フェルマー の 最終 定理 答え。 盲目の数学者オイラー

数学者・志村五郎さん亡くなる 「フェルマーの最終定理」解決の糸口

フェルマー の 最終 定理 答え

せやけど、それを書くには、 この余白は狭すぎる! こんな思わせぶりなメモを残し、 その証明方法を示さず死んでしまったフェルマー。 そのフェルマーの死後から、 100年あまりの時が過ぎた……。 だが、たくさんの数学者の努力にも関わらず、 それだけの時間が経過しても、 フェルマーの最終定理の証明方法を 見つけたものは、誰もいなかった。 しかし! 1700年代に入り、当時、最大最高の数学者であった オイラーが、 ついに、そのフェルマーの最終定理の突破口を開くことになる。 はっきり言っておくが、 オイラーは半端な数学者ではない! まさに、オイラーは 「 計算するために生まれてきた」 と言われるぐらい、天才的な数学の申し子だった。 「 人が息をするように、鳥が空を飛ぶように、オイラーは計算をする」 と評されるオイラーは、とにかく、計算が速く、長大な計算を暗算で 簡単にやってのけることができた。 しかも、彼は、 「 片手でゆりかごを揺らしながら、 もう一方の手で数学の論文を書いている」 と評されるほど、その天才的才能を一時も無駄にせず、 人生のすべてを数学に費やしたのだった。 その結果、彼が生涯で残した論文は、800以上もの数に達し、 それは未だ誰にも破られることのない数学史上の最高記録であり、 これらの論文が数学界に与えた貢献は計り知れない。 そんな数学的才能に満ち溢れ、あっというまに数学の証明を解いて、 次から次へと論文を書き続けるオイラーだが、 彼の本当に驚くべき才能は、その桁外れの「 集中力」にあった。 こんなエピソードがある。 オイラーが28歳のとき、 ある天文学の問題が、懸賞にかけられた。 その問題は、多くの数学者が 「何ヶ月もかけても、解けるかどうか…」 と尻込みするほどの難問だったのだが、 オイラーは、ぶっとおしで、その問題に取り組み続け、 ほんの3日ほどで、その問題を解決してしまったのだった。 だが、オイラーは、不眠不休で数学をやり続けた結果、 その代償として、 片目を失うことになる。 しかし、数学のやりすぎで、目まで潰してしまったにもかかわらず、 「 おかげで気が散らなくなった。 前より数学の研究に打ち込める」 とさえ述べている。 こうして、その身すら いとわない驚くべき集中力で、 次から次へと数学の論文を大量生産していくオイラーだが、 60歳になったとき、ついに、 もう一方の目も潰れてしまうことになる。 だが、たとえ盲目になっても、オイラーの数学は止まらなかった。 とっくに、引退してもおかしくない高齢にもかかわらず、 オイラーは、目が見えなくても、数学ができるように、 文字を書く特訓すら始めたのだった。 結局、目が見えなくなってからのオイラーの数学は、 むしろ、目が見えたときよりも、 「 より独創的で生産的になった」と言われるほどにまで、 高みへと上っていくのである。 たとえば、現代のコンピュータでよくやるアルゴリズム的な計算方法は、 オイラーが目が見えなくなってから考え出されたものだ。 オイラーが発明した計算方法をつかえば、 とても解けそうもない複雑な方程式があったとしても、 「 まず、テキトーに大雑把な答えを見つける。 次に、その答えを使って、もう少し精度の良い答えを導き出す。 そして、さらにその答えを使って、もっと精度の良い答えを…」 というのを100回ほど繰り返して、ある問題の近似解を見つける、 という、当時としては奇跡的なまでに画期的な方法を考え出している。 (そして、その計算をオイラーは目がみえないまま、 パッとやってしまうのだった) オイラーの時代には、すでに数学は、科学の道具として使われており、 船の設計から運行まで、数学に基づいて行われていた。 したがって、「 厳密な答え」ではないが、 「 実用的には十分使える精度の答え」 が出せるオイラーの計算方法は、当時の人々の生活にとって、 本当に価値のあるものだった。 そして、70歳を越えて、ついにオイラーも死を迎える。 