大塚 アナウンサ。 【2019最新】めざましテレビ大塚範一さんの今現在と病状は?『目が見えにくくなって来た』と語る姪の証言!

大塚範一

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自然体でいることが信条ということで、かざらない姿勢が視聴者の共感を生んでいると言われています。 岩井さんは大塚さんと同じ早稲田へ進み、坪井さんは東大へ。 この二人は優秀で、大塚さんは落ちこぼれだったと2013年に著書の中で明かしています。 池上彰さんと同期です。 高校野球夏の甲子園の実況などやっていました。 1994年にNHKを辞め、フリーに。 フリーとなって初年にフジテレビ「めざましテレビ」のメインキャスターとなっています。 大塚範一アナ|現在の白血病の病状は?徹子の部屋での画像も 大塚範一アナの病気は急性リンパ性白血病です。 現在の病状は安定しており、寛解していると言われています。 寛解というのは完治しているような状態ではあるものの、病気の性質からしていつ再発するか不明な場合に使われる言葉だそうです。 状態はかなり良いみたいですね。 2014年に「徹子の部屋」に出演した際には治療の影響か、かなり太った印象でした。 現在はどうなんでしょうか。 大塚アナは2016年に番組出演した以降はテレビに出ていません。 ブログも2016年の末までは更新していましたが、2017年以降は更新していませんね。 ちょっと新アピですが、2020年の復帰に向けて万全を期するよう対策しているという噂があります。 大塚範一アナ|復帰時期や番組と血液型が変わった理由は? 大塚範一アナは2012年フジ「めざましテレビ」復帰に向けて具体的な動きがありました。 しかし体調を考慮して断念。 2013年にフジテレビ「アゲるテレビ」のメインキャスターとして復帰が決定しましたが、復帰直前になって白血病が再発してしまいキャンセルに。 再び本格的な闘病生活に戻りました。 2013年の10月に電話出演した「めざましテレビ」の特番で、臍帯血手術を受けたことを告白。 ドナーとなった女性の血液型がA型だったことから、元々B型だったのがA型に変わったとコメントしました。 2020年現在は白血病の病状は安定していて、本人は東京オリンピック関連番組への出演を希望していたそうですから、一年延期となり可能性が出てきましたね。 大塚さんはNHK時代にオリンピックの中継キャスターが出来なかったことが退職の理由の一つとしており、オリンピック関連の仕事への執着があります。 それが闘病を支えるエネルギーとなっているとも言われていますね。 ぜひ復帰してオリンピック中継を果たしてほしいです。 大塚範一アナ|独身なの?姉や妻等の家族を調査 大塚範一アナウンサーは独身です。 一度も結婚したことはなく、これまでずっと一人でした。 家族は姉が3人もいます。 姉たちの顔画像は探しましたが見つかりません。 一般人のようですし、高齢のため当然ですね。 大塚さん本人も71歳ですし、 2歳ずつ離れているとすると長女は6歳上です。 母親の大塚千枝さんが2012年2月に98歳で亡くなっています。 お母様が亡くなった際に闘病中だった大塚さんは無菌室に入信していましたが、関係者から母死去の一報を受けると、声もなくむせび泣いたんだとか。 自身は結婚しておらず奥さんや子供がいないということで、親の死というのが妻子のいる人よりも辛いと言われていますし可哀想でしたね。 ということでまとめると、大塚範一アナの家族は姉が3人ということです。 大塚範一と小林麻央の関係は? 小林麻央さんは2003年10〜2006年9月まで、フジテレビ「めざましどようび」のお天気お姉さんとして活躍しました。 2003年当時はまだ女子大生だったそうです。 その時姉妹番組の「めざましテレビ」でメインキャスターをしていたのが大塚範一アナでした。 普段からお世話になっていた大塚アナに対して、市川海老蔵さんとの結婚が決まったことを電話で報告したそうです。 