ぬるに、・・おなことの神体は正八幡荒人神〉、末尾は〈小栗殿をば、・・正八幡荒人神とおいはいある。 同じく照手の姫をも、十八町下に、契り結ぶの神とおいはいある。 ・・〉 小栗と照手は、それぞれ墨俣の正八幡と契り結ぶの神(結神社)として祭られているが、ここでは、その二人が神となる以前の姿、神の本源、すなわち本地である人間につ いて語られている。 神の縁起を語る・本地物の形式をとる。 (これが説経の特色)(都市の劇場に出入りするようになり、旅の必要がなくなり、寺社や仏神が、都市の観客・聴衆に無縁のものになると、本地物の形式は次第に消えていく) 「をぐり」別本(奈良絵本)では、小栗が墨俣の正八幡の御子で、後に都の北野に、愛染明王(あいぜんみょうおう)として祭られ、同じ場所に照手も結ぶの神として祭られたとしている。 (『山城名勝志』によると、北野神社の近くの法化堂(ほっけどう)に、愛染明王が祭られていたことがられている) それより後に出た別本(佐渡七太夫豊孝本)では、小栗は常陸の国鳥羽田(とっぱた)村の正八幡結ぶの神として祭られたという。 以上三つの本は、共通して二人が正八幡大菩薩や結ぶの神に結びついている。 結ぶの神は男女の縁をとり結ぶ神で、愛染明王も愛欲をつかさどり、恋愛を助ける神である。 小栗の剛勇、照手の恋愛は、いずれも超人的なものであり、右の神々に結びつくのは不自然ではない。 しかも、はっきりとした地名を残している点が注目される。 実際に語られた場所によって、地名を異にしたのではないか。 また一般庶民があつく信仰した神仏を引き合いに出して、その物語が真実であることを信頼させ、それだけに聞き手の感動 を誘う有効な手段になったに違いない。 藤沢市の清浄光寺(しょうじょうこうじ)(時宗)と深い関係がある。 この寺には照姫(照手姫)が永享元年(1429)に建てたというお堂があり、照手姫・小栗ゆかりの品を蔵していた。 照手は永享十二年に死去し、長生院寿仏尼といったという(『新編相模 国風土記稿』)。 史実として信を置けないが、ここが照手と小栗について語り歩く、巫女あるいは比丘尼(びくに)といった女性たちの根拠のなっていたことは確かである。 また本文に出てくる墨俣(すのまた)の宿には八幡宮があり、その境内すぐ西に照手の社というものがあった(私見ではこの宮は「足日女子(たるひをなご--満ち足りた日の女)殿とも言っ たのではないか) そのさらに西方揖斐川(いびがわ)の渡し場に近い、結村の結大明神も、照手の社とも小栗の社ともいい、照手の鏡を置くといわれる。 (以上『和漢三才図会』『美濃国古跡考』『美濃明細記』による) これらは、女性の語り手の遺跡のように思える。 福田晃氏によると、小栗の荒馬乗りなど馬の部分は、常陸(ひたち)の国小栗郷で醸成されたものである。 また小栗と敵対する横山も馬と関係の深い家である。 小栗・照手・ 横山・鬼鹿毛、毒殺と蘇生、観音の身代りなど、清浄光寺及びその近辺に、伝説としてその跡を残していることを思うと、『をぐり』の大部分はこの寺と関係の深い人々、特に女性によって語り物としてまとめられ、説経はそれを素材にしたと考えられる。 従っ て『をぐり』は、小栗謀反の一件を伝える『鎌倉大草紙』によったものではなく、『鎌倉大草紙』も説経が素材にしたと同種のものを、エピソードとして記載したのではなか ろうか。 美濃の国には数カ所に説経の人々が居て、寛文九年(1669)の記録では、墨俣に近い竹が鼻(羽島市内)に、庄太夫という説経の居たことが知られている。 しかし本書の『をぐり』が彼等美濃の説経によって作られたとするのは無理であろう。 もっと複雑な経過をたどって説経の大事な曲目に成長したのであろう。 『をぐり』関連本 ・底本 絵巻『をくり』(グでなく、ク)(寛永後期〜明暦ごろ写) ・校合 奈良絵本『おくり』(近世初期写)---略称「奈良絵本」 ・仮題『をぐり』(寛永初年刊、古活字版丹緑本、上中下三巻のうち下巻残存)---略称「古活字版」 ・草子『おぐり物語』(寛文末延宝初年刊、鶴屋喜右衛門版、三巻のうち中・下巻残存)---略称「草子」 ・『おぐり判官』(延宝三年孟夏刊、正本屋五兵衛版)---略称「延宝版」 ・佐渡七太夫豊孝正本『をくりの判官』(正徳・享保ごろ刊、江戸惣兵衛版)---略称「豊孝本」 『をぐり』は、後に多くの作品を生んだが、近松の『当流小栗判官』、その改作『小栗判官車街道』(文耕堂・千前軒作)が有名。 