だが、その死の当日すら、数学の研究に没頭していたという…。 後世の人は、オイラーの死をこう表現している。 「 その瞬間、オイラーは、生きることと、計算することをやめたのだ」 そんな人生のすべてを数学に費やした天才数学者オイラーが、 フェルマーの最終定理の証明に挑み、最初の突破口を開いた。 そもそも、フェルマー最終定理は、 X 3+Y 3=Z 3 X 4+Y 4=Z 4 X 5+Y 5=Z 5 … という無限に続く方程式について、 「 解がない」ということを述べているわけだが、 これについて、オイラーは、 「 まず、そのうちの、ひとつの方程式について、解がないことを証明し、 それが別の方程式についても成り立つことを証明する」 という戦略で解決しようと考えていた。 つまり、「 X 4+Y 4=Z 4を満たす自然数 X、Y、Zは存在しない」 という証明のヒントを残していたのだ。 さてさて。 すべての整数は、素数の倍数で表現できる。 (素数とは、5 , 7 , 11 など、1 と自分自身でしか割り切れない数だ) どんな数だろうと、必ず素数の掛け算で表現することができる。 と、ここまでフェルマーの最終定理を追い詰めることに、 成功したオイラーだったが、 さすがの天才もここで証明を断念し、 フェルマーの最終定理に膝を屈するのだった。 さらなる進展は、次なる数学者の登場を待つことになる。 それまでフェルマーの最終定理は静かに眠り続ける…。

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フェルマーの最終定理の証明-オイラーの証明-

フェルマー の 最終 定理 答え

nが2の場合はピタゴラス数であり、XYZの組み合わせは大量にある。 ところが3以上のnの場合となると、XYZの組み合わせはまったくない。 これは一般的に、『フェルマーの最終定理』とか、『フェルマーの大定理』と呼ばれている、あるいは呼ばれていたものである。 今は『ワイルズの定理』と呼ばれる場合もある。 その問題の言わんとしていることは簡単に理解できるが、しかしそれを証明することは非常に難しいということで、非常によく知られている。 そしてこの定理の何が問題だったかと言うと、長らく真であるかどうかが証明されていなかったことである。 この定理は、ワイルズという人によって真だったと証明される約350年前に、フェルマーという人が本の余白に書き、「これに関する素晴らしい証明を見つけたが、書くスペースが足りないために書かない」と書いたもの。 「この定理に関しては興味がない。 なぜならこのような本当か嘘かわからないような定理らしきものなんて、その気になればいくらでも考えだせるものだからだ」とは、かのガウスの言葉である。 しかしこの本当か嘘かもわからない、半分インチキみたいな定理が、多くの人をひきつけ、人生の貴重な時間を奪い、そしてまた様々な数学の発展に役立ったことは、一つの事実である。 フェルマーの最終定理の証明 数学少年の挑戦 フェルマーの最終定理を証明したその人であるアンドリュー・ワイルズがこの問題に出会ったのは、1963年頃くらいのこととされている。 当時10歳くらいだった彼は、イギリス、ケンブリッジのミルトン通りの図書館で、「最後の問題」という本を読んだ。 数学少年だった彼は、「(当時はまだ証明されてなかったため、最終予想とも呼ばれていた)フェルマーの最終定理」という問題を知って、「こんな簡単そうな問題が今まで誰にも解けなかったなんて信じられない。 これなら自分でも解けるかもしれない」と本気で考えたという。 ただこのことに関して、彼が無謀だったのかどうかと言うと、微妙なところだと思う。 実際、フェルマーの最終定理は、内容だけは簡単に理解できる。 長く未解決だったり、知られてなかった問題の証明が、意外と幼稚だったり、簡単なものだったという話は時々ある。 歴史上の偉人たちみんな、何か簡単な見落としをしていたのかもしれない。 それなら、その簡単な何かさえ見落とさなければいいだけ。 数学界のパンドラの箱 もちろん少年時代の彼にこの問題は解けなかった。 しかしこの問題をいつか解こうという気持ちは、彼の夢になった。 