小林麻央さんの結婚について大塚さんは「真央を嫁に出す気分」とコメントしており、自分の娘のように感じていたことを明かしました。 大塚さん事態は結婚していませんから当然子供はいません。 ですが、自分を親のように慕ってくれる麻央さんに「父性」を感じていたんでしょう。 そんな小林麻央さんも乳がんのために2017年6月22日に亡くなっています。 小林麻央さん死去を受けての大塚範一アナのコメントは得られていませんが、我が子を亡くした気持ちに近いものがあったのではないでしょうか。 大塚範一「耐えて、咲く」はどんな本? 大塚範一さんは闘病中の2013年に「耐えて、咲く」という本を出しています。 原因不明・予防不可能な白血病との戦いの中で、頑張ることに執着せず、全てを受け入れて耐えるのみという境地にたどり着いたプロセスの全てを語っています。 同じ病気に苦しむ人の勇気になる一冊。 原因不明といわれていますが、一部では以下のように考える人もいるようです。 大塚範一アナは福島に2011年に行っていた? 2011年3月11に発生した東日本大震災の津波の影響で、制御不能となり水素爆発を起こした福島第一原発。 大塚範一さんは2011年3月15日に福島県に行っていたようです。 自身がメインキャスターを務めていた「めざましテレビ」では、安全性をアピールするため自ら福島県産の野菜を食べるパフォーマンスをしていました。 フジテレビの方針で風評被害に苦しむ福島の生産者さんを救うためのキャンペーンだったようですが、本来は国が買い上げて保証金を給付すべきだったと言われています。 あのような状況で東北入していたとは今思えばかなり危険だったと思ってしまいますが・・・ 病気との直接的な原因が何かは特定出来ないとはいえ、見逃せない事実のように思えます。 以上、今回は大塚範一アナウンサーの現在の病状を中心に経歴や家族等を紹介しました。 2020年の東京オリンピック、日本人の若い選手たちに注目が集まりますが、大塚さんの復帰がどうなるのか非常に気になります。 今後も何か情報が入り次第追記してお伝えして行きますね。 最後まで見ていただきありがとうございました。 次の記事もお楽しみに。 では!.

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山田 純(南25期) 澤村和雄さん(2020年1月) 澤村和雄さんの誕生は、1927年(昭和2年)5月2日です。 現在92歳。 札幌一中49期D組、私たちの大先輩です。 澤村先輩の数奇な生涯を紹介します。 お母様の実家のある名古屋で生まれ、逗子から札幌へお父様の転勤(東電から拓銀)に伴い、転居されました。 師範学校附属小学校(現教育大学附属小学校)から、1941年(昭和15年)札幌第一中学校に入学しました。 小学校からの同級生に太黒貴さん(フランス語教師、太黒マチルドさんの息子)がいました。 一中卒業後は東京の大東文化学院(現在の大東文化大学)で学び、卒業後札幌に戻り、北星女学校中等部で6年間、国語の教員を務めました。 戦前から戦後、一中国語教師で教頭も務めた横田庄八先生(南1期・横田 滋さんのお父様)は大東文化学院の卒業生でした。 1954年HBC北海道放送(北海道最初の民放、全国的にも7番目の民放)の採用試験を受け、幼少のころからあこがれていたアナウンサになりました。 1933年7歳の時に、NHKラジオ(札幌開局5周年記念番組)で本の朗読をしています。 1951年開局のHBC北海道放送では最古参のアナウンサのひとりです。 澤村さんが入社したころのHBCアナウンサは男女あわせても数名でした。 HBC時代はインタビューアナウンサや報道記者として、活躍されました。 本社札幌だけでなく、釧路や旭川、小樽の地方局でもアナウンサや記者をされ、1984年にHBCを定年退職されました。 住居のある小樽で、井上内科病院のお手伝いを何年か務めました。 もう時効ですが、免許もないのにレントゲン技師として70代まで勤務しました。 