蝉丸(さらに一知識!) 江戸時代の記録によると、説経の人々は、蝉丸(せみまる)を祖神とした。 蝉丸は百人一首の「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬもあふ坂の関」で知われている人で、説経の人々は逢坂山の下と上にあった蝉丸の宮(大津市蝉丸神社)の祭礼に各地から集まり神事に奉仕した。 この社は本来道祖神を祭り、旅人の守護神であったが、いつのころか蝉丸を合祀した。 蝉丸はこの歌を載せた『後撰和歌集』の当時、天暦五年(951)のころ、あるいはそれ以前の人であるが、その伝記はほとんど残っていない。 伝説あるいは作り話として、延喜(醍醐だいご天皇)第四の皇子といわれ、琵琶の名手でありながら、盲目のため逢坂山に捨てられ、姉君は逆髪(さかがみ)といって狂人であったという。 (謡曲「蝉丸」) 蝉丸の宮では、この悲惨な伝説に尾ひれを付けた、「御巻物抄」というものを作り、説経の人々に金と交換し下付した。 これが彼等の身分証明書で、これを所持しないと説経が語れなかったらしい。 それには蝉丸は妙音菩薩の化身であって、衆生救済を願い、逢阪山を上下する旅人に乞食(こつじき)をするが、それは利益(りやく)方便のためで、心中少しも卑劣なことろはないと記されている。 参考文献 ・作品を翻刻した基礎資料 横山重編『説経正本集』第一から第三(昭和四三 角川書店)解題の他「第三」に信多純一氏の論文二篇を収める ・単行本に収められ比較的まとまっているもの 黒木勘蔵『近世日本芸能記』(昭一八 青磁社)のうち「説経の研究」 佐々木八郎『語り物の系譜』(昭二二 講談社)のうち「八説経」 和辻哲郎『日本芸術歴史 第一巻(歌舞伎と浄瑠璃)』(昭三〇 岩波書店)のうち「第三編 説経節とその正本」 室木弥太郎『語り物(舞・説経 古浄瑠璃)の研究』(昭四五 風間書房)のうち「第三篇 説経」 岩崎武夫『さんせう太夫考--中世の説経語り--』(昭四八 平凡社) 荒木繁・山本吉左右『説経節』(東洋文庫)(昭四八 平凡社)「山椒太夫」ほか五篇を載せ、注釈・解説を付す ・論文として古典的価値を持つもの 柳田国男「山荘太夫考」(『物語と語り物』所収『柳田国男集』第七巻) 折口信夫「身毒丸」(『折口信夫全集』第十七巻) 同「餓鬼阿弥蘇生譚」「小栗外伝」(以上『古代研究(民俗学篇一)』所収『全集』第二巻) 同「小栗判官論の計画(「餓鬼阿弥蘇生譚」終篇)」(『古代研究(民俗学篇二)』所収『全集』第三巻) 同「愛護若」(『古代研究(民俗学篇一)』所収『全集』第二巻) 島津久基『近古小説新纂初輯』(昭三 中興館)の「さよひめ」の項 もどる 遊行座 東の宮美智子 kcan tg7. so-net. konan-wu. htm 講談の源流 話芸としての講釈(講談)の源流をさぐる場合にも説教の系譜をたどらねばならない。 「経典講釈」というものは法門講談としてきわめて重要なものである。 「講釈」「講談」の用語は中世の仏教関係の文献には頻出する。 手近な文献で例を引けば『花園院天皇宸記』元亨二年(一三二二)十月十日の条に「問答之次第。 衆僧着座の後一僧善導の観経釈を談じ、之を講釈す」とあり、仁空実導著『西山上人縁起』(一三八六)には「おほよそ黒谷の門弟其数多しといへども、本疏の講釈に至りては聞者はなはだすくなし」「中陰五旬の間日々の法前の講釈七々の諸尊の讃嘆」とあり、『蓮如上人御一代記聞書』には「アルヒハ講談、又ハ仏法の讃嘆」などの用例を見ることができる。 経典の真意を詳しく解釈し、講義することを「講釈」という。 これは説教の重要な一分野である。 真宗では「説教」と「講釈」が、つい最近まで区別して行われていた。 現代でも寺院で「講釈」という貼紙を見ることがある。 真宗でこのように区別していたのは、説教に二つの系列があることを意味している。 一つは純粋の経典講釈(法語の講釈も含む)であり、今一つは演説を中心にした説教の系列である。 話芸としての講談の源流は主として前者の方に求めることができる。 