しかし皮肉なことに、彼はケンブリッジ大学で、数学に関して非常に優秀な学生であったために、指導教官は彼に、少年時代の夢を捨てるよう説得した。 20世紀においてフェルマーの最終定理という問題は、数学という学問の領域における、究極のパンドラの箱だった。 これまで幾多の、才能ある若き数学者たちが、それに生涯を捧げ、無駄にしてきたのだ。 指導教官の説得も当然であり、ワイルズもその時は納得した。 そして彼はフェルマーの最終定理とはおそらくあまり関係もないと考えられていた『楕円曲線(elliptic curve)』や『岩澤理論』という分野を研究することになった。 しかし彼はずっと、「でもいつか」とは考え続けていた。 谷山・志村予想 それは1986年のこと。 ワイルズは友人から、「『谷山・志村予想』が正しいなら、フェルマーの予想も正しいということを、リベットという人が証明したそうだ」と聞いた。 彼が、少年時代の夢を再び、心の中で燃え上がらせたのは、その瞬間だったとされている。 谷山・志村予想は「全ての楕円曲線は『モジュラー形式』である」という予想で、ごく簡単に言うと、楕円曲線とモジュラーは、同じ数学であっても全く別ジャンルのものと考えられていた。 だからこの予想が正しいのかどうかはともかくとして、とんでもない予想であったことは間違いない。 実は地球と火星は同じ星だったと言ってるようなものだ。 そんなだから、この予想が発表された20世紀中頃くらいにおいて、最初は名だたる数学者の多くが、そんな予想はまったくバカバカしいと切り捨てたほどであった。 しかし1986年にはそんな状況は変わっていた。 谷山・志村予想は数学者の間で、それが正しくないのなら数学は何かおかしい、と言われるくらいに重要な予想とされていた。 ただしこの予想は、正しいことはほぼ間違いないとされながら、証明するのが非常に難しく、21世紀中にはなんとかというようなレベルのものであった。 再び挑戦の時 ワイルズ(そしてフェルマーの最終定理に取り憑かれた全ての人)にとって、谷山・志村予想が正しいならフェルマー予想も正しいというのは、非常に重要な事実であった。 それはつまり、フェルマー予想はほぼ確実に正しいということだ。 また、谷山・志村予想は、楕円曲線と関わりのある領域である。 ワイルズが、フェルマー予想への夢を捨てて、ずっと取り組んできた理論である。 ワイルズとしては、「さあ、お膳立てはしてやった」と神に言われたような気分だったろう。 挑戦の時が来たのだった。 7年間の戦い しかしながら過酷な戦いだった。 なにせ谷山・志村予想がフェルマー予想の証明に繋がるものであるのならば、逆に言えば300年以上誰も解けなかったらフェルマー予想と同じくらいに、谷山・志村予想を証明することは難しいと考えられる。 ワイルズはさらに、 驚くべき背水の陣で戦いにのぞんだ。 つまり彼は、自分がフェルマー予想に取り組みだしたことを、周囲の人に内緒にした。 彼は7年間ひっそりと研究を続けた。 その過程でいくつも目覚しい発見をしたが、そのどれも発表しなかった。 しかし論文をあまり書かなくなり、学会やシンポジウム(討論会)などにもあまり出席しなくなったことから、いろいろな噂が囁かれた。 「優れた彼の才能は枯れてしまった」という人までいたとされる。 ワイルズは、気にしなくはなかっただろうが、我慢した。 不安もあった。 まさしく、噂で聞くようなこと、貴重な人生を無駄にしてしまうかもしれないという不安が。 もう少しで証明できそうなんだ 7年目になって、証明はほぼ完成したかに思えた。 しかしただひとつだけ不安が残っていた。 それはワイルズが、自分にとっては専門外である、『数論幾何学(Arithmetic geometry)』を利用していたこと。 彼はここにきて初めて、数論幾何学に詳しい同僚のカッツに、自分の密かな研究を打ち明けた。 「谷山・志村予想が証明できそうなんだ」と告げられた時、カッツはもちろん仰天した。 ワイルズは初めてその証明を他人に聞かせた。 そしてそれを聞いた唯一の人カッツは、それは正しいだろうと判断した。 これで終わりにしたいと思います 1993年6月23日。 