小樽に居をかまえるきっかけは、HBC記者時代に付き合いのあった国会議員NMさんが、「澤村君、小樽に新幹線が来るぞ。 土地を買っておけ」とのアドバイスだそうです。 半世紀たって、小樽にやっと新幹線が来ることになりました。 1947年二十歳のときのクリスマスに札幌北一条教会(朝日新聞懸賞小説「氷点」の作家、三浦綾子が1952年に洗礼を受けた教会)で小野村林蔵牧師より洗礼を受けました。 今でも、毎週日曜日には、小樽より札幌北一条教会の礼拝に路線バスで欠かさず出席しています。 80歳で免許返納するまでは、小樽から赤いスポーツカーで通っていました。 また国語の教師であったこと、、また報道記者の経験から、北海道新聞に何度か寄稿しています。 ここからは太平洋戦争末期の札幌一中(1941-45年)での思い出をいくつかご紹介します。 ひとつは雪戦会。 これはさっぽろ雪まつりの前身ともいえる冬の札幌市民の娯楽のひとつ、風物でした。 1月に入ると雪を固め、ブロックとして雪を背負って運び、零下10度以下の屋外で汗をかきながら二メートル以上の城を築く作業。 本番の雪戦会の詳細は他の記述に譲りますが、澤村さん曰く、野蛮な競技でなく紳士的な騎馬戦の延長のような競技だったそうです。 二つめは、これも毎年開催される全校討論会。 大講堂に全校生徒を集め、六時間にわたる大ディベート大会。 1942年11月全校討論会の論題は「国家をして真に偉大ならしむるには、武力に依るか、文化に依るか?」でした。 52人の弁士による大弁論が続きました。 これは、自分の心の中の意見ではなく、それぞれに割り当てられた立場を考えて論ずる場です。 最後に全校生徒が大講堂の左右に分かれ評決を決します。 なんとこの時代に「文化党優勢」との判定がわずかの差で出て、大討論会は幕を閉じました。 生徒日誌 日米開戦時 最後にもうひとつ、一中ではグライダー部に属していました。 校庭に置いたグライダーを部員十数人かで引っ張って数メートル離陸させるまで走るというものです。 いかに空を舞うのは大変なことか、ということを身をもって経験できました。 澤村さんはたいへん札幌一中を誇りに思っています。 一中時代の経験や友人との思い出が今の自分の血肉となっていると語ります。 私たち後輩も同じ思いでしょう。 澤村和雄さんのこれからの健康と活躍を祈ってこの文を閉じます。

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【2019最新】めざましテレビ大塚範一さんの今現在と病状は?『目が見えにくくなって来た』と語る姪の証言!

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大塚範一アナが急性リンパ性白血病で番組降板!闘病中に母が死去 2011年11月、めざましテレビの看板アナである大塚範一アナが急性リンパ性白血病で緊急入院しました。 その後、抗がん剤投与による治療専念することが発表されました。 それからしばらくして2012年3月、めざましテレビの卒業がフジテレビから発表。 そして最愛の母は闘病生活中に亡くなり、葬式にもでれなかったようです。 「2011年11月突然お休みを頂いてから4ヶ月。 復帰を目指して治療を続けてきましたが、今しばらく時間がかかることが明らかになり、この決定に至りました」 2012年2月28日、急性リンパ性白血病で抗がん剤治療を続けている大塚範一アナのめざましテレビ卒業を発表した。 現在の病状はどうなっているのか? 「抗がん剤の副作用が強くて、髪も眉毛も抜けて、顔はむくみがすごくて、ぱんぱんに腫れている状態のようです」(テレビ局関係者) 2012年2月25日、高島彩の結婚披露宴では、事前に電話でおめでとうと伝えるにとどまった。 ビデオレターはおろか、手紙に文字を続くこともできないほどの副作用に苦しんでいるようだ。 そんな大塚アナにさらなる悲劇が・・・。 2012年2月初旬に94歳になる母が亡くなった。 