古い時代の講釈の形は諸文献に見出すことができるが、特に『伊呂波字類抄』に「講説・説教・談義」の区別が示され、ここにいう「講説」が純粋の経典講釈をさしているのは注目すべきである。 『中右記』には、ほとんど全巻にわたって講師の講釈が記されている。 仏教における講釈は、中古以前からきわめて盛んであった。 聖徳太子の講経をはじめ、『法華経』の講釈が盛んに行われたのは、すべて純粋の経典講釈の系列の発展であった。 経典講釈の方法による説教は、中古から中世にかけて興隆したが、鎌倉仏教のもとにおいても節談説教(節付説教)と並行して進展していった。 通俗的な立場に流れる説教に較べて、経典講釈の方は常に堅実であり、難解であり、思索的な方向をたどっていった。 法然・親鸞・日蓮・道元・栄西・一遍らの中世仏教の祖師たちは、一方において通俗説教発展の基盤を作るとともに、一方では「法語」という経典講釈の系列の唱導体をのこしている。 きびしい宗教体験に裏うちされた「法語」は、きわめて深い真理を示す高度な説教の役割を果たすことになる。 「法語」が成立してからは、日本仏教各宗において、その克明な講釈が説教の重要な一分野として宗学(宗派の教学)とともに研究されることになった。 従って話芸としての講釈の源流にも経典講釈を継承した筋があることを考えなければならない。 講釈(江戸時代に「講釈」と「講談」は一応区別があったが、一般に「講談」というようになったのは明治に入ってからのことである)が、今日のごとく寄席演芸としての話芸になったのは近代に入ってからのことであり、少なくとも明治に入るまでは、教育的職分を果たすというプライドが講釈師にはあったはずである。 明治以後、寄席演芸には加入してからでも講釈師だけは「先生」と呼ばれて今日に及んでいるのは、「講釈」という呼称そのものに指導的な意味が含まれているからである。 戦記物語と法語 仏教の講釈の型が確立して歴史的展開をとげていく中に、戦記物語(軍記物語・軍談)が出現したことは、講釈の歴史にエポックが画されたといえる。 戦記物語は話芸発展の一翼をになう重要なものであり、説教の系列の上でも講釈の一種として重視しなければならない。 経典講釈の読み口は、独特の型をつくって受けつがれていてたことが考えられるが、儒教の講釈もほぼ同様の読み口であったと思われる。 それは日本語の特質から容易に考えられる。 そこへ戦記物語が加わり、読みものとしての工夫か一段となされることになった。 本を読む時に声をあげることは実際には非常に効果的で、読むものの発声・抑揚などは、聴き手がある場合には評価の対象となる。 経典講釈の講師も聴き手のきびしい批評を受けた。 まして戦記物語のような文学的なものは読み方の工夫が特に大切である。 『保元物語』『平治物語』『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』などは、経典・法語と同じようにいずれも黙読ではなく、声をあげて読んで聴かせることによって一段と効果を発揮するものであり、殊に『平家物語』や『源平盛衰記』は、諸行無常と浄土教信仰を説く末法思想下の説教には最もふさわしいものであった。 これも説教文学の一つというべきであろう。 戦記物語と法語とが密接な関係をもっていることはいうまでもない。 戦記物語だけでなく鴨長明の『方丈記』も説教の方法で書かれたと見たものがあった。 加藤盤斎の『長明方丈記抄』には『方丈記』をさして「此記は四段に分て見るべし。 (中略)一段めには所詮の理をのべ、二段には法説譬喩因縁説の三周の説法に准て、はかなきことはりをかけり。 因縁説の下に大小の三災のことをありし昔物語に合せてかけり。 三段には我身のむかしのことをのべて領解のこゝろにかけり。 四段に方丈の記の趣をのべたり」とあり、『方丈記』が仏書(説教本)と見なされている。 この説は大いに当っていると私は思う。 『本朝話者系図』では『徒然草』が噺の本とみなされ、吉田兼好は話者の一人として加えられている。 長明も兼好も、どちらかといえば落語の系列よりも講釈の方の系統で考えた方が体系的には理解しやすい。 御伽衆・御伽の衆 『平家物語』『源平盛衰記』や『太平記』が琵琶法師や物語僧によって中世のころに口演されたことは説教の一つの変形として注目したい。 