ケンブリッジ大学で行われた研究集会で、ワイルズは一時間ごとの講義を三日間に分けて組んでいた。 題目は「モジュラー形式、楕円曲線、ガロア表現」。 二日目が終わった時点で、すでに参加者の間の話題は、「 これはもしかしたらそうではないのか」というもので持ちきりだった。 モジュラー形式、楕円曲線、そしてワイルズほどの数学者が7年間も捧げた研究。 数学者でなくても、「もしかしたら」と思ったのではないだろうか。 三日目の講演会場の聴衆席は満員で、入りきれない人が外から覗き込んできているという状態だった。 もしもそうなら、それは永遠に語り継がれるであろう、歴史上の偉大な瞬間が、その時に起こるということである。 人々の注目は当然のことだった。 講演も終わりごろ、 いつのまに用意したのか、研究所長がぶっぱなすためのシャンペンを取り出す。 ワイルズは、谷山・志村予想の証明を終えてから、フェルマーの予想を定理として書いて、言った。 「ここで終わりにしたいと思います」 大喝采が起こった。 たった一箇所の誤り もっともフェルマーの最終定理というのは、毎日のように誰かに証明されている(と勘違いされている)ような問題であるから、いくら大学者の発表でも、すぐに信じるというわけにもいかない。 ワイルズは、200ページを超える論文として改めてそれを発表し、六つに分けられた章のひとつひとつに、一流の数学者が審査員としてついた。 しかし一流の人たちにもあまりにも難解な内容であるため、審査員たちも疑問を持った部分を、ワイルズに直接電子メールなどで聞いたようだ。 そして、ただ一箇所だけ、部分的な誤りに関しての質問に、ワイルズはすぐ答えられなかった。 最後の戦い 誤りはたった一つ。 なんとか修正しようとワイルズは、死に物狂いで頑張った。 一方で世間では、極秘にされていたにもかかわらず、証明に重要な誤りが見つかってしまったという噂が流れだした。 同僚の勧めで、彼はとりあえず「証明にやや欠陥があったが、すぐに修復できると思う」と公表。 この時点で多くの人がもう期待を失っていた。 彼はまた、ここではじめて援軍を要請する。 六人の審査員の一人かつ、問題の部分の分野に精通しているリチャード・テイラーである。 何より彼はワイルズのかつての教え子で、ワイルズは誰より彼の才能を知っていた。 それでもなかなか修復は上手くいかなかった。 ワイルズの最大のライバルとも言われていた数論の大学者ファルティングスは、「ワイルズほどの数学者がこれほど手間取っているということは、それはつまり修復は不可能ということなのだろう」と述べたという。 岩澤理論 最初の発表から1年が経った頃。 ワイルズもいよいよ弱音を吐くようになっていたが、テイラーは「 もう少しだけ頑張りましょうよ」と励ました。 そして1994年9月19日のことだった。 欠陥のあった『コリヴァギン・フラッハ法』というのを利用した章に関して、せめてもと「なぜうまくいかなかったのか」を調べていた時。 ワイルズは突如閃く。 「これは、コリヴァギン・フラッハ法だけでは駄目だが、岩澤理論と合わせたらうまくいくのではないか」 今度こそ証明できた 「あんな瞬間は、私の生涯で、後にも先にも絶対に二度となかった」 後にワイルズはそう語った。 実は、同僚の数学者たちにも、自分の研究を一切秘密にしていた彼も、家族にだけは全てを打ち明けていた。 もちろん数学者ではないし、直接的な力にはなれなくても、家族は彼の支えだった。 その瞬間の翌朝。 自宅の書斎から出て、階段を降りてきた彼は、居間にいた妻に告げた。 「今度こそできたと思う」 それからすぐ、二つの論文が専門雑誌に投稿された。 「モジュラー楕円曲線とフェルマーの最終定理」。 それに上記の論文の一部に関する「ある種のヘッケ環の理論的性質」。 後者は、テイラーとの共同論文であった。 そして1995年。 論文は審査を見事クリアし、フェルマー予想は、完全にフェルマーの定理となった。 大数学者たちの戦闘記録 フェルマー。 最後の宿題 ピエール・ド・フェルマー(1607~1665)は、本業は数学者ではなく法律家で、一般的に言えばアマチュアであった。 