いまから18年前、当時NHKのアナだった大塚アナは、めざましテレビのキャスターに抜擢される。 そして悩んだ末、21年務めたNHKを退職し、45歳の時にめざましテレビのキャスターになる。 早朝の放送のため、3時起きとなった大塚さんを起こすのが、毎日の母の日課だった。 「母は、朝きちんと起きて、ちゃんとご飯の支度をしてから、範ちゃんを送り出していました。 弟がもう起こさないでいいから。 寝てていいからといっても、起こし続けたそうです」(2番目の姉) さらに、母は家事、選択など大塚の身の回りの世話をすべてしていた。 そんな辛い生活でも母は幸せだったという。 「ある日、母は私は幸せだったっていうんです。 母はそういうことを言わない人なんでびっくりしました。 毎朝、テレビに出ている範ちゃんが、母の誇りだった。 弟はテレビに出続けることが母への親孝行なんだと思っていたんでしょう」(姉) そんな母も2000年頃から、認知症を患うようになってしまった。 夜には徘徊するようになった。 それでも大塚さんは母の面倒を見続けようとしたが、仕事との両立はできなかった。 そのため、京都に住む姉が母を引き取ることになる。 そして自身が入院中に姉から母の死を聞く。 「母のことを伝えると、声もなく泣いていました。 親ですからね、自分の病気のこともあるし、情けなかったんでしょう」 息子として何もできぬ自分を責める後悔の涙。 体調はかなり悪く、通夜と葬式の出席もかなわなかった。 姉が続ける。 「詳しい病状は聞いていないし、聞かないようにしています。 お医者様にお任せしているだけで・・・。 10日周期で抗がん剤を打たないといけないと聞いています。 抗がん剤を打つと、吐き気が相当苦しいようです。 体調も良いときと悪いときが繰り返しあって・・・。 回復にはまだまだ時間がかかると思います」 大塚アナは抗がん剤治療の副作用にかなり苦しんでいるようです。 めざましテレビ復帰向け白血病奇跡の回復 性リンパ性白血病になり、11ヶ月に及ぶ入院生活をし無事に退院。 久しぶりに公の場に姿を現した大塚アナは、顔色もあまりよくなく、毛が全て抜け落ち、薬の影響でしょうか?顔がむくんでいました。 そんな大塚アナは、2013年春にめざましテレビ復帰を目標にしていたようです。 「帽子を被って散歩している大塚さんの姿を見かけることはありますよ。 復帰に向けて体力作りをしているようですね」(近所の住民) 2012年10月1日、無事退院をした大塚範一アナ。 2011年11月に急性リンパ性白血病のため入院してから1年。 テレビ復帰に向けて着々と動き始めていた。 2012年2月には、最愛の母が94歳で死去。 また3月には、18年間務めためざましテレビを卒業。 闘病生活は試練続きだった。 「入院直後から、抗がん剤を使った化学療法をはじめました。 この時期は、副作用で吐き気と目まいがして起きれなくなり、ただ寝て1日が過ぎる日が続きました。 母の死にも相当ショックを受けていました。 訃報を聞いた大塚さんは、人目を気にせずに泣いていました。 さらに2012年8月には退院する予定でしたが、後1ヶ月になった時に、感染症や合併症を併発し、2ヶ月間は命を失いかねない危険な状況でした。 大塚さんは、よく助かったなというのが実感ですと言っていました」(フジ社員) 闘病生活の時、大塚アナを励ましてくれていたのが、めざましファミリーだった。 退院後、久々にスタッフたちを食事に誘った大塚アナだが、自身の容姿の変貌の変化を気にしていたという。 「抗がん剤の影響で、頭髪がほとんどありませんでした。 そして顔が少し丸くなっていました。 大塚さんに、少し太りましたか?と聞いたら、体重は減っているんだけど、顔だけが丸くなったと笑っていました」 そんな大塚アナが一番気にしていたのが、高島彩アナのことだ。 5歳の時、父を亡くした高島アナは大塚アナのことを父のように慕ってきた。 「大塚さんを一番励ましていたのは、アヤパンでした。 メールを送ったのも、彼女が一番多かったのではないでしょうか。 