近世講談の源として軍談読みが登場したのは、決して忽然と生じたのではなく、旧来の説教(講釈)の変形と私は見たいのである。 説教の世界で伝承されてきた講釈の方法が変形を示していく例は、さまざまな形で見ることができるが、戦国時代にはその好例があった。 戦国大名をとりまく御伽衆・御咄の衆の中に僧形のものが多い。 御伽衆がいつごろから起こったものかは詳細を欠くが、戦国武将が御伽衆をかかえていたことは桑田忠親氏の『大名と御伽衆』に詳しく述べられている。 『醒睡笑』の記事によると室町時代には「同朋」と呼ばれるものがあった。 また前田利家の御伽衆の中に「物読み」というものがいて講釈を行ったことが『利家夜話』『村井重頼覚書』の中に見える。 この同朋や物読みの中には芸人や茶人もいたが、僧形で話をするものが多かった。 この同朋や物読みが先駆となって御伽衆や御咄の衆と呼ばれる人々ができたのは、ほぼ間違いないであろう。 同朋や物読みの人々が、多く僧形であったのは、話上手の姿として僧形がふさわしかったからであろう。 この伝統は近世後期まで続く。 宗教家でない僧形のものが多数、芸人(話芸者)として登場するのは講釈の世界において特に著しい。 これは、説教者が話上手のモデルとして常識になっていたからであろう。 講釈をもって渡世するためには、僧形でなければ商売にならなかったのである。 講釈には、むろん神道系・儒教系のものもあったが、本書では仏教系のものが重要であるので、その系統を主として考えたい。 戦国時代の御伽衆の中で特に有名な由己法眼は、八百人に及ぶ豊臣秀吉の御伽衆の中でも最もすぐれた人物の一人で、外典においては第一人者であり、『天正記』の著者としても知られている。 彼は高僧または学僧になる道をまともに進まず、御伽衆として「物読み」となり、講釈を通じて実社会を啓蒙するという生き方をしたのであった。 この由己法眼のような生き方をして御伽衆・御咄の衆に加わっていた僧は多数あり、いずれも講釈の進展を助けるような業績をのこした。 この物読み僧たちは、旧来の講釈(説教)の方法で弁じていたことが容易に想像できるが、それが次第に話芸としての読み口に変わっていったのは、やはり近世に入ってからのことであろう。 「太平記読み」というものは、物読みの系統から出るのだが、弁法は説教の一つとしての講釈の系を引くものであろう。 「太平記読み」も本来は啓蒙・教訓的な使命を帯びていたもので、決して娯楽中心のものとして発生したのではないと思われる。 一橋大学機関リポジトリで興味深い内容を見つけました。 lib. hit-u. lib. hit-u. lib. hit-u. pdf pdfは保存できるようです。 wind. htm 初代 若松辰太夫 わかまつたつたゆう 説経節の師匠。 説経節とは江戸時代から大正時代にかけて流行した、 三味線や人形などを使った語り芸能をいいいます。 明治のはじめ、? 説経節の名人? と言われた 漆原四郎次 うるしばらしろうじ がいました。 四郎次は、江戸時代後半の文政 ぶんせい 6年 1823)、 外田ヶ谷 そとたがや 村に生まれました。 5代目薩摩若太夫 さつまわかたゆう として活躍していた 板橋(東京都板橋区)の諏訪仙之助 すわせんのすけ を師匠とし、 「薩摩辰太夫 さつまたつたゆう 」と名乗りました。 姓を「若松 わかまつ 」に改め、「若松辰太夫」と名乗るようにしました。 彼の声は素晴らしく、物語の人物が目に浮かぶようであったといわれます。 のちに隠居した四郎次は 「日暮竜ト ひぐらしりゅうぼく 」と名乗り、 多くの弟子を育てました。 菩提寺の外田ヶ谷にある宝性寺 ほうしょうじ には 四郎次の供養塔が残っています。 そこには群馬・栃木・東京に及ぶ 約1,000名もの関係者の名が刻まれています。 明治28年 1895 10月20日、72歳で亡くなりました。 浪花亭駒吉 そうした芸(説経節)に魅力を感じた浪花亭駒吉 なにわていこまきち は、 外田ヶ谷に長く住み込んで、あの浪花節 関東節 を生み出しました。 説経節と絵解き 「絵解き」は、「視聴覚説経」とも言われるそうだ。 耳の聞こえない人たちに伝えるための役割も果たしていたんだそうだ。 「説経節のジグソーパズル??」