しかし彼はアマチュアでありながら大数学者であり、いくつもの興味深い研究に着手した。 彼は古代ギリシアの数学書を読みあさっては、余白に次々と、考えついた定理を書き出していた。 いわゆるフェルマーの最終定理は、その大量の定理の中で、証明も否定もされなかった最後のものである。 オイラー。 nが4の場合、nが3の場合 歴史上、もっとも偉大な数学者であるレオンハルト・オイラー(1707~1783)はフェルマーの定理の一つを潰した人でもある。 そのオイラーは、nが4の場合とnが3の場合の、フェルマー予想を証明。 オイラーの証明は、nが倍数の場合でも成り立つので、これで実質的にすべての偶数の場合は、消え去ったとされている。 もっとも、だからどうしたというレベルではあるが。 ガウス。 複素平面と解析関数 オイラーと並び称されるほどの大数学者であるヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(1777~1855)は、「ぜひヘルマー予想の証明に挑戦してくれ」という友人の手紙に対し、「興味がない」と返事していることでも有名である。 しかし、その証明が難しすぎて自分の手にすら余ると考えていた とかでなく、本当に興味がないだけだったというのは、妙ではないかとも言われる。 フェルマーの最終定理は、数論という領域における、おそらくは最高レベルの問題である。 そして、「数論こそ数学の女王」とは、まさしくガウスの言葉である。 実際に彼は、オイラーの「nが3の場合の証明」の誤りを一部修正したりしているという。 そのガウスだが、『複素平面(Complex plane)』というものを考えだして、『虚数(Imaginary number)』をちゃんとした数として定義した功績も有名である。 さらにガウスは、複素平面上に現れる『解析関数(Analytic function)』と呼ばれるものに注目し、それが実に巧妙な計算法として使えることを見いだした。 ただし、他の数多くの彼の功績と同様、彼はそれを発見しながら 秘密にしていたために、 その仕事に関する名誉の多くが、基本的には他の数学者たちに与えられることとなった。 モジュラー形式は、ある種の解析関数のことであり、それがフェルマー予想の証明の重要なキーワードになったことを、ガウスが聞いたらきっと驚いたろう。 ソフィー・ジェルマン。 nが100以下のたいていの場合 18世紀という時代は、女性の知識人に対して、まだまだ偏見が強い時代であった。 一時期ガウスの文通相手でもあったソフィー・ジェルマン(1776~1831)は、ルブランなる男の名を語ってはいたが、実は女性だったということをガウスに知られた時、「真の天才は境遇をものともしない」というような称賛を受けたエピソードがよく知られている。 彼女は、フェルマー予想という問題において、19世紀以前の人では、オイラーと同等か、それ以上くらいに重要な人物としてよく語られる。 ジェルマンは、ヘルマー予想を二つのパターンに分けた。 nを奇数かつ素数として、XYZの積がnで割りきれるパターン1と、割りきれないパターン2である。 彼女は、nが100以下かつパターン1の場合の一般的証明を果たすことに成功する。 ガブリエル・ラメ。 幻の一般的証明 ガブリエル・ラメ(1795~1870)は、1847年に、 フェルマーの最終定理について、ついに一般的証明を得たと、高らかに宣言した。 彼自身は、これはジョゼフ・リウヴィル(1809~1882)から聞いた方法を使っていると、謙虚に述べた。 そのリウヴィルは、ラメは勘違いをしていて、自分の方法ではフェルマー予想を証明できないということを、しっかりと説明した。 クンマー。 理想数と、ある無限個の数の場合 ラメは勘違いしていたが、因数の積に分解するというアイデアは、実はけっこう有効であったということが、すぐに判明する。 エルンスト・エドゥアルト・クンマー(1810~1893)はかなり広範囲の数学の問題に取り組んだ人であり、当然のように、フェルマー予想に躍起だった。 クンマーは、言うなれば仮想的な(そして都合よい)因数の集合である「理想数」というものを考えだして、利用した。 