また大塚さんも彼女のことを可愛がっていましたよ。 2011年10月にゆずの北川さんと結婚した際も、自分のように喜んでいましたから」(フジ社員) そして、最近になって大塚アナは、高島アナとの涙の再会をしたという。 「大塚さんが退院して一番に会いに行ったのも、高島アナだったようです。 大塚さんが鹿児島の霧島温泉旅行から帰ってきた数日後の10月下旬には、高島アナと北川さんとふたりに会ったようです。 それで催促された結婚祝いを手渡したみたいですよ」(制作スタッフ) 大塚アナは、病院を退院したが、病気は完治してるわけではない。 それでも大塚アナは諦めることはない。 「大塚さんは、みんなの支えがあったからここまでこれた。 感謝してもしきれないくらい。 その恩返しをしなければと言っています。 強い意志を持って2013年春に復帰を目指していますよ」(フジ社員) 一旦卒業しためざましテレビをまた復帰するために頑張っているようです。 大塚範一アナがめざましテレビの復帰を断っていた 急性の白血病になり、治療のため、めざましテレビを卒業という形で辞めました。 そして治療に専念し、目標は完治をしてのめざましテレビ復帰だったのですが、なんと復帰のオファーを断っていたそうです。 あれだけ復帰をすることを待ち望んでいたのになぜ? 「不思議な気分ですね。 もともとは自分の番組という気持ちが強いので、ゲストに来るのは違和感があるんですけど」 急性リンパ性白血病で治療していた大塚アナが2013年2月4日朝、1年3ヶ月ぶりにめざましテレビに生出演した。 そして4月から仕事復帰することを発表した。 しかし、めざましテレビではなく、知りたがりの後継となる生の情報番組「アゲるテレビ」のメインキャスターだった。 「2012年秋に退院の見通した立った頃から復帰番組を模索していく中で、当然、めざまし復帰の話も出たんですが、それはダメと大塚さん本人の意向があったそうです」(テレビ局関係者) なぜ、めざましでの復帰を断ったのだろうか? こんな事情があったそうだ。 「治療の必要はなくなったものの、完全に完治したわけではないという状態なので、再発の可能性もあるんです。 以前みたいに元気ですが、早朝番組のレギュラーとなると体に相当負担がかかりますからね」(番組関係者) 体調的に大きかったのが、仲間たちへの配慮だった。 「自分が突然の病気で休養して迷惑かけて、その後スタッフやアナが力を合わせて、やっと新しいめざましファミリーができあがった。 復帰したからといって、そこに入っていくのはあまりにも自己中で申し訳ないと言っていました」(同上) そんな事情の中で、復帰するにあたって譲れない希望が情報番組だった。 「闘病中の非常につらい時期を乗り越えられたのは、多くの視聴者からのメッセージだったそうです。 だからキャスターとして恩返しをしたいと考えているようです。 誰よりも自分の活躍を楽しみにしていた母の死に目に会えなかったことも大きかったようです。 この仕事を続けていくことで母への孝行になるとおもっているのでしょう」(同上) 白血病再発で骨髄移植手術は年齢的に難しい 白血病を完治させ見事に復帰し、さらに4月からキャスターとして新番組を担当する予定だったのに・・・。 退院後、5ヶ月という早さで白血病を再発させてしまった大塚範一アナ。 2013年3月15日、大塚さんは都内の有名寿司店を訪れていた。 この店は行きつけで、高島彩や軽部真一らも連れて行くことも多い。 長年の付き合いの店主とは気が置けない仲だ。 この日の大塚さんは少し元気がなかった。 話をしていてもどこか上の空で、笑顔はひきつっていた。 まぐろ、うに、穴子と3貫つまんだだけで、ビールはグラスに1杯、後はお茶に替えた。 そんな大塚さんを店主や常連客は心配そうに見つめていた。 そして翌16日に、急性リンパ性白血病を再発し、再入院することがフジテレビから発表された。 1ヶ月前の2013年2月4日には、めざましテレビに出演し、元気な姿を見せていたのだが・・・。 