って感じなのでしょうか? 「絵解き」について調べてたところ以下のページを見つけた。 osakanews. htm 一遍 旅に生きる 苦闘編 十、 高野山(2)「かるかや」 パズルの面白さ 一遍の足跡をたどっていると、行く先々で似たような伝説や説話に出合うのはなぜだろう。 ジグソーパズルを解くような面白さがある。 説経節「かるかや」で知られる苅萱(かるかや)道心と石童(いしどう)丸の物語など、その典型だろう。 物語の舞台は、福岡・太宰府、和歌山・高野山、長野・善光寺。 これまで見てきたように、すべて一遍ゆかりの土地なのだ。 こんな物語である。 九州6カ国の守護職、加藤左衛門尉繁氏(しげうじ)は、世の無常を悟り、妻子を残して高野山で剃髪する。 繁氏が出家当時、まだ母の胎内にいた石童丸は10数年後、「父に一目会いたい」と、 高野山を訪ね、母を麓の宿に残し、一人山へ登るのだった。 が、苅萱は「修行のさまたげになる」と、父親とは明かさず、石童丸は落胆して山を下りる。 宿へ帰ると、母は慣れぬ長旅の疲れなどで、わが子の名を呼びつつ息を引き取ったばかり。 故郷の福岡へ帰ると、3歳上の姉、千代鶴姫も亡くなっていた。 天涯孤独となった石童丸は、再び高野山へ。 「ぜひあなたのおそばで」とすがる石童丸に、苅萱は父とは名乗らないまま師弟の契りを結び、 高野山の「苅萱堂」で34年間の仏道修行。 やがて苅萱は「善光寺如来のお告げ」と善光寺へ旅立ち、大往生、石童丸も後を追って善光寺へ。 一刀三礼の地蔵尊を刻み、不断念仏で父の菩提を弔うのだった…。 苅萱は、一遍が若き日、修行をした福岡・太宰府の苅萱の関守だったという伝説があり、同市内には碑も残っている。 おまけに、繁氏出家の動機がおもしろい。 表向きは、正妻の桂御前、二の妻、千里御前と一緒に花見の折、 繁氏の杯に桜花のつぼみが一輪、音もなく落ちたのをみて、世の無常を知り、出家したことになっている。 が、これとは別に、二人の妻は、一見仲むつまじく見えるが、ある夕暮れ、双六遊びをしている二人の姿が障子に映った。 その影は、髪の毛を振り乱し、その先は蛇のごとくものすごい形相でケンカをしていた。 この妻妾の嫉妬心を垣間見た繁氏が、「自分の罪の深さを後悔した」のも出家の一因だった、とも説かれるのだ。 ナゾが多い一遍の出家の動機の中で、江戸時代初期に書かれた「九代北条記」は ある時、二人の女房、碁盤を枕となし、頭を指合せて寝たりければ、 女の髪、忽(たちま)ち小さき蛇になりて喰ひあひけるを見て… と書いている。 「かるかや」とまったく同じエピソードが出てくるのはなぜだろう。 この絵解きを20年前に復活させた長野市内の西光寺の住職夫人、竹澤繁子さん(62)は 「物語は、鎌倉時代の実話とされていますが、高野聖らが諸国を巡るうちに、 一遍さんのエピソードも物語に取り込んでいった可能性も、という大学の先生もいます」という。 そういえば、「かるかや」と双璧の説経節「小栗判官と照手姫」もゆかりがあって、 照手姫の墓は、時宗の総本山、神奈川・藤沢市の遊行寺(清浄光寺)の塔頭寺院にあるのだ。 説経節のジグソーパズル。 答えのカギは一遍が握っている? 大阪府和泉市にて下記のような講座がありますので、お知らせします。 zaq. 【受付方法】[電話][FAX][Eメール] 【講師】西岡陽子さん 大阪芸術大学芸術学部文芸学科教授。 日本民俗学専攻。 主著に『祭りのしつらい』(共編)思文閣出版2008年、「大坂におけるツクリモノの展開」(『大阪市立住まいのミュージアム研究紀要・館報1』、2003年等。 逵田良善(つじた・りょうぜん) [明治23年(1890年)〜昭和38年(1963年)]本名秀一。 十2歳のときに浪曲師・宮川安丸に弟子入り。 大正8年(1919年)に大病をし、浄土真宗の信仰にはいる。 大正十3年(1924年)に僧侶となり法名を良善とし、真宗宣伝の浪花節公演で各地をめぐる。 得意の演題は「小栗判官」「俊徳丸」「山椒大夫」「親鸞上人1代記」「法然上人1代記」。 膨大な日記や記録、公演台本を残し、それらの一部が『逵田良善日記』として刊行された。

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