理想数は、後にデデキントなどが整理して、「イデアル」と呼ばれるようになり、かなり幅広く使われるようになっていく。 クンマーは理想数を使って、『正則素数(regular prime)』と呼ばれる素数の場合においての、フェルマー予想の一般証明を与えた。 正則素数も無限個の数とされている。 これはつまり、奇数の場合のみ証明すればいいと言われるようになって以来初めての、無限個の数の場合のフェルマー予想の一般証明だった また、理想数から誕生したイデアルという理論は、ワイルズにも 大きな影響を与えたとされている。 ポアンカレ。 保型形式、モジュラー形式 アンリ・ポアンカレ(1854~1912)は、数学、物理学、天文学の分野で数多くの業績を残している。 トポロジーという幾何学の一分野は、すでにその基本はオイラーが考察していたが、ポアンカレの研究があまりにも重要なために、実質的に彼が開拓した領域とも言われている。 曲面や連続関数に関連する分野であるトポロジーは、フェルマー予想の証明においても、重要であったとされる。 そしてトポロジーよりもより重要なのが、もちろんモジュラー形式であった。 ポアンカレはサイン、コサインのような周期関数を、複素平面上において考えた。 そして対称性を持つ、つまり特定の変換に対して不変な関数のパターンを見つけ、そのパターンを『保型形式(automorphic form)』と名付けた。 ポアンカレは最初その保型形式を不可解に思い、それが実は存在しないということを証明しようとして、見事失敗した。 それならこの奇妙な関数は存在するということになるが、それならそれで面白いので、彼はその関数をさらに研究して拡張し、現れた関数群をモジュラー形式と呼ぶことにしたのだった。 楕円曲線はモジュラーか 楕円曲線は、『楕円関数(Elliptic function)』の研究から生まれたもの、あるいは特に有効的に利用されたものとされている。 楕円関数は、楕円の周囲の長さを計算するために生まれた、『楕円積分(Elliptic integral)』に関連するものとして研究が始まったからという理由だけで、楕円関数と呼ばれている。 そして楕円曲線は、楕円関数からきているであろう名称である。 ようするに楕円曲線というのは、楕円とは何の関係もない概念である。 楕円曲線は普通、 変数2個の多項式である。 つまり見た目は、ごく単純な四則演算の方程式である。 いつ頃からか、正確には不明なのだが、しかしある種の楕円曲線がモジュラー形式に変換可能であることは、数論の専門家の間では、よく知られる事実となっていた。 こうなってくると、もしかしたらすべての楕円曲線がモジュラーなのではないか、と考えたくなるものだろう。 しかし前述したように、かつて、数学をよく知る者からしてみたら、それはバカバカしく愚かな考えだった。 地球上の全数学者たちの中で、 谷山豊 ( たにやまとよ )(1927~1958)だけは、それが実はバカバカしくなんてないのではないかと気づき、その考えを 志村五郎 ( しむらごろう )(1930~2019)だけは笑わなかった。 そんなふうに言われることもある。 谷山豊の予想 1955年に谷山と志村は、数学者の国際会議に参加した。 国際会議は、日本人側からしてみたら、当時まだ日本で盛んでなかった数学という分野において、より進んだ外国人の研究者達と意見を交換できる場として期待できた。 一方で外国人側の方も、基本的に日本語でばかり書かれた日本の研究の成果が世界に広まっていないために、その成果を知る機会ということで期待されていた。 そして日本側からだされた報告書の内、問題11と12と13と29が谷山の提出であった。 それはポアンカレの保型形式と、楕円曲線のゼータ関数を繋げようとしているような予想だったという。 しかし妙である。 楕円曲線が、複素平面上の特殊な関数と、いったいどのような関係にあるというのか。 この時、はっきりと形式化もされていなかった谷山の予想から、アンドレ・ヴァイユ(1906~1998)はある可能性に気づき、質問したとされる。 「君はモジュラー形式が、全て楕円曲線に変換できると思うのかね?」 