この病気は、血液のがんで一度治っても再発するケースが多く、生存率は25-40%と決して高くない。 芸能界では、カンニングの中島忠幸さんも2004年12月にこの病気と診断された。 1年半後にさい帯血移植を受けて成功したが、ほどなくして再発。 診断後からわずか2年後の2006年12月に亡くなっている。 大塚さんも一度は退院をしたが、病院側は退院にはあまり積極的ではなかった。 「再発しやすい病気ですし、病院街では感染症の危険もありますから。 病院としてはできるだけ退院させたくなかったそうです。 ですが、退院が延期になって落ち込んでいる大塚さんを見て、そのストレスが快復の妨げになっているのではないかと判断して退院を決めたそうです」(医療関係者) 生きる活力を見い出すという目標もあったが、彼には働かないといけない理由があったのだ。 「入院費が思ってた以上にかかったんです。 これからの治療費も必要ですし、休み続けているわけにはいかなかった」(フジテレビ関係者) (フジからは治療費はでていなかったのでしょうか?) 九州大学医学部教授は、大塚さんの再発について次のように語る。 「退院して5ヶ月で再発は早いですね。 復帰番組ということで、大塚さんには、相当なプレッシャーがあったんだと思います。 それがストレスとなり負担をかけ、再発を早めた可能性は否定できません」 大塚さんは再発の診断を受けると、すぐにフジに結果を使えたが、ショックのあまり声が震えて上手くしゃべれなかったそうだ。 ショックと悔しさを抱え、大塚さんは冒頭の寿司店に足を運んだ。 そして、帰り際に店主に声をかけ、他の客に聞かれないようにこう話したという。 「実は病気が再発しちゃって・・・。 参ったよ・・・。 いろんな人に迷惑をかけちゃった・・・」 そして、今にも泣き出しそうな声でこう言った。 「また入院するから、しばらく来れないかも知れないけど、調子がよくなったら、すぐ来るから・・・」 無理をしすぎての再発してしまったようです・・・。 大塚範一アナの現在は!激やせで杖をつかないと1人で歩けない 完治するにはとても厳しい状況だったようですが、あれから1年後の2014年、大塚アナの現状は。 2014年3月初旬の午後、ウォーキングをしている大塚アナの姿があった。 大塚アナは、11年11月に白血病が発覚し、抗がん剤治療を経て1度は退院し、テレビでの仕事も内定していたが、2013年春に再発し、入退院を繰り返していた。 そして、散歩中の大塚アナの容姿は、以前と比べてかなり痩せている。 歩行するのには杖をついている。 「大塚さんは2013年10月のめざましテレビ特番に電話で出演しましたが、姿を見せることはしませんでした。 その時は投薬治療の副作用などもあって顔が丸くなり、髪の毛も薄くなっていて、明るく元気な大塚さんのイメージとはかけはなれていたので、テレビの前に立つことは見合わせたそうです」(フジテレビ関係者) 大塚アナは、可愛がっていた高島彩と北川悠仁の結婚式に出ると約束をしていたようだが出席することができなかった。 そのことで、自分を奮い立たせるためにウォーキングを開始したそうです。 そして散歩中の大塚アナに週刊誌が直撃。 記者:復帰の時期はいつですか? 大塚アナ:お答えすることはできません。 現在療養中なので。 そうじゃなかったらどんどんテレビに出ていますよ。 僕も普通の状態じゃないので・・・。 これで失礼します。 「テレビ復帰のメドが立たないことに、大塚さんが焦りを感じていてもおかしくないでしょう。 4月からのレギュラー番組も、特番の出演も今のところありませんからね」(フジテレビ関係者) 大塚アナは激やせをしているというのは、薬の副作用の時と比べると激やせですが、健康だった頃の比べると老衰したような感じになっていました。 一時期より、状態は良くなっているのではないでしょうか? 大変でしょうが、頑張って復帰をしてほしいですね。

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