谷山は、「モジュラーだけでは不十分だと思います。 個人的には他に特別な保型形式が必要になるだろうと考えています」 (注釈)アンドレ・ヴァイユ ヴァイユは、「確かにモジュラー中には楕円曲線に変換できるものもたくさんあると思うんだけど、それが全ての楕円関数ともなると、まったくおかしな話になると思うよ」というふうに、谷山に告げたという記録がある。 当時、ヴァイユはすでに世界的に名の知れた数学者であるが、谷山の予想をまともに信じていなかったのは明らかなことである。 にもかかわらず、谷山・志村予想は、谷山・志村・ヴァイユ予想(ひどい場合はヴァイユ・谷山予想)と呼ばれることもあるという事実こそ、まったくおかしな話である。 一応ヴァイユは、欧米にこの予想を紹介した人とされている。 ただ、予想そのものにはこの人は何の貢献もしていない。 驚くべきは、ヴァイユの友人のセールとかいう人などは、その予想をヴァイユが谷山に教えたように捏造して、しかもその話が欧米ではけっこう広まってしまったらしいことだろう。 ただし、さすがに捏造のしすぎか、おかしいと考えたサージ・ラングという人が真実を調べて、知り合いの数学者50人ほどにその調査結果を送ったそうである。 彼は志村とヴァイユそれぞれに真実を確認したが、志村は、 その予想がほとんど誰でも信じられていなかった頃からずっとそれに関する研究をしていたことを話し、その証拠をいくつもあげた。 しかしヴァイユは、 沈黙の後に、情けない言い訳のお手紙をよこしただけだったという。 志村五郎。 予想の定式化 谷山が若くして自ら命を絶ったというのは、衝撃的な話である。 31歳の誕生日から数日後のことだという。 志村が友人であった谷山の意思を継いだという展開は、実にドラマチックであるが、実際には、彼の興味はもともと谷山と同じだった節もあるようである。 しかしとにかく、志村は世界中の偉い数学者たちに無視されたまま死んでしまった友の無念を晴らすようにゼータ関数や楕円曲線の研究を続け、ついには、谷山の示した予想を、より洗練された形で形式化した。 つまり「全ての楕円曲線はモジュラーである」という予想である。 そして、証拠が増えてくるたびに、谷山・志村予想は、非常に重要な予想とされるようになった。 フライとリベット。 モジュラーでない楕円曲線が発生する時 ゲルハルト・フライもまた、楕円曲線とモジュラーの関係に重要性を感じていた一人だった。 そして、志村・谷山予想と、フェルマーの最終定理を関連付けたのは彼と、彼の予想を証明したケン・リベットだった。 フェルマーの最終定理が真でないとする。 それはつまり、3以上のnについて、XYZの整数の組み合わせが存在するということ。 しかし、だとすると、その整数の一組は、ある特殊な楕円曲線を生むということをフライは示した。 その特殊な楕円曲線は本当に奇妙で異質なものとされているが、最も重要なのがモジュラーではないということである。 これは明らかに、フェルマーの最終定理が間違っている場合は、モジュラーでない楕円曲線があるということを意味している。 つまり志村・谷山予想が間違っていることを。 フライの考えを明確にしたリベットは、自信を持って告げた。 「ようするに志村・谷山予想が正しいなら、フェルマーの最終定理も正しい」 そしてその志村・谷山予想を、ワイルズが証明したというわけであった。

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「フェルマーの最終定理」最もわかりやすく難解な問題はいかに証明されたか

フェルマー の 最終 定理 答え

2019年5月5日 日本人数学者で、プリンストン大学名誉教授を務めていた、志村五郎さんが、5月3日に亡くなっていたことがわかりました。 89歳でした。 今回は、志村教授が亡くなったことに哀悼の意を表するとともに、「谷山・志村予想」がどのように「フェルマーの最終定理」の証明に役立ったのかを、わかりやすく解説します。 Contents• 「フェルマーの最終定理」とは フェルマーの最終定理とは、以下のようなものです。 (証明されていない主張は、通常「予想」と呼ばれますが、ここでは「最終定理」で統一します。 ) 普通、数学の難問と呼ばれるものは、問題自体が何を意図しているのかわからなかったり、専門知識がないと理解できないものです。 しかし、フェルマーの最終定理は中学生でも理解可能なほど、シンプルです。 ところが、nが3以上となると、この不等式を満たす自然数の組 x, y, z が一つも存在しなくなる。 これが、フェルマーの最終定理が主張することです。 「算術」の中でフェルマーが予想 「余白が足らない」 この「フェルマーの最終定理」、その名が示す通り、数学者の「フェルマー」が提唱した予想です。 古代の数学書「算術」の中で、フェルマーはこの予想を提唱し、次のように記したことはとても有名です。 私はこの定理の真に驚くべき証明を見つけたが、それを記すのには余白があまりにも狭すぎる。 その時代は17世紀に上ります。 今から300年以上前に残された予想は、数々の数学者が証明に挑戦するも、解決には至りませんでした。 数学史上、最大の難問と言っても過言ではないのです。 「谷山・志村予想」とは 一方で、日本人数学者の谷山豊と志村五郎が発表した「谷山・志村予想」とは、次のような予想です。 すべての楕円曲線は、モジュラーである ここで、疑問です。 楕円曲線と呼ばれる関数を特徴づけられる重要な予想として、1955年に発表され、後々この予想が、フェルマーの最終定理を解決に導く糸口となったのです。 「フェルマーの最終定理」と「谷山・志村予想」 さて、ここまで難しい話を続けてきましたが、もう少しの辛抱を。 フェルマーの最終定理に出てくる式を変形すると、 何やら異様な楕円曲線が生まれると発見したのが、フライという人物でした。 1984年のことです。 フェルマーの最終定理の式を変形すると、 モジュラーでない楕円曲線が生まれる(フライ曲線) そして、このことが「フェルマーの最終定理」の証明を突き進める大きな手掛かりとなったのです。 ワイルズ フェルマーの最終定理を解決するまで 上記の内容を簡単に振り返りましょう。 「フェルマーの最終定理」とは何か?• 「谷山・志村予想」とはどんな予想?• 異様な楕円曲線「フライ曲線」 ここまでの内容に加え、「フェルマーの最終定理」を解決するために、 「背理法」という証明方法がキーワードとなります。 「背理法」とは… 証明したい「命題」を一度 否定し、証明を進めていくと、途中で大きな矛盾が出てくる。 矛盾が出てくる原因は、「命題」を否定したことによる。 よって、もとの「命題」は正しい、と結論付ける証明法。 実は、 谷山・志村予想が正しいならば、以下のように「フェルマーの最終定理」が正しいことを、「背理法」で証明可能になります:• フェルマーの最終定理が間違っていると 仮定する。 フェルマーの最終定理の式を満たす自然数 x, y, z が存在することになる。 すると、モジュラーでない楕円曲線「フライ曲線」ができる。 谷山・志村予想の、 「すべての楕円曲線はモジュラーである」に矛盾する• よって、元の主張が正しい。 つまり、フェルマーの最終定理は正しい。 ということは、 「谷山・志村予想」が正しいことを証明できさえすれば、フェルマーの最終定理も正しいことがほぼ証明されることになるのです。 イギリスのワイルズによって、この「谷山・志村予想」が解決され、そして「フェルマーの最終定理」も証明されることになりました。 1995年のことです。 まとめ 今回の記事は難しかったですね。 簡単にまとめると、こうです。 フェルマーの最終定理は、理解はできるが証明が困難な超難問• 谷山・志村予想はフェルマーの最終定理を解決する糸口となる• 300年以上ののち、ワイルズが見事証明 フェルマーの最終定理をめぐる物語は、非常に奥深く、そして感動的です。 数学にそれほど詳しくなかったとしても、この物語は楽しく読むことができます。 以下の書籍は有名な1冊です。 その入り口を、非常にわかりやすく、物語のような形で紹介している以下の書籍も、読みごたえがあります。

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